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記念法話   平成15年8月31日  中仙町 善法寺 落慶法要
 
落慶法要
 
花と種 落慶法要は仏教の華である。いろんな仏事が華と言える。仏教の華が咲くということは、仏教が生きているということである。生きて活動しているのである。華には種がある。一番最初に種がまかれたのは、2600年前である。お釈迦様がインドのブッダガヤで悟りをひらかれ、サルナートで弟子達に教えを説いたのが最初の種まきである。この種まきは初転法輪と呼ばれている。
初転は初めて回転したという意味である。法は仏法である。輪は車輪である。お釈迦様の説法が、凡夫衆生の煩悩を車輪のごとく押し砕いて進む様子を言ったものである。
蒸気機関車 法輪というと、思い出すのが東京駅の北口にある動輪の広場である。動輪は蒸気機関車の車輪である。広場に鎮座しているのは人気のあった蒸気機関車D51の車輪である。 蒸気機関車はイギリスで発明され、近代文明の始まりと言われている。この蒸気機関車は近代文明を乗せて、世界中を走り回り、近代文明を世界に広めた。日本でもつい最近まで走り回っていた。あの力強さと迫力とエネルギーには圧倒されたものであった。
 時空を超え お釈迦様の法輪も、かなりの迫力を持って走り回ったと思われる。最初はインド国内を走り回り、それからネパールを走り、世界最高峰のヒマラヤ山脈を越えて、チベットでは仏教国を築くに至った。さらに広大な中国大陸を走り回り、朝鮮半島を通って日本に入って来たのは、西暦538年であった。
種と栄養 今ここに、2600年の時間を超え、広大な空間を越え、落慶法要が営まれるということは、仏教はまぎれもなく生きているということである。生きているから華を咲かせるのである。種だけでは華は咲かない。栄養分が必要である。肥料が必要である。なにが栄養となったかというと、間違いなく檀家の皆さんの信ずる心である。
何を信ずる 何を信ずる心かというと、仏の教えである。仏の教えは無数にあるが、そのなかでも親鸞聖人が信ずる教えである。「念仏成仏これ真宗」と親鸞聖人は和讃で詠っている。念仏して仏になっていくことを信ずるのである。念仏の教えを伝えて下さった高僧7人を親鸞は「正信偈」の中で称えている。インドの龍樹、天親、中国の曇鸞、道綽、善導、日本の源信、源空の各高僧であり、親鸞は浄土7高僧と呼んでいる。この7高僧が伝えてくれて、親鸞聖人がすすめてくれる念仏成仏の教えを信ずる心である。
念仏って何 ?   それでは私たちが信ずる念仏とはなんだろうか。念仏とは何か、という問題はあまりに大きく一言では表現できないのかもしれないが、誤解を恐れず私なりに表現してみたいと思う。念仏は「窓」である。家の窓は、外の景色を見せてくれる。それは、昼だったり夜だったり、晴れの時もあるし雨の時も嵐の時もある。冬あり、夏あり、春も秋もある。いろんな景色を見せてくれる。念仏の窓もいろんな世界を見せてくれる。
無常 念仏という窓は、真実の世界を見せてくれる。真実の世界は無常の世界である。無常の世界は常なるものが一つもない世界である。
苦の世界 生あるものは必ず死を迎える。形あるものは必ず壊れる。絶好調にある者もいつもそうだとは限らない。このような世界で人間は四苦八苦している。四苦とは生老病死苦である。生きる苦しみ、老いる苦しみ、病気になる苦しみと死を迎える苦しみである。誰も逃れることの出来ない苦しみである。このような世の中で人間は不平を言い不満に思い、憤り激高し、文句を言い合い喧嘩をしている。まるで地獄のような世の中である。
楽の世界 無常の世界にはもう一つの面がある。常なるものが何一つ無い世の中であればこそ、どんなに苦悩のどん底にあっても必ずはい上がることができるという希望が湧いてくる。希望の世界でもある。夜目を閉じて、朝目が覚めなくても不思議ではない世の中で、今日も目が覚めた、

生きている、手が動く、足が動く、ご飯が食べられる。毎日が奇跡のような日々である。身体が悪くなって入院した人たちが、入院しなければならないとはなんと不幸なことかと嘆いていたら、病院の中にはもっともっと重い病気で苦しんでいる人たちがいっぱいいて、自分はまだ恵まれていると感謝した、という話もある。入院さえ出来ない人もいるかもしれない。
苦楽同体 四苦八苦の世界が苦の世界だとすれば、もう一つの世界は楽の世界である。仏は念仏という窓を通して苦だけでなく、楽の世界も照らし出してくれている。恵まれている世界を見せてくれている。念仏の窓からは光明が差し込んできているのである。
携帯用の窓 親鸞聖人の「正信偈」の中で、源信僧都をほめ称えている偈頌の終わりに「煩悩障眼雖不見

大悲無倦常照我」とある。煩悩が目をさえぎりよく見えないが、仏の慈悲心は常に我を照らしていてくれる、と教えている。念仏を通して見える世界のことであろう。 念仏は携帯用の窓である。行住坐臥どこへでも持ち歩ける。時々のぞいて見て欲しいものである。

反省と感謝 念仏を称える時、無常の世界が心の中に浮かび上がり広がり、不平不満だらけの自分を反省し、希望を与えられ生きていることに感謝する気持ちが湧き起こる時、念仏成仏ということになるのではないだろうか。
高まる声 念仏を称える声がさらに高くなり、さらに多くなると、落慶法要のような大きな華がまた咲くかもしれない。

 

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おときの話1   平成13年5月
 
深きみのり
 
真宗宗歌 おときで 真宗宗歌という歌の 練習をしました。「 ふかきみのりに あいまつる 」という歌詞があります。この 「 ふかきみのり 」 について 私なりに お話をさせていただきました。 「 のり 」 は 「 法 」 のことです。     
世の中のきまり 世の中には いろんな規則や きまりがあります。 家庭には家庭のきまりや 習慣や風習があり、 家庭を一歩外にでると そこには いろんな人間の集まりがあり、 それぞれのグループごとに各々のきまりや 規則があります。 町には町の、村には村の、県には県の 規則や条例と 呼ばれるものがあり、 国には国の独自の法律や憲法があります。 極端に言えば、 人間一人一人にそれぞれ異なるきまりごとや 意志があります。 自然界の ありとあらゆるものに それ独自の生き方があり、 何一つとして同じものはありません。これが相対的な世界における法則です。  
自然のきまり 一方、 いつでもどこでも、 時代や場所を超えて 変化することのない法則もあります。 「法」の字が示すように、水は 高いところから低いところに 流れ(去)るものです。 これは自然の法則の一つです。 科学の研究対象となる法則でもあります。自然の法則は 変化することはありません。 絶対です。 遺伝子の組み替えなど、 人間の手によって 変化させられるものもありますが、あくまで一時的なものであり、 そのひずみはかならずいつか自然に正されます。  
因果応報 仏は この自然界の法則には 因果応報という面がある と言います。 水は高いところにあれば 下に落ちるのです。 原因があるから 結果があるのです。よい原因があるかよい結果があるのです。 悪い原因があるから 悪い結果があのです。の因果応報の法則によって人間を苦しみから 救おうとしてくださるのが 仏なのです。
仏の法 仏の説かれる 自然の法則を 仏法と言い、 「深きみのり」と言います。高い所にあるものは 絶えず低い所へ向かいます。常に動いています。 水のように 流れています。 常なることはありません。 無常です。 因果応報の法則は 無常の法則でもあります。
救いの法 この世が 無常であればこそ どんな絶望の淵にいても いつまでも 同じ状態であるわけがありません。 必ず 抜け出すことができます。仏法によれば、 良い原因があり 縁があれば すぐにも抜け出せるということです。そのような縁が無ければ、 そのような結果にはなりません。 縁が必要です。 絶望という原因があり、 仏という縁が あります。 絶望が 悪いわけでは ありません。最悪の絶望であれば、 それ以上悪くはならないで 後は 良くなるだけです。絶望も良い原因に なります。苦しむ 人間を救いたい という仏の願いが 縁となります。仏は 念仏に あらゆる功徳をこめて 私たちに 与えてくれています。 念仏が 具体的な 直接の縁となり、 私たちを救ってくれます。  

 

 

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おときの話2   平成13年6月
有無をはなる
無常 この世は常なることはありません。 はかない夢のようなものです。今日は幸せでも明日はどうなるかわからない無常の世です。この世が常ならずはかないものであればこそ絶望のどん底にあっても 希望の光が見えるのです。はかなさを受け入れればこそ見える光です。はかないから悪い、劣っている、損だなどと言って捨ててしまえば、希望の光も見えなくなります。受け入れるのです。善いとか悪いとか、優れているとか劣っているとか、人間の浅い簡単な判断で片づけてしまっては、とりかえしのつかないことになります。  
節分 節分に「鬼は外、福は内」と言いますが、鬼がいなければ福がどんなに有り難いものかわからなくなります。鬼は外にいても、遠くでなく近くの外にいるからこそ福の価値があるのかもしれません。外に追い出され、存在価値さえ認められないとすれば鬼もわいそうです。ちなみに、親鸞聖人は仏様の本当のお客様となる人は悪人だと言っています。( 悪人正機説 )お医者さんのお客様が病気の人であるように。

相撲 相撲の春場所で、貴の花が膝の故障にもかかわらず武蔵丸を投げ飛ばしました。満場が大喜びをし、総理大臣も興奮しました。一方の武蔵丸は「貴の花が怪我をしているとわかっていては、全力は出せない」と言ったそうです。もっともです。フェアープレイ精神といいます。仏心(ほとけごころ)かもしれません。
雛祭り 雛祭りには、お雛様が飾られます。大人たちは子供たちに「一番上の段にいる 内裏雛のようになりなさい」と言います。男は天皇のように、女は皇后のようにということです。一番下段の足軽は、重いものを持ち、走ったりしなければならないから、あんな者にってはいけないと言います。 もし、神々しい天皇や皇后のようになれない子供たちは、どんな思いをすることしょう。

良い子 悪い子 大人の願望や都合にあった子供がよい子とされます。大人の期待に添わない悪い子はどうしたらよいのでしょうか。生まれつき愛想がない子もいます。にこやかな笑顔のできない子もいます。勉強だって、走りっこだってそうです。優劣、選別、損得、善悪、差別などは分別心より起こります。物事を相対し比較して価値を計ることは正しいことなのでしょうか。対立や争いは、比較し分別するところから起こるのではないでしょうか。
分別心 人間の分別心は、金持ちは善く、貧乏は悪いと判断します。果物や野菜や動物の皮は捨てて中身だけを食べます。皮にだって豊富な栄養があるのに。
有無をはなる 親鸞聖人は分別の心を捨てなさいと言います。価値が有るとか無いとか、差が有るとか無いとか、そのような 「有無をはなれなさい」と言っています。有無を離れた世界では、争いごとが 水に流されています。この世界を 「 浄土 」 といいます。
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おときの話3   平成13年7月18日
無碍光如来
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏はインドの言葉です。日本語に訳すと、帰命尽十方無碍光如来と訳します。「帰命」は「まかせなさい」という仏の心であり、「おまかせします」という私たち衆生の心です。「尽十方」は、東西南北、南東南西、北東北西、上下の十方向であり、あらゆる方向のことです。「無碍光」は、障碍となるものが全くない光という意味です。「如来」は真実から来るものという意味です。 仏の慈悲の心の光は、いつでもどこでも至らないところはない。そのような心の光を持っているのが仏ですよ、という意味です。
井の中の蛙 「井の中の蛙 大海を知らず」ということばがあります。世間知らずとか、世の中を知らないとか、物事をよく知っていない人のことをいいます。狭い世界だけに住んでいて、外のことを知らないと、正しい判断はできません、という格言です。
外国旅行  私も外国旅行をしたことがありました。一週間も日本を離れ、日本のご飯を食べないでいると、日本のご飯のおいしさが猛烈に恋しくなります。日本食のすばらしさを知らされた思いでした。それも日本を離れたからこそ知ることができたのだ、と思っていました。外国の文化に触れてこそ日本の文化のよさがわかるのだ、と思いこんでいました。

ちいさな世界  「井の中の蛙 大海を知らず」とそしらばそしれ、「井の中は 月もさし込む 花も散る」と負けずに言った人がいるそうです。井戸の中という小さな世界で一生をすごす蛙にも、自然の月の光も入ってくるし、春には桜の花も舞い込んでくる、そういうすてきな環境もあるのだ、というのです。 外国旅行なんかしなくても、身体の調子が悪くて三日も食事をしないでいて、初めて口にする食べ物のおいしさは、何物にも代え難いものです。昔

は交通の便が悪く、となりの村へさえほとんど行ったことがないという人もいたに違いありません。一生のほとんどを自分の生まれた村で過ごす人も少なからずいたことでしょう。そんな人たちは、皆幸せを感ずることがなかったのでしょうか。そんなことはないでしょう。角館というちいさな町のことを考えても、春は春で桜咲き、山菜取りがあり、夏には鮎釣り、盆のさまざまな行事、秋は秋でキノコ取り、みのりの秋を楽しめる、またお祭りもある。どこに行かなくても、町の中での生活に楽しみを見出し、十分に幸せを感じている人たちも大勢います。 
「五体不満足」の作者は手も足もなく、他の人から見ると不幸せこの上ないように見えます。しかし、この作者は自分なりの幸せを感じていると言います。普通の人たちには見えないものが見えるし、感ずることができると言います。

浄土 阿弥陀経というお経の中に「青色青光、赤色赤光、白色白光」という言葉がでてきます。安養浄土では、青い色は青い色なりに美しい青い光を放ち、赤い色は赤い色なりに美しい赤い光を放ち、白い色は白い色なりに美しい白い光を放っているそうです。皆それぞれ色は違いますが、それなりの美しい光を持っているということです。
お釈迦様  釈迦は、誕生してすぐに立ち上がり、「天上天下唯我独尊」と言ったそうです。この世で自分が一番尊い、ということです。お釈迦様が生意気な赤ん坊だったから、自分のことを尊いといったのではありません。他と比較しているのではありません。自分は自分なりに最高であり、幸せ者だと感謝しているのです。
無碍光  仏の慈悲の光は、何物にもさえぎられることがなく、いつでもどこでも私たちを照らしていてくれます。私たちがそのことに気づかずに毎日を生活しているだけなのです。 他の人と比べることはありません。自分が心地よければそれでいいのです。他の人はもっと心地よいだろうなどと邪推する必要はありません。私たち一人一人に与えられている独自の美しさを楽しめばよいのではないでしょうか。

ベットの上でほとんど一生を過ごさなければならない人でも、自分なりの幸せを見つけることができるそうです。

   
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おときの話4   平成13年9月19日
形 と 中 味
作法  葬儀や法事には、儀式があり作法があります。数珠の持ち方とか、お焼香の回数とか、宗派によって違います。また、地方の習慣やしきたりによっても違います。本山のすすめる作法もありますが、その土地のやり方でもよいとされています。

 容器がなければ物を入れられないように、形式がなければ、どこにどのように心を込めたらよいのかわかりません。それで儀式が求められ作法が求められるようです。ちなみに、浄土真宗ではお焼香は2回と決まっていますが、なぜそうなのか私はわかりません。あまり調べたいとも思いません。それほど重要とも思われませんので、1回でも3回でもとやかく言わないことにしています。 

テロと戦争  最近、テレビをみても新聞を見ても、アメリカの復讐のための戦争とか、イスラム教のオサマ・ビン・ラデイーンという人によるテロの話でいっぱいです。双方の言い分によると、戦争もテロも「聖戦」であり正義の戦いだそうです。いくら聖戦でも、人間の命が奪われることにかわりはありません。表面的、形式的に

は正しい行いなのです。しかし、聖戦の裏には、人間の生々しい復讐心、恨み辛み、邪念妄念妄想が渦巻いています。仏教では、この心を迷いと言います。こんなことを、まだあの恐ろしい惨事が脳裏に焼き付いている今、声に出して話すとみんなに怒られそうですが、真理は真理として見つめていかなければなりません。チベットからインドに亡命中の仏教の指導者ダライ・ラマは、復讐に対して復讐をもってしても解決にはならない、と言っています。

 六道輪廻というのは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界を生まれ変わるという仏教思想ですが、本当は、生きている私たちがこの世界をあっちに行ったりこっちに行ったりしている様子をあらわしているのではないでしょうか。迷いの心に従っている限りは、六道輪廻から抜け出ることはできません。いつか、どこかで迷いを断ち切らないと、繰り返しになります。 

peace peace peace peace peace peace

政治経済宗教 本来、政治や経済や宗教などは、人類の幸福を追求するためのシステムであるはずなのに、いつのまにか特定の人間の幸福だけを求める道具にされてしまっています。自分だけの利益追求の手段になっているのです。
国県町  それぞれの国が、県が、町が、自分の利益のみ追求するとどうなるでしょうか。戦争です。本当の利益はそんなことでは手に入りません。人類全体のこと、自然のこと、地球のこと、宇宙のことまで考えを至らせなければ、本当の人間の利益を手に入れることはできないでしょう。
家庭  一国を背負って立つような人間でも、小さな家庭の中で生まれ、育てられます。家庭は世界平和、宇宙平和の根本をなすものです。家庭という世界をないがしろにすると大変なことになります。外見的には、家庭は小さい世界ですが、全宇宙の縮小でもあります。すべてが詰まっています。

 私は、私の子供が産まれた時、なぜか不思議な気がしました。本当に自分の子供だろうか?(変な意味ではありません。誤解のないように) 自分が1人の人間をつくるなんてことができるのか。科学の粋を集めても虫の一匹もつくることができないでいるのに、平凡な人間の私にそんなことができるわけがないと思ったのです。

 本当は、私が人間を造ったのではなく、大自然が私の子供を造ったのです。だから子供は私の所有物ではないのです。子供にとっては物足りない親かもしれませんが、冷たい親かもしれませんが、私は子供を、自分の世界に閉じこめておくことはかえって残酷なことだと思うのです。表面的には、子供ベッタリの親は愛情が深そうに見えますが、そうでしょうか?子供を私物化してはいないでしょうか。子供は人形ではありません。

 形の上では、子供の親は私ですが、本当の親は大自然です。この真実を知らないと、家族もろとも六道輪廻をさまようことになります。  

教行信證  昔から、仏のえに従って、を修めると、さとり)をひらくことができると言われてきました。教行證のみが大事にされてきました。親鸞聖人は、行の中にはがなければならない、と説きました。形だけの行では意味がないと考えました。中味が大事だというのです。

 信は信ずることです。仏の心、慈悲の心、優しい心を信じなさいということです。 仏は念仏に慈悲の心をこめて、悩める人間に与えてくださいました。 念仏を称えることは、立派な行であると言います。この行の中には信ずる心さえもこめられています。

 念仏を称え、慈悲の心をいただき、信心をいただき、感謝の心もいただく。そこには自然に反省の心も備わっている。これらの心は異なるものではなく、一つの心だといいます。 

人間は ざる  ざるは、水を入れてもすぐに漏れてしまい、決して水が留まることはありません。人間という入れ物もざると同じで、せっかく仏よりいただいた慈悲の心や信ずる心もすぐに漏れてしまい、なにもなくなってしまいます。そのような時は、ざるを水の中に浸けるとよいです。朝も昼も晩も念仏を心に持ち、時には口に出して称えると、仏の世界が心に広がります。慈悲の心も常に注がれます。

 煩悩によって眼が遮られる時でも、念仏を称えると仏の心が私たちの心に注がれます。心の中には優しい慈悲の世界が開けます。

念仏  「南無阿弥陀仏」は形です。これだけでは意味がありません。中に何が入っているかが、大事なことです。仏は大切なものをすでに念仏に込められております。安心して念仏を称えてみましょう。
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おときの話5   平成14年8月
孫 悟 空
寺の外で 角館町の特別養護老人ホームである「桜苑」で、盆供養ということでお経を上げて法話をさせていただく機会がありました。今年で3回目となりましたが、仏教会からの派遣ですので来年はどうなるかはわかりません。私にとりましては、めったにない寺の外での活動(おとき)ということで貴重な機会ですので、大変ありがたいことだと感謝しております。
大自然の中 中高年の登山が盛んになっています。厳しい人生の荒波を乗り越えて生きてきた人間にとって、心と身体の休養が必要となるのかもしれません。山中のブナやナラの林の中にいると、なぜかほっとします。山の懐に抱かれて、大自然にすべてをまかせてしまいたいよう持ちにさせられます。渓流の景観のすばらしさ、尾

根の空の広さと空気のおいしさ、なぜこんなにも山に心を引きつけられるのか不思議なことです。私たち人間は、大自然の中に生きているのに自然から離れている生活しているからかもしれません。山の中では、自然の本能が呼び起こされのかもしれません。
 本堂の中 本堂にお参りに来られる檀家の方々の中には、本堂に座っているとそれだけで落ち着いてくる、と言われる人が結構多くおられます。本堂には、人間を落ち着かせる何かの働きがあるのでしょうか。
 悟空参上 中国の物語に「孫悟空」という有名な物語があります。三蔵法師という偉いお坊さんが西の方の遠い国へお経を求めて旅をしますが、その護衛役として猿の化身である孫悟空と豚の化身である猪八戒、それに河童の化身である沙悟浄が仏様から使わされました。孫悟空は手のつけられない暴れ者で、時々仏様から叱られるのですが、ある時仏様に言いました。「仏様はいつも偉そうなことを言っていますが、一瞬の内に地の果てまで飛んでいけますか。私は、この金斗雲に乗ってすぐにでも地の果てまで飛んで行けます。」と言い、飛んで行ってしまいました。悟空はすぐに地の果てに到着しました。地の果てには五本の柱が立っていました。悟空はその柱の中の一番高い真ん中の柱に「悟空参上」と書きました。仏様のもとに帰った悟空は、「どうだ、すごいだろう」と自慢をしました。すると仏様は手のひらを悟空の前に差し出しました。その手のひらの中指には「悟空参上」と悟空が書いたとおりの文字が書いてありました。
仏様の手のひらの上 孫悟空がどんなに能力のすぐれたものでも、どんなことをしようが、仏様の手のひらの上の世界のことである、ということでしょう。私たち人間の世界も、どうあがいても仏様の掌(たなごころ)でのことということでしょうか。そうすると、仏の世界は大自然と異なるものではないでしょう。無限の世界であり、大宇宙と同じものということになります。仏のことを「無量寿仏」とも言います。無限なるものということでしょう。
本堂と自然 本堂に座した時に感ずるものは、ブナの林の中で感ずるものと同じものではないでしょうか。仏も本堂も、仏教そのものが表現しようとしているものは、私たちの身の回りにある自然の世界なのではないでしょうか。自然の中に生かされていながら自然の有り難さに気づかずにいる私たち人間の目を、しっかりと開いてくださるのが仏なのではないでしょうか。
反省と感謝 私たちがこの世に生まれたのは私たちの意志ではありません。死んでいくのも私たちの意志ではありません。生きているのさえ、人間の意志によるものというよりも、自然に生かされているというべきなのかもしれません。夜、目を閉じて眠って、そのまま目を開けずに往生しても不思議ではないようなこの世です。私たちが今ここに生きていることのありがたさに感謝の気持ちが湧きます。朝にため息をつき、昼に文句を言い、夜にふてくされ、一日中不満でいることに反省し、生かされて生きていることに感謝を表す言葉が「なむあみだぶつ」です。
                  南 無 阿 弥 陀 仏
   
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おときの話6   平成15年5月
遭  難
山仲間 私の山仲間は、皆私より年上で退職した方ばかりです。なぜそうなったかというと、私に春山を教えてくれた方々がたまたま年上だったということです。お陰様でいろんなことを教えてもらえます。その中に生物の先生がおり、高山植物の名前などいっぱい教えていただきました。が、いくら聞いても私の頭はすぐに忘れてしまうので、この生物の先生と離れることができません。私の記憶力の悪さが仲間の絆を強くしているのかな?とも考えたりしています。一年に一回は必ず春山に登ることにしています。
出発 今年の4月、秋田駒ヶ岳に登りました。総勢三名です。朝8時頃に駒草荘の裏手から登り始めました。全員山スキーを背中に担いで登るので結構大変です。天気は快晴この上なしでした。多分11時頃に八合目の小屋に着きました。私は登るのに必死で、時間をあまり意識しないので、正確な時間を覚えていないのです。他の仲間がしっかりしているのでまかせきっているからかも知れません。
ガス 八合目の小屋で手作りのおにぎりを食べている内に、外の景色は一変してしまいました。ガスがかかって周囲が見えなくなってきたのです。最初は一瞬どうしようかととまどったのですが、自分の家の庭のような駒ヶ岳だから心配ないということになりました。それに国際スキー場の方から頂上を目指して登ってくるもう一人の仲間がいたのです。知らないふりをして下山もできないだろうという気持ちもありました。
合流 私たちは頂上の下の阿弥陀小屋を目指して登り始めましたが、ガスは濃くなっていく一方でした。視界3メートルくらいでした。小屋の近くで大声で他の仲間に呼びかけてみると、幸いにかすかに応答があり、無事に合流できました。小屋で小休止した後、下山を開始しました。
遭難か 日本の百名山をすでに征服し、2回目の挑戦をしようという山のプロのような仲間もいたので、私たちは安心して下山を始めました。しかしだ・・・。そこに落とし穴があったのです。私たちが登って来た時に雪の上に残した足跡をたどればよかったのに、スキーのスピードにまかせてあらぬ方向に行ってしまったのです。さらに、あちらこちらと走り回ったせいで、どのスキーの跡が上から滑ってきたものかさえ判断できない状態にな

ってしまったのです。真っ白い濃霧の中で方向感覚もまったくなくなってしまいました。自分の庭の駒ヶ岳ということで、私は磁石さえ持参していませんでした。が、そこはプロ。百名山の征服者は磁石を持っていました。私が考えていた南北の方向は全く逆でした。救援のヘリコプター「やまどり」や「なまはげ」のお世話になったら、秋田県中の話題になってしまいます。他の仲間は退職者ですが、私は現役です。大変です。
方向感覚ゼロ 自分がどこにいるかわからなければ、磁石や地図も役に立ちません。景色は白以外なにもありません。頭の中も真っ白です。こんな時太陽の光が差し込んでくれれば、問題はすぐに解決するのに。風が吹けばガスも飛び散るのに。奇跡は起きません。確実に安全に下山する道があったのにその道を選ばなかったことを後悔しました。反省しました。迷ったと気がついた時点で、すぐに戻ればよかったのに・・・。迷う時ってこんなものかもしれません。わかっているのに、うっかりしてしまう。
先人の教え 先人はいつも教えてくれています。自然を甘く見るな。迷ったらすぐに引き返せ。多くの先人の教えを大事にしなかった報いが遭難です。
親鸞の教え 人生においても、昔から多くの教えがあります。人生に迷わないように、迷ったらどうするかなどを教えています。親鸞は「念仏の道」を教えています。私たち真宗門徒は念仏を磁石としています。念仏は、私たちが迷わないように常に反省させてくれます。

「本当にそのような生き方でよいのか」。念仏が太陽になり、風になり、濃霧を晴らしてくれます。念仏を通して生きるべき道を照らしてくれます。そのような不思議な念仏ってなんだろう?と疑問を持つことことが、念仏の道の第一歩です。

  煩悩障眼雖不見  大悲無倦常照我
   
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おときの話7   平成15年6月
親と子はどっちが年上
先生は偉い 大学を卒業して、教師採用試験を受けて高校の先生になった時、私はは先生になったと思いました。当然のことかもしれないが、今はそれは自然ではないような気がしています。採用試験に受かるとすぐ先生になって、一点差でも落ちた人は先生ではない。なんか変な気がします。本当の意味での先生というのは、

経験を積み重ねて徐々になっていくものではないでしょうか。先生という理想を求めながら先生になっていくのですが、理想の先生には結局はなれないでしょう。人間は完全なものにはなれない存在だからです。だから、だれも理想の先生にはなれないのです。完全にはなれなくても、理想に向かって進み続ける、これでいいのか、これでいいのかと反省を続けて先生になっていくのでしょう。

結婚した時は、自分は夫になり主人になったと思いました。子供ができて自分も親になったと思いました。しかし親になったという実感はありませんでした。子供を見ても自分の子という気がしなかったし現実味がありませんでした。
子はプロ 子供にとっても、自分はこの親の子という実感はないだろうし、そんなことはどうでもいいでしょう。生きるために必死なのですから。しかし、子供は生まれた瞬間からプロの子供です。純粋に子供の資格を持っています。誰かに育てられる権利を持っています。子供は生きている限りは成長を続けます。成長を続けて大人になります。
親の資格 一方、親は子供を産んだ瞬間に親の資格を持つのでしょうか。医学的には親になっても、本当の意味では親としてはゼロ歳でしょう。時間が経ってもいつまでもゼロ歳の人もいるかもしれません。親は、資格はなくても子供を育てる義務があるし、それが自然の理です。法則です。しかし、親として資格がなければ当然に子供と共に成長し、資格を取得しなければならないでしょう。
ど っちが年上 子供が成長を続ける限り、親も成長しなければ、親としての資格はできません。子供が一歳になったら、親も一歳にならなければならないでしょう。よく親が口にするのは「親に向かってなんだ、その口の利き方は、どっちが年上なんだ」という類の言葉です。どっちが年上なんでしょうか。親でしょうか、子供でしょうか。
親の成長 親は、自分が親としてりっぱな資格があると思った瞬間に成長を止めてしまいます。どこまでも子供と共に成長しなければならないのに。いくら年を取っても親であるためには親として成長しなければなりません。完成はありません。
完成した人間 私たち人間としても完成した人間というものはありえないでしょう。自分はりっぱな完成した人間だ、悟りを開いた人間だと思いこんだら、もう反省もしないし成長もしないでしょう。それどころか、他の人を目下に見たり、馬鹿にしたり、不完全だと思うようになるでしょう。
自覚 心の中にはどうしようもない煩悩が燃えさかり、自分ではどうしようもない、どうしようもない人間なんだと確信するところから、反省をする心が湧いてくるのでしょう。謙虚になります。控え目になります。同じく苦しんでいる人に同情することができます。みなが同じに悩んでいるんだと。他を憐れむ心は慈悲心です。仏の心です。どうしようもない自分に気付くところから、悩みを共有する仲間に出会え、他と共に生き、成長していくことができるのでしょう。 
不完全な自分 生徒であろうが先生であろうが、子供であろうが親であろうが、人間として共に生きることができるのは、不完全な自分に気付くことができる時ではないでしょうか。不完全な自分に気づいた時に発する言葉が「なむあみだぶつ」です。不完全な自分に気づかせてくれるのも「なむあみだぶつ」です。  
  ナムアミダブツ
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おときの話8 平成16年5月
幸せの方程式
太陽と雨 天気の良い日は、良い天気で良かったですね、と私たちは言います。その時私たちの心の中では、雨や雪は悪いものだとは思ってはいないでしょう。天気が良いから気持ちも良いという程度ではないでしょうか。雨だって花や作物や動物には欠かせないものです。太陽と同じくらい私たちにとっては必要なものです。砂漠地方では、雨が降ってよかったですね、と言うに違いありせん。恵みの雨と言って大切に思われています。
どちらが大切 太陽の光と雨を比較してどちらが良いのか、賛成多数できめたり科学的数字をもって計ったりするものではないでしょう。太陽の光だって強すぎると害になります。雨だって多すぎると洪水になります。どちらもほどほどでちょうど良く、絶対に必要なのです。
うちの子とよその子 子供が生まれると、他の子供と比較してうちの子供のほうが体重が多いから勝った。うちの子はよい子だ、となることもあります。体重が身長であったり、顔立ちであったり肌の色であったりします。ついには、この子の親はあの子の親より金持ちだからこの子は幸せだ、となったりします。別の子の親がもっと金持ちだったらこの子はどうなるのでしょうか。
成績の比較 子供が小学校に入ると、勉強や運動で比較されます。テストで百点取ると、よい子だね、とほめられます。百点をとらないと悪い子になってしまいます。隣の子より良い点だとよかったよかったと言われます。そうでないと・・・。運動会では走りっこ。ビリの子には光が当たりません。中学、高校ではスポーツ、進学で競争です。勝たなければ価値がありません。勝つということは相手を負かすことです。
勝つまで戦い 社会人になるころには、子供はりっぱな競争者になっています。何事においても比較して勝たなければなりません。勝つまで戦います。イスラエルやイラクを思い出してしまいます。
オリンピックの覇者は勝利者でしょうか。頂上に立った瞬間に、どこかでもっと強い者が育っているのです。強さを比較していても際限がありません。 比較では勝利はできません。比較で幸せを計ることはできません。上には上があります。
方程式 西洋の哲学者が「幸福の方程式」というものを考えました。  幸福=資産/欲望        資産というのは、財産だけでなく個人の能力であったり資格であったり家族であったり、社会的な地位や名誉だったりするのでしょう。これが大きいほど幸福だというのです。だから人間は頑張ります。自然を破壊しても富を得ようとします。経済発展を遂げようとします。    
富は限界 地球上の富にも限界があります。そろそろ限界です。それなのに人間は爆発的に増加しているのです。日本は違いますが、同じ地球上で人口が増えているのです。中国やアフリカです。これは日本にとっても同じく大問題です。
欲は深く 西洋の哲学者は言います。答えは簡単です。欲望を小さくすればいいんです。そうすれば幸福の値は大きくなります。その通りですが、それは方程式の上でのことです。人間は方程式ではありません。数値でもありません。欲望を抑えきれるようなすぐれた人間は歴史上からいってもそんなにいないでしょう。もしかしたら、絶無かもしれません。すくなくても、私の周囲には簡単に欲望を小さくできそうな人は見当たりません
仏の方程式
それでは人間は幸福になれないのでしょうか。仏さんに幸福の方程式を作ってもらうとどうなるでしょうか。多分このようになると思います。
       
        幸 福 = 資 産 / 欲 望 + α

資産がどんなに小さくてもいいのです。欲望がどんなに大きくてもいいのです。α(アルファ)があればいいんです。αは生きている喜びです。なんだそんなことか、とがっかりするかもしれませんが、真実です。
生きている喜び
 先日、イラクで日本人が3人イラク人の戦士に拉致されました。何日も消息がわかりませんでした。3人の人質を解放すると宣言されてからもしばらく解放はされませんでした。その後ようやく解放された時、日本人3人の家族は次のように言いました。「生きていてよかった」3人の人質も同じように言いました。生きているということは、理屈抜きですごいことなんだなあ〜と私は実感しました。
さとり
仏さんは煩悩の闇を晴らしてくれるとよく言われますが、闇が晴れて何が現れるかと言いますと、私たちが生きていることの有り難さであり、尊さではないでしょうか。お釈迦さんは生まれてすぐに三歩あるいて、「天上天下唯我独尊」と言ったそうです。この世の中で自分だけが尊いという意味ではありません。人間一人一人それぞれが尊い存在であるという意味です。他とは比較できない尊さです。それぞれが最高なのです。絶対的な価値があるということです。
 念仏を称える時このような考えが心に浮かんでくることになれば、救われるという状態になるのではないでしょうか。
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おときの話9 平成16年6月
感  動 
きれいな石 私は子供の頃、田沢湖の砂は美しい、透明の小さな砂は貴重で高価な物に違いないと信じていました。それで、田沢湖に行った時は必ず透明の砂の粒を拾って来たものでした。角館の桧木内川の石でも、水の中にある石のなかにはびっくりするほど綺麗な模様のものもあります。
石拾い 私の姪が小さい時、小学校に入る前頃だったと思いますが、桧木内川へ連れて行ったことがありました。水辺で遊んでいる時、私は何の気もなしに「この石はきれいだなあ!」と言ったのですが、それを聞いていたのか、姪は一生懸命になって石拾いを始めました。時々「この石はきれい?」と私にたずねながら、石を拾っていました。その時私は、そんな石を拾ってどうするんだ、と思っただけでした。
感じて動く 後年、相田みつお氏の作品に出会った時、これだと思いました。相田氏は歌人なのか、詩人なのか随筆家なのかわかりませんが、東京の銀座には「相田みつお美術館」というものがあるそうなので、もしかしたら美術家なのかもしれません。またはすべての分野にわたる人物なのかもしれません。なにはともあれ、相田氏の作品の中に「感動とは 感じて動く と書くんだなあ」という作品があります。人間は、理論や理屈では本気で動くものではない、と言うんです。
動かない 私は学校で29年間教鞭をとっていたのですが、生徒を心から動かしたとか、立派な生徒を育て上げたというような記憶はまったくありません。生徒を良くも悪しくも変えるということに自信がありませんでした。人間は簡単に変わるものでもないし、変えることなんてできるものではない、という意見を持っていました。自分自身をどうすることもできないで苦しんでいるのに、他の人間をどうこうするなんていうのは荒唐無稽だと思っていました。ただただ授業で知識を少しばかり与えてやることしかできないのだと思っていました。
動いた 相田氏は、人間は感じて動くと言うのです。感動が人間を動かすというのです。「この石はきれいだなあ!」と私が言った時、私の姪も私と同じように感じて、「よし、このような石を集めよう」と動いたのだと思われます。
体全体が動く  人間は感じなければ動けないようです。頭の中の理屈に従って動いたとしても、すぐに苦しくなっていやになってしまいます。勉強だってそうです。入試のための受験勉強は苦しいです。勉強が手段だからです。興味を持って探求する勉強だったら楽しいでしょう。勉強そのものが目的だからです。楽しいと感じて動けるからです。日常生活だって手段である限りは苦しい日々でしょう。毎日毎日が目的となれば楽になるのではないでしょうか。
 理解は頭の一部のことです。感動は身体全体のものです。全体が感じて動くのですから矛盾がありません。体のどこも拒絶しません。
汚れた心 念仏を称えて救われていくという仏さんの教えはどうでしょうか。私達は念仏の意味を分析して、自分で考え、他の人からも教えてもらっていても、どうしても信じられないというような状況があるのではないでしょうか。そもそも信じようとする私達の心は、すでに煩悩に汚れているのですから、純粋に物事をとらえ、真実の姿を観ることなどできそうもないのですから、信ずる心など生ずるわけがありません。
不思議な念仏 このような情けない哀れな私達人間を見た仏さんが、このような人間こそ救ってあげなければいけないと決心をされ、私達にはとても理解も想像もできないような不可思議な念仏を準備して下さいました。理解しなくてもいいのです。難しいことも苦しいこともありません。ただナムアミダブツと称えればいいのです。ただ念仏を称えるところに救われていく道が準備されています。念仏には仏さんの慈悲の心がついてきます。苦しむ者を救ってあげたいという心です。
感じて動く第一歩 念仏についてわけのわからないことを言っているようですが、少しでも感じて動き、口にナムアミダブツと出てくれば成功です。何かを感じてまず称えてみることです。それが第一歩です。そして全てです。目的です。結果です。感じて動けるかどうかです。一瞬一瞬の新しい時間に踏み込んでみるのです。新しい世界が次々と現れてきます。すべてがお気に入りの景色ではないかもしてません。それでも身体は拒絶しないでしょう。自然だからです。自然に身をまかせることだからです。
念仏の効用 毎日の生活が目的となり、感じて動ける日々であれば楽でしょう。念仏はそんなことを教えてくれます。


おときの話10   平成17年6月
心 象 風 景 戻る
桜の季節
今年の桜は、ゴールデンウイークの期間に合わせたように丁度良い時期に咲きました。お天気にも恵まれました。例年になく人出も多かったようです。角館の町民は良かったと喜んでいました。
 長い冬が終わって雪が溶けたところに、急に明るくなったように豪華な桜が咲きますと、暗闇から解放されたような気分になり、ますます桜が美しく好ましいものに見えてきます。浮かれた気分になり、外に飛び出してピクニックや宴会をしたくなります。
花より団子 私たちは桜を見た時に、本当に桜そのものを見ているのでしょうか。桜を通して団子を見ているということはないでしょうか。花より団子です。私は酒や宴会を連想してしまいます。土手を歩いていると、川岸にゴザを敷き食事を楽しんでいる人々がたくさんいます。露天で買い物や買い食い、買い飲みを楽しんでいる人もいます。
芸術家は 写真家や画家だって、自分の目を通して見た独自の桜の美しさを追求しているのではないでしょうか。ピカソが桜を描いたら、誰も見たことの無いような桜を描くでしょう。樹木医が桜を見たら、桜の育ち具合や健康に目がいくでしょう。
心で物を見る 人間は物を見る時、目で見るのですが、目は物を映し出すだけで、実際は目を通して心に映し出された物を見ているそうです。心の有りようによっては、同じ桜でも美しく見えたり、寂しく見えたり、哀れに見えたりするかもしれません。花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき、というような連想をするかもしれません。美しさに変わりは無いかもしれませんが、美しさを見ているよりも、その裏にある桜の命、健康、または桜がもたらしてくれるかもしれない利益を見ていることもあるでしょう。桜を見て、感動する人もいるでしょう、微笑む人もいるでしょう、涙を流す人もいるかもしれません。
生は楽? 人間が誕生する時、周りの人たちはおめでとうと言って祝福します。何の疑問もなくただうれしいことだ、良いことだと祝福します。誕生は素晴らしく良いことなのでその通りなのですが、それだけではないようです。人生には生老病死苦という苦痛苦労が付いています。逃れることはできません。単純に誕生を祝福するだけでは足りません。
死は悪? 人間が死ぬ時、周りの人たちは悲しみます。何の疑問もなくただ悲しいことだ、悪いことだと悲しみます。悲しいことに間違いはないのですが、それだけでしょうか。
生と死は一つ 人間は生まれた時には、その時点ですでに死が確約されています。生まれることはいつか死ななければならないということです。死ぬということは、今まで生きていたということです。生と死は別々に考えることではありません。生まれて生きることは、いつか死ぬことです。死ぬことは、いつか生まれて生きてきたことです。まだ死んでいないことは、今生きていることです。
死は嫌い 死を見る時、死について考える時、ただ恐れおののき、悲しみ、忌み嫌い、遠ざけようとするだけだとしたら、生きている間死の影に怯え続けなければならないでしょう。悲しい人生です。哀れな人生です。
故人の意志 死を見る時、今生きている自分に気が付き、死が私たちに生きていることの有り難さを教えてくれているとすれば、去りゆく人々が死をもって私たちに教え伝えようとしてくれている意志がそこにあるように感じられてなりません。
  これは私だけの心象風景でしょうか。
念仏の世界 念仏を称える時、私たちの心の中に、死をも含めた生きることの有り難さと感謝の気持ちが広がってきて、仏の世界に少しでも触れることができれば、救われたと言えるのかもしれません。
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おときの話11   平成17年6月
天 上 天 下 唯 我 独 尊
お経堂 今日はお経堂開きの日です。本明寺のお経堂には、お釈迦さんが説かれた一切のお経が入っています。一切のお経なので一切経と呼ばれています。または大蔵経とも言われます。 あまりに経本の量が多いので、とても読んでやろうという意欲も起きてこないでいるのが現状です。親鸞さんは何回も読破しており、その結果を私たちに教えてくれているので、私は親鸞さんの話に耳を傾けることにしております。怠惰かもしれませんが、それだけでなく、能力的なものもあります。
嘘つき? 紀元前500年前にお釈迦様は誕生されました。生まれるとすぐに四方に7歩歩み、「天上天下唯我独尊」と言ったそうです。この世で自分が一番尊い存在であると宣言したのです。お釈迦様は傲慢でしょうか。嘘つきでしょうか。
嘘も方便 そもそも人間が生まれてすぐに歩くことなどできないでしょう。ましてや、天上天下唯我独尊などと言うことなどできるわけがありません。それでは、お釈迦様が生まれてすぐに歩いて天上天下唯我独尊といったことは作り事だったのでしょうか。・・・。そうです。作り事です。仏教には方便真実という言葉があります。真実を伝えるために言葉という道具を用いるのですが、その言葉は作られたものです。正確に真実を伝えることはできません。その言葉で話される話がさらに作り事であっても、真実を伝えることができるのであれば、やむを得ないという考えです。嘘も方便といわれるのは、このことを言っています。
真実は何か それでは、お釈迦様について真実とは何なのでしょうか。お釈迦様が誕生したということは真実です。お釈迦様が尊いということも真実です。この世で一番尊いかということが問題です。他は尊くないのでしょうか。
誕生はおめでたいか
 人間は生まれる時、周囲の人々からおめでとうと言われます。私たちも何の疑問も持たずに、赤ん坊の誕生をおめでとうと祝います。本当におめでたいのでしょうか。何がおめでたいのでしょうか。
人間の一生は苦の連続かもしれません。四苦八苦します。生老病死苦です。生きる苦しみ、老いる苦しみ、病気になる苦しみ、最後は死ぬ苦しみです。それでも誕生はおめでたいのでしょうか。
おめでたい理由 誕生はおめでたいのです。奇跡だからです。生まれなくても不思議ではないのに、たまたまほぼ偶然に生まれたのですから。生きるチャンスを与えられたのです。宝くじに当たるより難しい確率です。生まれなければ何もありません。無です。たとえ苦しみの人生が待っているとしても、楽しいこともあるはずです。生きていて良かったと思うこともあるはずです。すばらしい人生を生きるチャンスを与えられたのです。周囲のあらゆるもののおかげで誕生させていただいたのです。
蛇を切断 私はたまに、エンジン付きの草刈り機で草を刈ります。去年の夏に、草の中にいた蛇を半分に切断してしまいました。蛇は二つに分かれても、それぞれが苦しみ悶え飛び跳ねていました。私はその場を逃げてしまいました。しばらくはその現場に近づくことさえできませんでした。今年もやってしまいました。切断はしませんでしたが、全身に傷をつけてしまいました。やはり飛び跳ねて苦しんでいました。しばらくは心が落ち着きませんでした。私があの世に行ってから、蛇と反対の立場になり、私が切断されるのではないか、という恐怖の気持ちになりました。
蟻の襲撃 昨日、畑で草取りをしていると、急に首や腕や足にチクチクする痛みを覚えました。よく見ると蟻の大群が私を襲っているのでした。私は知らないうちに蟻の巣を破壊していたのでした。無理もありません。自分たちの家が壊されているのですから、家を壊す敵をやっつけるのはあたりまえです。必死の戦いです。私も黙っているわけにはいきません。必死で蟻を叩き潰しました。
畑を耕していると、ミミズを切断するのはしょっちゅうです。当たり前のことになっています。気にもしません。しかし、ミミズにとっては大変なことでしょう。
蛇の怨み 相手が蟻やミミズだとそれほどでありませんが、蛇だとなるとちょっと違います。大きさが違います。目つきが違います。動きや色が違います。なぜか気持ちが悪いのです。因縁が深いような気がします。怨みも深いかもしれません。                    
                                      
命をいただき しかしです、私たちは直接手を下さなくても、命をいただいている動物はたくさんいます。魚だって鶏だって豚も牛も、私たちはだいぶ食べているはずです。蛇のように殺すだけでなく、食べているのです。その胸や腿や舌や内蔵などを食べています。命をいただいて、それでいて平気にしています。むしろ、美味しいだとか不味いだとか勝手なことを言っています。命をいただいているのに、感謝することを忘れて批評をしたりしているのです。あの世では、豚や牛に私たちが食べられかもしれません。不味いと言って捨てられるかもしれません。たぶん捨てられるでしょう。
生かされている 動物だけでありません。植物だって命です。野菜だって生きているのです。私たちは生きている命をいただいて、それを土台にして生きています。他の命が無ければ私たちも生きてはいられません。私たちは他の命に生かされて生きています。だから私たちの命は大切な命です。他の命に生かされて生きている命だから、勝手に粗末扱うことはできません。自分の命であって、自分だけの命ではないのです。「命は自分より大きい、自分を超えている」と言われのはそのためです。
お釈迦様は正しい
お釈迦様はこの世で一番尊い存在です。この世のあらゆるものに生かされ生きているからです。お釈迦様はこの世に一人しかいません。だから「天上天下唯我独尊」なのです。 私たち人間は一人一人皆生きています。一人の人間として生きています。この世にたった一人しかいない人間達です。比較はできません。私は私だからです。極楽浄土はいろいろな色で飾られていますが、白色は白い光を、青い色は青い光を、赤色は赤い光を放ち、それぞれが輝いているそうです。比較はできません。それぞれが尊いのです。桜は桜で美しいし、チュウリップはチュリップで美しく比較できるものではありません。
 「天上天下唯我独尊」はお釈迦様の言葉ですが、私たち人間一人一人のことを言っている言葉ではないでしょうか。
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おときの話12   平成17年7月
悟 り
お天気 天気というものは不思議なものです。晴れればいいと思うと雨が降るし、嵐が来たってかまわないと心を決めると快晴だったりします。今日のおときも、今まで晴れが続いたからたまには曇った方が落ち着くし、ゆっくりするだろうと思っていたら、喚鍾を打ち始めたところで雲が晴れてきました。
病気 人生においても、病気になりたくないと頑張って緊張しているとストレスがたまってかえって病気を呼び込むことになったりします。むしろ、病気になる時はなったらいい、しかたがない、とあきらめてゆっくりしていると病気のほうで逃げていってしまうこともあるそうです。
あきらめ このようなあきらめの気持ちは、悟りといわれるものの一種かもしれません。今日は悟りとは何かということを考えてみました。ちなみに、仏教では真実のことを「真諦」とも言います。諦はあきらめです。
子規の悟り 俳人の正岡子規は35歳の若さで亡くなりましたが、死ぬ2日前まで書いた「病床六尺」のなかで、「悟りというのは、平気で死ねることだと思っていたが、そうではなくて平気で生きていることであったのだ」と述べているそうです。
武士の悟り 昔の武士は、戦場でいつ死ぬかわからないし、常に切腹の覚悟もできていなくてはならないので、死を恐れないような準備をしておかなければなりませんでした。仏教は死を超越するための手段でした。だから、武士にとって悟りは死を克服することでした。
自殺は悟り? 秋田県では自殺者の数は全国一だそうです。自らの命を絶つことのできる人が悟った人と言えるでしょうか。そうだとすれば秋田県は全国一の仏教県です。自らの命を絶ったのは、生きることが死ぬことよりもはるかに苦しかったからに違いありません。生きることは死ぬことよりも大変なことなのです。死ぬよりもつらい人生をどうやって生きていったらよいのでしょう。
仏道 人生における生老病死苦を避けることなく、逃げることなく、しっかり抱えたまま平気で生き続ける道が仏の道ではないでしょうか。
仏の心 仏教では、仏さんは悟った人ということになっています。死んだ人は煩悩が無くなるので当然仏さんになります。生きている人が仏になるためにはどうすればよいのでしょう。仏の心を持った人が仏だとすれば、仏の心を持てばいいんです。仏の心は慈悲心です。世の親たちは、慈父とか悲母とか言われます。子供に楽を与えたいと願う父と、苦しみを取り除いてあげたいと願う母が、仏さんと同じような存在だと言われます。理想的な両親は仏さんに近いのです。
親の心 最近は、子供を虐待する親が問題になっています。親を殺したという記事もありました。どちらも慈悲の父母ではなかったのでしょう。仏のような親に育てられれば、そんなに道を外すことはないはずです。
仏になる
 人間は普通であれば自分の子供に対しては仏さんになれるのです。孫にたいしてならもっともっと仏さんらしくなれるはずです。自分のことはさておき、子供のため孫のためならと自分を犠牲にできる人は結構多いのではないでしょうか。若い人であれば、交際している相手のためならと多大なる犠牲を払うことを厭わないでしょう。もちろん時と場合にもよりますが。このように仏心を持つ機会は多くあります。仏心をもって自分のことを差し置いても、決して損したとは思いません。むしろ、自分の苦しみを忘れて仏心を発揮するのではないでしょうか。
慈悲の対象 仏心は相手が人間である時にのみ働くのではありません。命ある全ての存在に対して働きます。愛玩動物である犬や猫に対して愛情を注ぎ仏心を発揮している人もいます。自分のこと以上に動物に気を配ったりしています。自分の苦労は厭いません。自分の苦を忘れているのです。
花や植物に、または作物に愛情を注いでいる人もいます。寝食を忘れて手間暇をかけ手入れや世話をしています。愛情を注ぐとは言いますが、それが慈悲の心とそんなにかけ離れていることはないでしょう。
小動物である蟻やミミズやカエルに情けをかける人もいます。雑草に自分を見いだす人もいます。慈悲の心はあらゆる存在に降り注がれても不思議ではありません。
自分のことはさておき 慈悲の心を持つ者は、自分の生老病死苦さえそちらに置いて、他の存在に心をかけます。かわいい子供と一体となり、子供の幸せはそのまま自分の幸せと感じます。自分は溺れても子供の命を助ける親の話は少なくありません。
 一本の花に命をかける人はいないかもしれませんが、かなりの苦労を厭わない人はいるかもしれません。
自分の研究課題に命をかけている科学者は多くいます。芸術家でも文学者でも真善美のためには命がけです。自分の苦しみをそちらに置いても、心を預ける対象のある人は幸せです。
慈悲心が自分を救う
自分の身の回りに熱中できるものがある人は幸せだとはよく言われることです。同じように、慈悲心または仏心を働かせる対象のある人、対象を見出せる人は、仏と同じく悟りをひらいていると言えるのではないでしょうか。
 他にかける慈悲心が、自分自身を救っているのです。
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おときの話13   平成17年10月
大切な命
仏教伝来
お釈迦様は二千五百年前に誕生されて、「天上天下唯我独尊」と言われた時から現在にいたるまで、絶えることなく説き続けたことは命の大切さでした。 インド、ネパール、チベット、中国、朝鮮、日本と伝来してきた仏教では、常に高僧達によって命の大切さが説かれてきました。
世界の宗教 他の宗教でも間違いなく命の大切さは説かれてきたはずです。それなのに、現在、世界中いろんなところで大切な命が人間の手によって失われています。戦争、テロ、殺人、自殺などによってです。世界の宗教が十分に宗教としての成果を上げることができないでいるということではないでしょうか。
人間の命 特別な人間達は意識的に平気で他の人間を殺したりすることもできるのでしょうが、普通の一般的な人間である私たちは、特別な人間達とは違って簡単に人を殺したりはできません。しかし、私たちは本当に命を大切にしていると言えるでしょうか。大切にしているというか、命を大切だと感じているのでしょうか。日常生活においては、毎日毎日命の大切さを感じているというわけではないでしょう。他人の命も自分の命もです。
13
歳の偉人
私は最近、毎日命の大切さを感じている人に出会いました。それはテレビを通してでした。「24時間テレビ・愛は地球を救う」という番組でした。その番組で取り上げていたのは、十三歳の女の子の話でした。その子は足の癌を患ったのでした。悪性でしたのでほとんど復帰はできないだろうと思われていたのでしたが、

奇跡的に手術は成功し、術後の回復も良く、学校にも通えるようになりました。運動会では走ることができるまでに回復したのでした。十三歳ですので中学一年か二年生と思われるのですが、校内弁論大会で優秀であると認められ、校外の大会に出場したのでした。弁論の題名は「命の大切さ」でした。奇跡的に生還し復帰した子供の考えた題名です。弁論の中で、その女の子は聴衆にむかって問いかけました。「皆さんは、幸せって何だか知っていますか? ・・・ 幸せというのは、私にとって、今生きていることなんです。」
坊主の怠慢? この世に生まれてわずか13年しか経っていない女の子が、今生きていることに喜びを感じて、これが幸せというものなんだ、と私たちに教えてくれているのです。私は感動するやら、驚くやら、発する言葉もありませんでした。仏教の坊主達がいくら命の大切さを訴えても、世の人たちは、頭では理解しても心までは染み込んでいかないという現状にあります。坊主といえども、自分で命の大切さを説いていながら、心では別のことを考えているのではないでしょうか。たとえ、命の大切さを一時的に心で感じても、すぐに深い煩悩の闇に消されてしまうということが本当のところでしょう。親鸞聖人も、人間はそれだけ罪悪深重だ、と言っています。
花子さんも NHKのテレビ番組「おしゃれ工房」でも、あのお笑いコンビの宮川大助・花子の花子さんは、こんなことを言っていました。「わたしは、朝目が覚めるのが楽しみなんですよ。」花子さんはやはり癌を患ったことがあり、死というものを目前にしたことがあるそうです。番組では、大助・花子夫婦が山中にある自宅で畑仕事を楽しみ、自然の空気を楽しみ、人生を楽しんでいる模様を紹介していました。私は、花子さんの素晴らしい側面を見せて頂いたような気がしました。
 
 死というものを意識した時、人間は今生きている有り難さを感ずることができるのでしょうか。
キ│ワ│ド 念仏は、反省と感謝の気持ちを呼び起こしてくれるキーワードです。毎日、不平不満を言い愚痴ってばかりいる私達に、今生きて美味しい空気を吸っている喜び、手を動かし、足を動かし、働いたり遊んだりできる喜び 、手が動かなくても目や耳が働く、心も頭も働いている、今生きている喜びを思い出させてくれます。念仏を通して、明るい世界に目が向けられるようになれば、人生も違ったものに見えてくるのではないでしょうか。
念仏は心 念仏は南無阿弥陀仏です。その意味は帰命尽十方無碍光如来であり帰命無量寿如来です。具体的な内容はお経に書かれています。わかりやすい説明が法話です。法話の内容は私達の日常生活から学ぶことのできるものです。日常生活は私達の心を写し出したものです。念仏は他人事ではなく、まったく自分自身の心の問題なのです。念仏をキーワードとするためには、常に自分の心との対話を絶やすこと無く、仏の教えに耳を傾ける必要がありそうです。
唯称念仏 念仏の説明をする時にいつも感ずるのは、どのように説明したらよいのか、どのように説明してもすっきりしないというもどかしさです。表現能力の不足と自分自身の理解能力の不足が原因であることはわかっているのですが、それでもなんとか説明したいと思うものですから困ったものです。最後は、親鸞聖人のお言葉に頼ることにしています。「極重悪人唯称仏」という正信偈の言葉です。自分で自分の悪い心をどうすることもできない人は唯念仏を称えなさい、という教えの言葉です。煩悩の深い私達に教えていることです。

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おときの話14   平成18年5月
春 よ 来 い
厳しかった冬
今年の日本は記録的な大雪に見舞われました。豪雪地帯だけでなく、東京や九州にも雪が降ったそうです。私が住んでいる秋田の山奥には特に厳しいものがありました。毎日毎日が雪との戦いでした。家の中では、吹雪の冬景色を小さな窓から恨めしげに眺めているばかりでした。
 どんよりと曇った空から降りしきる真っ白な雪は、頑固な氷の中に、いつまでもいつまでも私達を閉じ込めてしまうのではないかと思われるほどでした。そのような状況でも、時として太陽の光が差し込むこともあります。ほんのわずかな日の光が雲の隙間から覗くことがあるのです。その一条の光に温かさを感ずることがあります。光が温かいのではありません。光がもたらす希望が果てしなく温かいのです。
 冬の生活が厳しければ厳しいほど春が待ち遠しいんです。春を待つ心の中にはすでに春が来ているんです。真冬のさなかでも窓の外に日の光が輝く時、春の景色が思い起こされるんです。そして心が温かくなるんです。大丈夫だ、今年の冬も乗り越えられる、という勇気が涌いてきます。冬の厳しさが春の喜びをさらに大きくしてくれます。
春が来た
春よ来い、早く来い、と待ち望む心の中に春がもう来ていました。歩き始めたみいちゃんが、赤い鼻緒のじょじょはいたその心の中には、もう春が来ていたのです。春が来ていたのでじょじょを履いたのです。みいちゃんはじょじょをはいて喜んだのです。なんか目に見えるようです。
 
自然の法則に従うと、冬が来るとその次には春が来ます。春の次には夏が来て秋が来ます。いつも同じところに留まっていることはありません。仏さんが教えてくれるようにこの世は無常だからです。常なることは一つもありません。冬の生活がいくら苦しくても希望があります。無常の世界は苦しみを生み出しますが、希望も与えてくれます。苦しみがいつまでも苦しみであるわけがありません。
 秋田は米所と言われているようです。米が豊富にとれるんです。米の生産にとって大切なものは水です。春から夏にかけて絶えることのない大量の水が欠かせないのです。水が大切だということは皆さんがご存じのことと思われますが、この水は山から流れてくるんです。山の上に蓄えられた大雪が、春から夏にかけてゆっくりとゆっくりと溶け出して田んぼを潤してくれるんです。 冬の間私達を苦しめ続けたあの雪が、私達の命をはぐくむお米を作ってくれるんです。

冬将軍と戦うとか、負けないとか、敵だとか味方だとか、そんなことで頑張るのはつらいことです。強い人たちは頑張るかもしれませんが、やっぱりつらいでしょう。私はつらいことはいやだし、耐えきれる自信もありません。自然の流れに身を任せ、春の来るのを希望を持って待つことが分相応のように感じます。ましてや、敵と思っていた雪が実はこの上もなく頼もしい味方だった、ということもあるように、何が幸いで何が災いかを判断することは難しいのですから。心の中に春をいただき、流れに身を任せていれば春は来ます。
念仏の心に春が来る
私は、念仏は「窓」のようなものと思っています。
 家の中に居て窓から外を眺めていると、どんな景色を見てもつらく苦しく恐ろしく感ずることがあります。冬は寒く暗く夜が長く、春はほこりっぽく花粉が舞い、人も動物も浮き足立ち、雨期はしめっぽくうっとうしい。夏は虫が多く気味悪く、夜は暑くて眠られず、秋は侘びしく落ち込むし、来るべき冬にはうんざりと、無常で非情なこの世では、幸福もあっという間に消えていく。
 反対に、窓が見せてくれる世界がいつも明るく光に満ちている、と感ずることもあります。冬の雪は純白で美しく、大切なお米の産みの親、春は希望に満ちあふれ、雨が山を踊らせて、夏は太陽の恵みを得、木々や動物が生き生きと、秋は実りの収穫が、命の保証をしてくれる。無常のこの世であればこそ、どんな不幸の極みでも、真っ暗闇の心でも、必ず晴れていくのがあたりまえ。
 朝目が覚めず、そのまま死んでいてもおかしくないこの世の四苦八苦を見せてくれる窓と、そんな無常の世の中で、今生きて生かされて、希望にあふれた楽しいこの世を見せてくれる窓が、念仏を称えるとともに私達の心の中に開かれる時、今まで不平不満を言っていた自分を反省し、奇跡的にも今自分が生きていることに感謝をする心が広がることであれば、大変に有り難いことと思われます。
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おときの話15   平成18年8月
しあわせの数
羽衣と岩 羽衣劫という時間の長さがあります。一辺四十里の岩を三年に一度、天女が舞い降りて羽衣で撫で、その岩がすり減って無くなるまでの時間をさします。岩がすり減るまでの時間を一劫と数えます。
ガンジス河の砂 恒沙劫という時間の長さがあります。ガンジス河の砂の数を数えるとすると、数え終わるまでの時間の長さを一劫とする数え方です。
数えられますか。数える必要がありますか。数えたら間違うのではないですか。
このような巨大な数量を表す言葉が仏教には数多く出てきます。なぜでしょうか。
坊主は縁起が悪い 私は黒い衣を着て通りを歩く時、袈裟と数珠を袂にしまって歩きます。すれ違う人たちの視線が気になるからです。「坊主に会うとは縁起が悪い」と思われるのではないかと危惧するのです。檀家をまわってお経をあげて歩く時も、なぜか「一杯茶は縁起が悪いと言われますから、もう一杯どうぞ(お茶を一杯しか飲まないで、帰り道坊主に会うと縁起が悪いという意味)」とすすめられます。                     坊主にとっても縁起が悪いのかと不思議に思いますが、逆らわないことにしています。お寺とか坊主は葬式用で、普段は必要のないものと思われているのかもしれません。それなのに葬式以外に坊主が出てくると、縁起でもないと忌み嫌われるようです。                キリスト教では、人間の誕生には洗礼式とか行い、みんなに感謝され喜ばれます。結婚式でも司祭なる者が式を執り行い、神と御子と精霊の御名のもと、夫婦となることを誓いますか、などと神への服従を誓わせてしまいます。うまくやっています。どうして坊主は嫌われるのでしょうか。
坊主は正直 坊主は正直だから嫌われるのです。本当のことをそのまま言ってしまうからだめなのです。赤ん坊が誕生すると、「誕生おめでとう、この世に生まれるのは有り難きことです。めったにないことです。今回は人間として生まれたからよかったものの、まかり間違えば畜生(家畜)に生まれたかもしれません。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天。どれに生まれても不思議ではないのです。」などと言われたら、奇妙な気持ちになるでしょう。さらに、生まれたからにはいつか必ず死ななければなりません、そのことを忘れないように、などとも言われます。
天国も地獄 それでは、天国に生まれたら幸福かというとそうでもないのです。天国には何でもあるし、欲望は満たされるし、欲しい物はなんでも手に入る。ところが天国もこの世の一部であり、無常の世界なのです。無常な世界ゆえに、いつかは天国を出なければいけません。それまで満足の日々を送ってきた者にとっては、死ぬ以上の苦しみだと言われます。もちろん死ぬことも天国を出ることを意味します。
苦楽同体
結婚式における坊主の言葉は、「会うは別れの始まりなり」です。真実なのですが、誰もその通りとは思いたくありません。 坊主はそっちへ行け、と言われます。
 病院へ顔をだすと、「お迎えが来たようで気持ちが悪い、縁起でもない」と言われます。坊主は、「人間は生老病死苦を避けることはできない。逃れることもできない。いつ死を迎えようとも受け入れるしかない。」と断定します。気の弱い人は希望を失ってしまうかもしれません。
数えること 坊主はなぜこんなことを言うのでしょうか。坊主は、人間の寿命の長さを数えても幸福の役には立たないと考えるのです。始めがあれば終わりがあるように、誕生には死が予定されているのです。無常だからです。無常の世の中では、数や量も変化し続けます。変化するものは当てになりません。
幸福の数 無常の世の中にあっては、永遠に続くものなどありません。若いカップルが永遠の愛を誓っても、誓う人間に限界があるので、いつかは愛も消えてしまいます。                                六道輪廻のこの世にいる限り、自分という世界に閉じこもっている限り、無常の法則によりすべてが変化し消滅してしまいます。常に変化し消滅していくこの世にあって、ものの数を数えたり、量を計ったりしても、どれほどの意味があるのでしょうか。                     もちろん科学の世界では計算は必要不可欠のことです。これがなければ、現代の人間の存在は考えられません。しかし、科学では人間の幸福は計算できません。                            人間の幸福は、計算を超越したところにあると考えられるからです。財産がいくらあるか数えても、寿命が残りいくらあるか数えても、人間の幸福の量を計ることはできません。
教え
仏さんはこのように教えます。
 この世が悪いとか良いとかが問題になるのではありません。どんな世の中であろうとも、辛い物は辛いように、しょっぱい物はしょっぱいように、苦くてもよい、堅くてもよい、それなりの味を味わい楽しんでいけるかどうかなのです。そのうち甘い味に出会えるかもしれません。
帰命無量寿如来 この世を楽しむためには、心を一時あの世に置くことが必要なのです。この世に生きていながら、心は仏の世界にあづけるのです。親鸞聖人はこのことを「帰命無量寿如来」と言っています。                              量は物の質量です。寿は寿命であり時間です。無量寿は、この量や時間が無いということです。数える必要も無いということです。如来は真理の世界から来生した者のことです。仏さんのことです。何事も数える必要が無い真理の世界より来た仏さんに、帰命しなさい、すべてをおまかせしなさい、と親鸞聖人は言っています。
念仏  「帰命・無量寿・如来」はインドの言葉で表すと「ナム・アミダ・ブツ」となります。


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おときの話16 平成19年1月
寿命の長さ
長寿で 95才で亡くなったおばあさんのお葬式でした。95才という年令は、女性の平均寿命をはるかに超えた年令です。たいていの方はこのように言います。95才まで生きられるとは幸せな方だ、私もそのくらいは生きたいものだ。などとうらやましがります。
人生に満足? 他の人からは、大往生だ、などと言われたとしても、亡くなった本人はどのように思っているのかはわかりません。もしかしたら、100才まで生きたかったと思っているかも知れません。もっともっと孫達といっしょに遊びたかったと思っているかもしれません。 死を目前に感じた時、今までの自分の人生を振り返って見て、十分に長い人生だったと思うでしょうか。それとも、あっという間のはかない人生だったと思うでしょうか。
若い人は? 死を目前にしていない私たちでも、自分の今までの人生を振り返って見るとどうでしょうか。長いと思うでしょうか、それとも短いと思うでしょうか。つらい人生を苦しみながら生きている人は、人生は長すぎると思うかも知れません。しかし、その前に苦しみをなんとか取り除こうと努力したはずです。苦しみが無ければ、楽しみが多ければ人生はもっともっと長い方が良い、と思うことでしょう。もしかして、これからの人生にまだ良いことがあるかもしれないと思われるなら、もっと長生きしたいことでしょう。
誰でも
 ほとんどの人は、人生ははかないものだと感ずるのではないでしょうか。
貴重な人生 人生は本来だれにとっても大切で価値のあるものだから、いくら長生きしてももっと長生きしたいと思うのが自然なのではないでしょうか。
長ければ良いのか ただし、人生は長ければ良いといったものでもないかもしれません。いやなことの多い長い人生はあまり好まれません。少しくらいは人並みに良い思いをしてからなら死んでもよいということもあります。希望の一つくらいは実現してからなら死んでもよいと思うかも知れません。時間の長さが問題ではないかもしれません。
短い命だって 人間は、否、動物でも植物でもいつ命が終わるかはわかりません。たった数年の命かもしれません。十代、二十代で人生を終える人もいます。このような短い命であれば、無駄な命だったと言えるのでしょうか。無駄な人生だったと言えるでしょうか。この世に生まれ出て、短い人生だったから無駄な人生だと決めつけることはできません。短い人生だからこそ、濃く深い人生を生き抜いたということもあるのではないでしょうか。どんな人生だって、不用の人生なんてないはずです。大自然の法則に従ってこの世に生み出された奇跡的な命は、それだけで十分価値のあるものではないでしょうか。
  この世に生きている全ての命の価値は、生きている時間の長さによって計られるものではないようです。人間の幸福の大きさも、人生の長さによって決められるものではないようです。
釈迦の言葉
お釈迦様は誕生後、すぐに「天上天下唯我独尊」と言いました。この世に生まれただけで有り難いことだと言ったのです。
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おときの話17 平成19年6月
光 と 闇
太陽の光
朝目が覚めると太陽の光が輝いています。雨の日でも雲を突き抜け雨を突き抜け、太陽は明かりを届けてくれます。太陽の光の明るさで、私たちは歯を磨き、顔を洗います。新聞も読めます。学校や仕事場に行くことができます。どこに何があるのか、どの道を歩けばよいのかを教えてくれます。
感謝 太陽の光のおかげで私たちは生活できるのですが、太陽に向かってありがとうと感謝する人はあまりいないようです。昼が明るいのはあたりまえだと思っているからでしょう。もし太陽が無かったら私たち生き物は生存できません。もっと有り難いと思ってもよいような気がします。
太陽が無いと 太陽が無ければ私たちは道に迷ってしまします。行きたいところへも行けません。それどころか、山奥に迷い込んでしまうかもしれません。海岸の絶壁へと向かって歩いて行くかもしれません。
大切 こんなにも太陽は大切なものなのに、なぜ私たちはその大切さに気がつかないのでしょう。気がつくことがあっても、すぐに忘れてしまいます。その理由は、おそらく私たちが恵まれ過ぎているからではないでしょうか。太陽は裏切ることなく必ず空の上にあるからです。
昼は明るいですが夜は暗くなります。太陽の代わりに月が照っていますが、十分な明るさではありません。雲が空を覆うと暗闇になってしまいます。暗くて物がよく見えない状態です。不便です。自由に歩き回ったり、野球をしたりできません。
夜得られるもの 夜は闇が支配している世界で、私たちには不都合に思える世界ですが、よく見えるものもあります。昼には見えなかった月や星が鮮明に見えます。また、わずかな光の有り難さもよく見えるのです。

動き回るのに不都合な夜の時間は、休養の時間となります。心の活動の時間になるかもしれません。暗闇の中であればこそ、光明の有り難さがわかります。昼の間に得ることのできなかったものを手に入れることができます。
目の不思議 日常生活において、目が健康で普通に物が見える人は、自分はしっかりと物を見ていると思っているでしょう。しかし、物を見ているのは肉眼であって、私たちは、肉眼を通して心に映し出された自分なりの映像を見ているのではないでしょうか。自分なりに変形させ、色づけをした映像です。

たとえば、私たちが海を泳いでいる魚を見たとします。その魚の姿は、私たちの肉眼には同じように映っているかもしれませんが、心の中では様々に変化しているのではないでしょうか。ある人には大きい魚かもしれませんが、別の人には十分ではない大きさに映るかも知れません。美しい魚と見る人もいれば、おいしそうな魚と見る人もいるでしょう。心の中に記憶として留めさえしない人もいるかも知れません。人それぞれでしょう。
欲望の眼鏡 私たちは自分の都合に合わせて物を見ていることが多いようです。欲望というサングラスを通して見ているのかも知れません。もしそうだとすれば、私たちは物の本当の姿を見ていないことになります。目は開いていますが、見えていない状態です。暗闇の中にいるようなものです。または、明るい太陽に照らされていても何も見えない状態です。昼なのに何も見えていないのです。恵まれているのに有り難いと思えないのです。
苦が教える むしろ恵まれていない人のほうがものの有り難さに敏感であると言えるかもしれません。苦しみがものの有り難さを教えてくれることもあります。暗さが明るさの存在を教えてくれるようなものです。
すでに与えられている 太陽の明るさ、有り難さは夜が教えてくれるのでわかりやすいのですが、私たちが生きていることの大切さ、有り難さはなかなかわかりにくいものがあります。

そこで仏さんは、私たちに自分自身を省みてよく見つめるようにと教えています。そこには苦しんでいる自分だけではなく、すでに恵みを与えられている自分もいるのだと教えています。
真実 仏さんが光のように輝き、闇を晴らしてくれるのです。ものの本当の姿を見せてくれています。心を開いて光りを受け入れることが必要です。
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おときの話18 平成19年6月
散 る 桜
良寛さん 越後の和尚さんで良寛さんという方がおります。この方が「散る桜 残る桜も 散る桜」という句を残しています。良寛さんは財産、名誉、権力など人間を惑わす全ての想念を取り払い、隠遁僧として自然を愛し、山中独居、乞食行脚(こつじきあんぎゃ)の生活を厳しく実践しました。                             

生活は貧しくとも、人としての恩愛の情を堅持していました。ですから大人も子供も良寛さんに対しては、疑念を持たず安心して接していました。また良寛さんは人間だけでなく草や木、動物にまでも同じ愛情をもって接しました。
仏の心 良寛さんはどんな心で 「散る桜 残る桜も 散る桜」と詠んだのでしょうか。良寛さんは曹洞宗のお坊さんなので、この句の中で自然に仏さんの心を表現しているのではないかと思われるのです。 
命のはかなさ 現代の日本は世界一の長寿国と言われていますが、それでも私たちの命はいかにもはかなく、いつどうなるかはわからないという状況は昔と同じです。

平均寿命が20年30年延びたとしても、いざ死を迎えた時はどうでしょうか。自分の人生は、はかない夢のような人生だったと思うのではないでしょうか。

「散る桜」は、そのような私たちの命のはかなさを表現しているのではないでしょうか。どんなに色鮮やかに咲いた桜の花でも、あっという間に散ってしまわなければなりません。それがこの世の定めです。

さらに、しばし散らないで残った桜さえも、すぐに散らなければならない定めです。「残る桜も 散る桜」です。私たちの人生も桜とそんなに違いはないようです。
無情の世 良寛さんはこの世の無常を教えてくれています。この世は無常で無情でもある、と言っているのでしょうか。この世はひどいものだ、と言っているのでしょうか。桜の生涯は哀れだと言っているのでしょうか。それもそのとおりかもしれません。この世の一面を表しているのですから。
無常が教えること 良寛さんが教えてくれているこの世には、もう一つの面があるのではないでしょうか。私たちの人生は夢のように儚(はかな)いことは事実ですが、儚いからこそ、あっという間であるからこそ、今を大事にしなければいけない、今を一所懸命生きなければならないと教えてくれているのではないでしょうか。
短命だからこそ 桜の命が百年もあったらどうでしょうか。花びらは見るに堪えないものになってしまうでしょう。貴重なものとして心に留められたり、詩に詠まれたりしなくなるでしょう。短い命であればこそ美しく、鮮やかに咲くことができるのでしょう。そして見事に散りゆくことができるのでしょう。
燃える 今私たちに与えられている命を燃焼し尽くすことが自然の法則にかなっているのではないでしょうか。
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おときの話19 平成19年10月
南 無 の 心
日光 畑の向日葵(ひまわり)は今年も大きくなりました。朝には、向日葵はその大きな顔を東に向けています。昼になると南を向いています。夕方はしっかりと西を向いています。向日葵は一日中太陽を追いかけているのです。太陽を追いかけて、温かい日の光を受け取っているのです。
太陽の陽ざしも向日葵にとっては成長に欠かせないものですが、空が曇りもせず、雨も降らなければ、向日葵はそのうちにげんなりして倒れて枯れてしまいます。
 雨は植物にとっては大切な水分です。大切な水分ですが、これも多すぎると根腐れをおこしてしまいます。
風は植物の成長には関係ないと一見思われますが、私は風には風の大切な働きがあると信じています。植物は自然に根から水分を吸い上げていますが、風が吹くことにより植物全体が揺れて、水分を吸い上げるポンプの役割をしているように思われるのです。この風も強すぎると植物は倒れてしまいます。
自然の恵み ひとつの向日葵が成長するためには、自然界の限りない働きを必要とします。私たちの思考の及ばない働きも当然無数にあるはずです。自然の限りのない恵みと言ってもよいかもしれません。限りのない恵みは、それぞれ単独に働いているのではなく、お互いにバランスをとりながら調和をしながら働いているようです。太陽の光だけでは向日葵は育ちません。水分や栄養分だけでもだめです。もちろん風だけで育つこともありません。
向日葵の努力 向日葵は、種を蒔かれたところに芽を出し、自然の恵みが与えられるのをじっと待っているしかありません。そのうち葉ができ、茎ができ、花が咲き成長してくると、かろうじて自らの努力として花や葉を太陽の方角に向けることができるようになります。向日葵の努力はせいぜい太陽の方を向くことだけしかありません。もしかしたら、向日葵に意志があり、私には理解できないような意志の力で努力はしているのかもしれませんが、理解の範囲外です。
山の動物 山に生きている動物たちは、人間が餌(えさ)を与えなくても自然の恵みを受けて生きています。熊でも鹿でも猿でも自然の力に生かされています。もちろん餌を探して山中を歩き回り走り回る努力をしなければ生きてはいけませんが、それも自然の恵みがあればこそ努力が実るのです。自然の力が無ければどうしようもありません。
海の動物 海に生きる動物たちも同じです。人間によって作られた動物は一つもありません。皆自然によって生み出され、育てられ生かされています。
自然の法則 地球上の生物は、私たち人間の理解を超えた法則の下に生み出され生かされ、そして命を終えさせられています。生きている間の喜びも楽しみも苦しみさえも、すべてが自然の法則の下に与えられているような気がします。そこには意図的な敵意や憎しみや悲しみ、恨み辛みなどの人間の持っている感情的なものや意志的なものは存在しないようにも思われます。
法則の不思議 家畜として飼われている牛を外部の刺激から遮断し、ストレスを感じないようにして精神を安定させて牛乳を搾(しぼ)ると、良い品質の牛乳がとれるそうです。クラシックの音楽を聞かせながら餌を食べさせると食欲が増進し成長が早くなるそうです。音楽の効用は植物にもあるそうです。不思議なことです。科学的に、理論的には証明できなくても、正しいこともあるのです。むしろ、人間の理解できることはこの自然界ではほんのわずかなことで、理解できない不思議なことがほとんどなのではないでしょうか。
悟空でさえ かの有名な孫悟空は金斗雲に乗って地の果てまで行き、そこにあった五本の柱に小便をひっかけ、「悟空参上」と書いて来たのですが、実は五本の柱は仏さんの五本の指だったという話です。地の果てまで行ったつもりでも、所詮(しょせん)は仏さんの手の平の上でのことであった、というのです。
お山の大将 私たち人間は発達した文明の頂点に立ち、人間こそ地球上で一番賢い存在であるとうぬぼれています。人間の科学に優るものはない、と思っています。人間は自分自身の力によって生きていると信じています。しかし、その力の及ばないことに直面すると、なぜだろうと暗い気持ちになります。
親鸞さんは 親鸞聖人は自分のことを極重悪人と言っています。「愚禿悲嘆述懐」という文の中で親鸞聖人は「虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」と自分のことを嘆いています。私たちには、他人の悪いところはよく見えるしよく気が付きますが、自分の悪いところはよく見えないし、見たくないし見ようとしない傾向にあります。この世の中の問題の多くは、自分の内面をよく見ようとしないとことから生じているようです。親鸞聖人はこの点では徹底して自分を見つめられた方でした。見つめた結果が、自分はどうしようもない愚かな人間で、このままでは地獄に堕ちるのは決まったことである、と信じていました。
私たちは 地獄へ行くより他に道はないような人は、自分の力ではどうしようもありません。他の力を頼るしかありません。親鸞さんでさえそうですから、私たちはなおさら、向日葵が大自然の力にすべてをまかせているように、大自然の真理の法則におまかせするより方法はないようです。仏教では仏さんにおまかせすると言います。
南無の心 南無阿弥陀仏はインドの言葉です。「南無」の意味を漢字で表すと「帰命」と書きます。命をおまかせする、または仏さんの教えることに従って行きます、という意味です。仏さんに全てをお任せしますという意味です。
もちろん人間として生きる努力はしなければなりませんが、努力の結果はどうであってもお任せするより他にはない、ということでしょう。 南無の心が、私たち極重悪人を導いて、行く道を照らす光明となっていく、と仏さんは教えています。
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おときの話20 平成20年 1月
こ と ば の 力
ヨ|イ  ドンッ 子供の頃運動会で「ヨーイ ドンッ」という音を聞くと、なぜか突然走り出りだしてしまうものでした。何も考えず本能的に身体が動いてしまうような感じがし、ことばが私を動かそうとしているようでした。一等賞はもちろん取ったことはありません。
ドッコイショ 若さが無くなって来るにつれて、立ち上がる時や重い物を持ち上げる時に「ドッコイショ」とか「ヨイショ」というかけ声が自然に口から出て来るようになりました。かけ声をかけないと腰や腕に力が入らないような気がするのです。ことばに頼っているのです。

「ドッコイショ」や「ヨイショ」の意味なんかわからなくてもよいのです。ことばを分析して調べる必要なんかないのです。「ドッコイショ」は「ドッコイショ」でよいのです。
古来の道 日本には古来、剣道や柔道、茶道や書道などなどたくさんの学びの道があります。これらの道の学習の方法は、一様に決まりきった型を覚えることから始まります。剣道であれば素振りでしょう。柔道は受け身です。茶道や書道でも基本の型から学ぶようです。
習い性
来る日も来る日も型を練習していると、そのうちに型が自然な動作となって表れてくるそうです。初心者のうちはどこかぎこちないものですが、慣れてくると自然な動きに見えてきます。このような自然な動きが、生まれた時から身に付いている本能による動きのようになった時、習い性が身に付いたと言うようです。 
乾杯 !  の力

私は結婚した時から晩酌をやっていますが、始めの頃は一人で手酌で飲んでいました。若さのために酒にも未熟で、泣き上戸になったり笑い上戸になったり、激情にかられて怒り上戸になったりしたものでした。「ダジャグコグ」と言うのでしょうか。いつも恥をかいていました。現在もあまり変わらないのかもしれませんが。

そのうち私の愚妻も晩酌を始めたのです。最初私はなぜかうれしくて、ビールのたっぷり入ったコップとコップを景気よくぶっつけて「カンパーイ」とやったのです。それが現在も続いています。良かったのか悪かったのか、今は微妙。

何回も何回も乾杯を続けるうちに、「カンパーイ」と言うことによってなぜか心が落ち着くことに気が付きました。一人で晩酌をやっていた時のやましさが無くなったのです。冷たい目を感じなくてよくなったのです。「カンパーイ」ということばが力を持ってきたのでしょう。外でお酒を飲む時も「カンパーイ」のことばは心地よさを誘います。
生臭坊主  坊主にとって大切なものは、なんといっても慈悲心です。苦しんでいるものを憐れむ心です。苦しみをなんとかしてあげたいと願うのが坊主でなければなりません。それなのに、食事でいただく料理はどうでしょう。動物の肉や魚です。

今まで生きていた動物を新鮮だと言って喜んで食べているのが私の姿です。植物だって命のある生物です。すべて自分以外の命を頂いて食べているのです。そうしなければ私は生きていけないのです。
愚息でさえ
 御飯を頂く時、私は「イタダキマス」と言う習慣がありませんでした。ところがある時テレビを見ていたら、ある若者が食事の前に合掌して「イタダキマス」と言ったのです。そういえば最近、若い人たちが合掌して「イタダキマス」と言う光景がよく見られました。一種の流行なのかもしれません。恰好が良いという理由かもしれません。型だけかもしれません。

こともあろうに、うちの愚息も大学から帰省して食事をする時、合掌して「イタダキマス」とやらかしたのです。絶句でした。教えもしないのに。

私は坊主です。坊主の私が合掌して「イタダキマス」とやらないでどうする。愚息でさえやっているのです。型だけとしても・・・。心も無いし型も無いとなれば私は坊主失格です。私はさっそく実行することにしました。型だけでもまずやってみよう。
罪悪感の芽生え  
食事の前に合掌して「イタダキマス」と言うことにしてから大分たった頃、ふっと気が付いたことがありました。それは、食事の料理に出てくる肉や魚を意識するようになったことです。この動物も今まで生きていたのだと思うようになりました。それと同時に罪の意識が芽生えてきたのです。自分は動物にかわいそうなことをしているのではないかと思うようになったのです。

罪の意識が出て来たから肉も魚も食べられなくなったかというと、そうでもないところがますます私の罪深いところです。罪悪感はあるのですが肉も魚も野菜もおいしいのです。なんともしようがありません。
感謝の心  ただ、食前に合掌して「イタダキマス」と言うと、罪は消えるわけではないのですが、なんとなく気が楽になるように感ずるのです。型だけであった「イタダキマス」が、私の上でなんらかの力を持ち出してきたということでないでしょうか。以前とは違った意味で食事もおいしくなったように思えます。感謝の気持ちも顔を出してきたようです。不思議です。
一茶は 俳人小林一茶が「 年寄りや 月を見るにも なむあみだ 」という俳句を詠んでいます。昔は、年寄り達はなにかににつけて念仏を称えていたようです。月を美しいと言っては、月を有り難いと言っては念仏を称えていたということでしょう。

なにか苦しいことに出会った時に念仏を称えることはわかりますが、悲しいことがあった時、うれしいことがあった時、感謝する時、反省する時、驚いた時などにもいろんな状況において念仏が称えられたようです。苦しい時には苦しみが和らぎ、うれしい時には喜びが増え、感謝する時には有り難さが増すということではないでしょうか。
念仏の力  念仏を称えても、最初のうちは何も感じられないかもしれませんが、何回も称えているうちに念仏が力を持っていることに気が付いてくるのではないでしょうか。親鸞聖人は「唯称念仏」と言っています。何も考えずにまず念仏を称えましょう、と言っています。型だけでもよいと言うのです。最初の一歩を踏み出さなければなにも始まりません。道を歩くにはまず一歩からです。
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おときの話21 平成20年 5月
覚 り
本能と欲望  動物は本能を持っています。本能は、動物が本来もっている能力です。本能は、動物が生きていくために最小限必要な能力です。動物は、生きて行くことができればそれ以上のものを求めようとはしません

 人間は本能の他に欲望も持っています。欲望は、人間が望み欲する心です。。人間は、生きているだけでは満足しません。さらにそれ以上のものを求めます。欲望は果てしがないからです。生きている間中求め続けます。
煩悩
 欲望は、求めても求めても限界がないので満たされることはありません。満たされなければ不満足になります。そのことで悩み煩うことになります。煩悩は私たちが死ぬまでつきまといます。多分煩悩から解放されている人間はいないのではないでしょうか。
 煩悩が多ければ多いほど失敗をしたり罪を犯したりすることも多くなります。この煩悩がどんなに多くてもどんなに強くても、仏さんは救ってくれます。と教えてくれるのが真宗の教えです。
親鸞の場合  親鸞聖人も20年間比叡山で修行をしたのですが、覚りをひらくことはできませんでした。煩悩はますます燃え盛るばかりであったそうです。自分の力で修行をやり遂げることのできない人は、仏さんの力にたよるしかありません。仏さんにおまかせします、という心を表すことばが念仏です。ナムアミダブツです。親鸞聖人は念仏にすべてをかけたのでした。
過去のこと  生まれてから今日まで、私たちは誰にも言えないような恥ずかしい失敗や失態を繰り返してきたのではないでしょうか。大声で怒鳴られたり怒鳴ったり、冷たい目で見たり見られたり、みじめな被害者になったり、とても口には出せないような加害者になったりしたこともあるでしょう。

 一歩間違えれば警察沙汰になるようなことも私にはありました。そんな過去を振り返って、悩み煩ってばかりいてもどうしようもありません。できることは反省することだけです。どうしようもないことは仏さんお任せするしかありません。過去のことは過ぎてしまったのです。

 また、過去の栄光に酔っていてもどうしようもありません。
未来のこと  未来はどうでしょうか。いつ病気になるか知れたものではありません。いつ怪我をしても不思議ではありません。一切わからないことなのです。わかることは、必ず年老いていくということです。最後は必ず死ぬということです。

 たとえ宝くじに当たって3億円を手にしたとしても、すばらしく幸福な生活ができたとしても、いつかはそのうち終わりが来ます。それが私たちの未来です。どうしようもありません。どのようになろうとも仏さんにおまかせするしかありません。それに、なんといっても未来は未だ来ない時のことです。とやかく悩んでもどうしようもありません。

 また、未来の夢にうっとりしていてもどうしようもありません。
今のこと
 私たちは今現在に生きるしかありません。自分の力ではどうしようもない過去や未来は仏さんにお任せするしかありません。今現在の生活であれば少しはなんとかなりそうです。それも少しです。

 いくら努力しても能力には限界があります。思い通りにはいかないのがこの世です。それでも精一杯今を生きることはできます。結果は未来のことで、どうしようもありません。今手の届く過程を大事にすることです。仏教では、刹那に生きるなどと言っています。
覚り  このような教えが真宗の教えですので、私たちは覚りというものについてあまり知る必要がありませんでした。どうせ私たちは煩悩から逃れられないし、覚りを開くこともできない弱い人間だから覚りについて知る必要がない、と思っていました。

 覚りがどのようなものであっても、私たちが救われるのであれば問題はありません。
正岡子規の覚り
 そうなのですが、少しは覚りについて知りたいと思っていたところ、俳人の正岡子規の言葉が目にとまったのでした。

「覚りとは、平気で死ねることではなく、平気で生きていることである」

 というような内容の言葉でした。昔の武士であれば常に平常心を保ち、殿様から切腹を言いつけられればいつでも死ねる覚悟が必要でした。戦場では恐れることなく敵陣に突入していく勇気を要求されていました。平気で死ねなければなりませんでした。それが覚りと思われていたところがありました。

 正岡子規は、「平気で生きていること」が覚りだと言っているのです。過去にどんな失敗をしたとしても、未来にどんな恐ろしいことが待ち受けているとしても、過去も未来も現実のものではありません。夢か幻のようなものです。仏さんにお任せするしかありません。  
 
 正岡子規の覚りは、親鸞聖人の念仏の教えと通ずるものがあるように思われます。
私の覚り
 私のホームページをご覧になった群馬県の方が私にメールを送信し、角館に観光に行くことになったので是非お会いしたい、と言ってきたのでした。私は早速返信し、「お会いできるのを楽しみにお待ちしております」とお会いする固い約束をしたのでした。

 ところがです、こともあろうに忘れてしまったのです。お会いする日時をすっかり忘れていたのです。弁解のしようもありませんでした。群馬県の方はわざわざご夫妻で訪問してくださったのです。おみやげに達磨さんを持ってきてくれていました。

 達磨さんは紅白の夫婦の達磨さんで、背中には「幸」と「福」の文字を背負っていました。あまりの仕方なさにすぐにお詫びのメールを差し上げたのですが、返信はしていただけないものと覚悟していました・・・が丁重な返信をいただいてしまいました。
 
 私は感激のあまり、白い「幸」の字を背負った達磨さんの目に黒々と目玉を書き入れました。紅い「福」の字を背負った達磨さんの目には、私たち夫婦が群馬県のご夫妻にお会いする機会を持った時に、黒々と目玉を書き入れることにしました。
 こんな大失敗の過去を背負っていても平気で生きるなどとは非常に言いにくいことですが、仏さんにお任せすることはお任せして、反省し、感謝をし、今を元気に生かさせていただくことが大事ではないかと心している次第です。
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おときの話22 平成20年 8月
お 盆 の い わ れ 
お盆は苦しみ  「お盆」はインドのことば「盂蘭盆」のことです。「大変な苦しみ」という意味です。 
因果応報 お釈迦様の弟子の目連が、亡き母が生前食べ物に貪欲で、他の人に施すということがなかったので、死後餓鬼道に墜ちてしまいました。目連は毎日のように、母がのどが渇き飢えに苦しんでいる夢を見ました。それで毎日のように母の墓前に水と食べ物を供えました。しかし母の苦しむ夢は消えませんでした。

お釈迦様に相談すると、それは目連の母が生前仏法僧の三宝を大切にせず、僧が教えてくれる慈悲の心をもって他の人々に施しをするということがなかったので、因果応報により今苦しんでいるのだ。だから母の苦しみを無くするためには、母を供養するのではなく、今(七月十四日・十五日)仏法の教えを受けている諸僧に山海の珍味を供え、誰も拝んでくれない無縁の人々を供養しなければならない、とお釈迦様は目連に教えられました。

お釈迦様の教えに従ったので、目連の母は極楽へ救われました。 
お盆の行事 お盆の行事は、斉明天皇の頃から行われてきました。それ以来千年余り、各地で広く行われ、長い間にそれぞれの地方独特のいろいろな風習が培われてきました。お墓にお供え物を置くときに、棚を作ってその上に置くところもあります。たくさん供えて、無縁仏をも供養するためです。供養によって私たち自身の心に慈悲心を育てることができます。

食べ物をお盆の上に置くところから、「ウラボン」の「ボン」に「盆」という漢字を当てたようです。

盆踊りは、最初は念仏踊りだったようです。念仏を称えながら踊り、他の人の幸福と自分の幸福を願いました。

十三日には先祖の霊が帰ってくるというので迎え火を焚いて霊を迎えるところもあります。十四日,十五日には供養をし、十六日には先祖の霊が戻るというので、送り火を焚いたり、灯籠流しをしたりします。灯籠流しは精霊流しと言われたりもします。白小餅や素麺は身体に良い食べ物と考えられていたので、昔からよく仏壇に供えられています。
お盆の心 お盆は、ご先祖様と一緒ごちそうを食べるためだけの行事ではありません。誰にも供養してもらえない無縁さんをも一緒に供養するための行事でもあります。

一見何も関係の無いように見える無縁仏を供養することによって、私たちの心の中に思いやりの気持ちをはぐくむことになります。

思いやりの気持ちは慈悲心でもあります。慈悲心は仏さんの心です。私たちはお盆に、仏さんの心を私たちの心の中に思い起こすことができます。

仏心は良い原因となり、よい結果を得ることになります。
念仏の心
 『南無阿弥陀仏』は、まず自分以外の人の幸せを願うことによって、その結果として自分も幸せになっていく、という仏の心と私の心が込められたことばです。
      
 念仏は、私が称えるけれど、仏に称えさせていただくので、抜群の効果があるのです。天命に従いて人事を尽くすので間違いがないのです。
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おときの話23 平成20年10月
覚  悟 
覚と悟
 覚悟(かくご)という言葉があります。死を覚悟するとか、受験に失敗することを覚悟するとか、大切な物を失うことを覚悟するとか、マイナスなことを受け入れようとする時にこの言葉が使われるようです。

仏さんの教えでは、サトルという言葉がよく出てきます。漢字で表すと「覚ル」と書いたり、「悟ル」と書いたりします。
覚り  「覚」は物事を覚(おぼ)えると言う意味があります。目が覚()めるという時にも使います。閉じていた目を開けると光が差し込んで、周囲の光景がはっきりと見えるような状態を言うようです。

私たちは普段目を開けて物を見ていますが、目に映る画像は同じでも、心に映る画像はそれぞれ異なるのではないでしょうか。

水槽で泳いでいる魚を見ても、魚が美しいと思う人もいるし、かわいいと思う人もいるでしょう。水槽に閉じこめられてかわいそうと思う人もいれば、おいしそうだと思う人もいるでしょう。千差万別です。魚を見る目が違えば、心に映る画像も異なるようです。

仏さんの目を通して魚を見ると、魚も人間と同じようにこの大自然に生命を受けた大事な存在と映るのではないでしょうか。人間や自分自身を特別視することなく、仏さんのように自然にあるがままに物を見ることを「覚」ると言うようです。
この世の中 この世の中をありのままに見ると、無常の世の中が見えてくるようです。無常は無情でもあるようです。何事も同じ状態を保っていることは無いので、幸福もいつまでも続くとは限りません。人生はあざなえる縄のごとしです。チャンスの後にはピンチが来ます。

もちろん、ピンチの後にはチャンスが来ます。うまくいっていなくても、状況は変化します。どんなにひどい状況にあっても、希望はあります。無常は悪いことでもありますが、良いことでもあります。

幸福だと思っていたらいつの間にか不幸になっていた。不幸だと思っていたら幸福がそこにあった。これが無常の世の中です。ただただ運命の波に押し流され続けているのが人生の姿のようです。不安定な世の中です。安心ができません。
五木寛之は 作家の五木さんは、人生はヨットに乗っているようなものだと言います。風が吹かなければヨットは動きません。風には順風もあれば逆風も暴風もあります。

私たちはじっと順風を待っているしかありません。順風が吹くことを願いながら待っているだけです。

ただし、順風が吹いた時にヨットの帆を上げている必要があります。準備をしっかりしていなければ、風に乗ることはできません。

人生における準備はいろいろあるでしょう。準備には努力も必要です。順風が吹いた時の心構えも必要です。精神的、物理的に準備をする努力が必要です。その上で順風を待つのです。

風が吹くかどうかは、自然の法則におまかせするしかありません。自力ではどうしようもありません。
悟り  「悟」の左側の「S」は立心偏(りっしんべん)と言い、心を表すものです。右側の「吾」は我(われ)という意味です。「悟」は我が心を表す漢字です。

悟(さと)ると言う時は、我が心の本当の姿を覚るという意味になるようです。「覚」が自分の外の世界に目が開けるのにたいして、「悟」は自分の内の世界に目が開けるという意味になります。

自分の内の世界は心の世界です。私たちの心は欲望に満ちている世界です。あふれる欲望のために怒(いか)り、妬(ねた)み、嫉(そね)み、恨(うら)み、辛(つら)み、などが心の中に渦巻くことになります。

欲望は生きている限り消えることはないので、生きることは四苦八苦することとなります。このようなどうしようもない自分の姿を素直に見つめることができた時、「悟」りの目が開いたと言うのではないでしょうか。
心の中 私たちの心の中には、自分さえよければ他の人はどうでもよい、という強い欲望が渦巻いています。欲望を満たすことが一番大切だという欲求です。

この世の中のもめ事や事件は、ほとんどがこの欲望が原因となっているのではないでしょうか。

欲望は他の人を苦しめるだけではなく、実は私たち自身をも苦しめているのです。このことをわかっていても、どうしようもないのが欲望です。

仏さんは欲望を煩悩と呼びます。悩み煩わせるものです。私たちはこの煩悩から逃れることはできません。私の心はどうしようもないものです。
サトリは無駄か 自分の外の世界と内の世界の真実の姿を目にしたとき、とても安心して生きていけそうもない世界であることがわかります。

仏さんは、この世は無常で一切皆苦であると言います。私たちが生まれた時には、すでに死が準備されているのですから大変なことです。ですが、私たちはこの現実を覚悟しなければなりません。

そうすると、悟りを開いたと言っても、苦しむだけのことになってしまいます。苦しむ自分を見つめるだけの悟りになってしまいます。覚りも単なる客観的な目が開いただけということになってしまいます。
真実は出発点 この世の本当の姿を教えて見せてくれているのは仏さんです。仏さんは私たちに真実を見せて、私たちを苦しめているのでしょうか。そうではないでしょう。

嘘偽りの無い真実を土台にしなければ、しっかりと安定した建物は建ちません。いつ崩壊するかわからないような家の中では、安心は得られません。

家はどんなに粗末でも、見かけは悪くとも、土台が信頼できるものであれば安心できます。真実は無情で厳しくても、ゆるぎがありません。

真実は結末ではなく出発点です。そこからすべてが始まります。極楽浄土への道がはじまります。仏さんはこの出発点を私たちに教えてくれたのです。
覚悟の先には 一切皆苦を覚悟してもう一度この世を見てみますと、まんざらでもないようです。ピンチの裏にはチャンスがあり、不幸の陰には幸福が隠れています。逆風もあれば順風もあります。

本当は心の中にだって捨てがたいものあるのです。仏さんはいつの間にか私たちの心の中に、すばらしい贈り物をしてくれていたのです。それは仏心と呼ばれる物です。慈悲心とも言われ、思いやりとか優しさとかも言われます。

私たちの苦しみの暗い人生に明るい光を照らしてくれていたのです。
仏心が救済 この世に仏心があればこそ、ほっとした安らぎの心に満たされることもあるのではないでしょうか。砂漠の中のオアシス(泉)のようなものです。

不幸や逆風を超えたところに安心があります。安楽があります。仏さんは私たちにそのことを気付かせようと懸命に働いてくれていま。簡単なことのようですが、現実には砂漠の中のオアシスに気付く人は多くはないようです。気付いたとしてもすぐ忘れてしまうようです。砂漠は広く迷いやすいからです。

本当のことでありあたりまえのことですが、仏心が私たちを救済してくれることを意識する人は少ないようです。耳から聞いても心には留まらないようです。

人生がどんなにつらく苦しく感じられても、つらければつらいほど、苦しければ苦しいほど、心の底から発せられたやさしい気持ちには、敏感に反応するのが私たち人間ではないでしょうか。動物だって反応します。

自分の心の中の仏心の存在に驚き、安心することもあります。喜びでさえあります。仏のような優しい行為は、自分にとって大変な喜びとなります。 
念仏の役割 念仏は私たちにオアシスを思い出させてくれるキーワードでもあります。ナムアミダブツと口に称える時、人生のオアシスに思いが至ることであれは、大変有り難いことです。

私たちの心の中にある仏心は、私たちが念仏を称えることによって心の奥底から浮かび上がってきます。もちろん、念仏のいわれなど仏さんの教えに日頃から耳を傾け、疑問を持ったり考えたりしていることは必要です。

仏さんの教えなど何も聞いたことのない人が、突然念仏を称えてもどうこうなるというものではないでしょう。
念仏の心 煩悩の心に気付き反省し、仏心をいただいていることに感謝する。これが念仏の心でしょう。
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おときの話24 平成21年2月
この世は天国か 
科学は万能 この世は本来天国のようなものでなければならない、と私たちは思っているようです。人間には科学という万能の武器があるのだから、この世を天国にすることもできるはずだ、と思っているかもしれません。

人間は全員平等に豊かで幸福であるべきだと思っているところがあります。
発見と発明 人間の歴史を振り返ってみると、寒い冬をどうにかして生き延びたいと願うと、誰かが火を発見し、火をおこす方法も考えだしました。火のおかげで食料の種類も多くなりました。多くの人間が生き延びることができました。

人間同士の間で意志を通じさせたいと願ったら、誰かが言葉を作り出しました。文字も作りました。

他の動物よりも早く走りたいと願ったら、汽車や自動車を作りました。

鳥のように空を飛びたいと願ったら飛行機を考え出しました。ロケットで月にさえ行くようになりました。
不平不満
豪華な汽船で世界旅行をする人たちもいます。一年に何回も海外へ遊びに行く人たちもいます。国内にも、まったく働かなくても暮らしていける人たちもたくさんいます。お金の苦労など知らない人たちもいます。
 
自分だって豊かに暮らす権利があるはずだ。一部の人たちだけが天国の生活を味わっているのはおかしいことだ。不公平だ。間違っている。・・・などと私たちは思っているところがあります。
一切皆苦 この世が天国のような世界であるはずだ、と思っていること自体が不自然ではないでしょうか。私たちは誕生した瞬間から死へと向かって生きているのです。

私たちの生には死という結末が待っています。そのような一生が天国(正確には極楽)であるはずがありません。生きるということは大変なことです。苦しいことです。

仏さんはこの世は一切皆苦と言っています。どんなお金持ちにとっても同じことです。平等です。皆苦しみながら生きています。まあ〜そうは言っても、お金があったほうが便利には違いありませんが。
生老病死苦 私たちは生まれて生きる苦しみを持っています。自分の気持ちとは関係なく、宿業に従って生きなければならないという苦があります。それに老いる苦しみ、病気になる苦しみ、死んでいかなければならない苦しみがあります。
宿業 悪いことをしたくなくても、そうしなくては生きていけない場面は数知れません。毎日のように口の中に入れて食べている肉や魚、野菜だって命です。他の命を私たちは食べなくては生きていけません。

道を歩いていてもアリやミミズを踏んづけて歩いてしまいます。

人間の社会においても、自分が働いているということは、他の人を押しのけて職に就き、給料をもらっているということです。この世界の冨には限りがあります。誰かが得をすれば誰かが損をします。
犠牲
私たちは気がつかないでいますが、自分が生きているということは、他の何かを犠牲にしているということでもあるのではないでしょうか。他の命の犠牲の上に私たちは生かさせていただいているということでしょう。
 
逆に、私たちも何かの犠牲になっていることも数知れずあるということでしょう。そこには当然のこととして苦が生じます。この世は犠牲にしたり、犠牲になったりの苦に満ちています。
苦が出発点 犠牲の上に成り立っているこの世の仕組みの中での私たちの人生は苦の多い人生ですが、苦の裏には楽も見え隠れしています。
人生は楽なものだという出発点に立てば苦が目立ちます。逆に苦という出発点に立てば楽が光って見えてくるのではないでしょうか。
不浄の身 親鸞聖人は「 虚仮不実の我が身にて 清浄の心もさらに無し 」と自分のことを嘆いています。自分は嘘(ウソ)とか偽(イツワ)りとかに満ちている人間で、心の中は汚いものだと反省しています。本当に正直な方です。

心の汚れは他の人に迷惑をかける原因となります。苦を生み出す元凶でもあります。心の汚れた人間達がお互いに苦を作り出しているのがこの世であるというような面もあります。

私たちの心だって同じでしょう。だいぶ汚れています。
自分の姿
一切皆苦のこの世の中で、反省と感謝が無ければ光は見えてきません。私たちが自分の生き様を省(カエリ)みて、自分が生かされていることに気付かなければ、救いはないようです。
私たちの本当の姿を見せてくれるのが仏さんの智慧です。智慧は光のように私たちの姿を照らし出してくれます。
楽は今に こんな私たちにでも、仏さんは今という時を与えてくれています。私たちの命はあっという間に終わってしまいますが、それだからこそ今生きていられることを大事にしなくてはいけない、と仏さんは教えています。

金があっても無くても、皆に平等に与えられている今という時を大切に生きなければ、それこそ罰が当たるというところでしょう。
(作文力の不足を補って読んで下さい。)
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おときの話25 平成21年3月
最初の一歩 
座禅の極意 早朝の教育テレビに「宗教の時間」という番組があります。この番組でのことですが、僧侶でありながら大学の先生もやっているという方の話でした。

『修行の一つに座禅行があります。修行は一般的には悟りを得るために行われるものと考えられており、座禅も悟りを得るため、または何か功徳を得るために行われるものと考えられております。

しかしながら、座禅はなにかのために行うものでもなく、手段でも道具でも方法でもありません。座禅そのものが悟りであり目的であります。』というような話でした。
達人の領域 私たちは一人前の坊主になるために修行するとか、一人前の大工さんになるため、茶道の師匠になるため、柔道、剣道の達人になるために修行をするとか言います。

厳しい修行に耐えてこそ希望がかなえられると私たちは思っています。そのとおりのことで間違いはないのですが、この大学の先生は、一人前の職人とか達人にはすぐにはなれなくても、その修行の道に入ったところですでに一人前の職人とか達人の領域に入っている、その領域に至る道も領域の一部である、と言っているような気がしたのは、私の思い過ごしだったのでしょうか。
              
道を発見する喜び 私は山歩きが好きでたまに近所の山に出かけますが、まったく初めての山に入って道に迷ってしまうこともあります。道を見失ってしまい方向感覚さえなくなってしまことがあります。

このように道を失い困惑してしまった時、やっとの思いで道を発見し歩き始めた時の喜びというか、安心感というか、もうすでに目的地に到達してしまったかのような気持ちになるものでした。

道を歩き始めた安心感は、目的地までの長い距離を超越して、手段だとか方法だとか苦難の道さえ乗り越えてしまうような不思議な感覚です。
一歩の重さ 修行の道でも最初の一歩が重要な意味をもつのではないでしょうか。もちろん二歩目三歩目も重要なことには変わりはありませんが。

最初の一歩も最後の一歩も同じくらい深い意味を持つのではないでしょうか。初めて座禅をする人にとっても、何十年も座禅を経験している人にとっても、座禅の持つ意味合いに違いがあるにしても、座禅の持っている意味の深さ重さは同じでしょう。
凡人にも仏心 仏さんの仕事は、苦しんでいる人を苦しみから救い出そうとし、少しでも楽を与えてあげようとすることです。この仕事は、仏心である大慈悲心から行われる仕事です。

仏心は温かい心です。仏さんでなくとも、私たち凡人でも仏心は持っています。俺はそんなものは持っていないと言うような人でも、煩悩の霞(かすみ)を振り払ってよく見れば、少しくらいは仏心を持っているものです。仏さんが私たちに平等に与えてくれているのだそうです。
仏心の実践 仏さんは大慈大悲の行を常に行っています。これを常行大悲と言います。私たちは煩悩にまみれていますので、慈悲の行を常に行うことはできないようですが、少しくらいはたまに慈悲の行らしきものはしてみてもよいでしょう。

仏心の実践です。温かい心の実践は仏さんの行為です。煩悩に汚(よご)れた私たちでも、仏さんと同じような行いはできます。常にはできなくても、少しでも行うことが大切です。小さな一歩でも仏さんの一歩です。
実践の一歩 念仏を称えて救われて行くと言う教えが私たちの浄土真宗ですが、念仏の心は慈悲の心です。仏さんの心が私たちの心になっていくところに救いがあるのではないでしょうか。

念仏を称えることが仏心の実践の一歩です。
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おときの話26 平成21年3月
私の目 仏の眼 
びっくり 二十年くらい前、アニメ動画でハットリ君が流行っていました。テレビでハットリ君を見ていた息子が言いました。「あの人は悪いことをしたから、殺してもいいよな?」

「絶対悪いことはしてはいけない」 と親である私は息子に常々教えていました。善悪を区別できる人間に育って欲しかったからです。

その結果が「殺してもいい」でした。
いのち 私たち生きている物はすべて、常に他の「いのち」をいただいてしか生きていくことのできない存在です。少々大げさな言い方かもしれませんが本当のことです。

動物だけでなく植物だって生命ある物です。私たちは他の「いのち」によって生かさせていただいている、と言ってもよいのではないでしょうか。
矛盾 作家の高史明氏は「殺の行為」と言っていますが、生物は「殺」という罪を犯さなくては生きていけない、と言っています。

私たちがすでに罪を犯しているという事実を意識し自覚しないで、「悪いことをするな」という説教は矛盾している、と言っています。

もちろん「殺の行為」は悪いことであり、できれば避けて通りたいことですが、避けることは自分の命を絶つことを意味しています。
間の抜けた教え 自分の命を生かすためには、他の命をいただかなくてはならない存在が私たち生物です。それが宿業です。

他の「いのち」をいただいて生きていることを自覚しないで、「悪いことはするな」という息子への教えは、どこか間が抜けているものだったのかもしれません。

単純に世の中を善悪で割り切ろうとするところに無理が生じたのです。悪は絶対に許されない、という考えが「殺してもいいよな?」という結果になってしまったのです。

私たちは物事の善し悪しの判断だけに従って生きているわけではありません。
反省と感謝 親鸞聖人はこのような存在を罪悪深重(ざいあくじんじゅう)と言っています。

他の「いのち」をいただいても良いということではありません。生きるためにやむをえない、ということです。生かさせていただいている、ということです。

そこには、罪悪深重の自覚によ生きている反省と感謝が無ければなりません。反省と感謝の眼無くして、物事を正しく見ることはできないようです。
縁によって生かされて 仏さんの教えでは、縁ということを言います。つながり、と言ってもよいかもしれません。私たちは無数の縁によって生かされていると教えています。

私たちは自分一人の個の力によって生きているように思っていますが、そうではありません。働いて稼いだお金の力だけで生きているのでもありません。

自分と他との関係は、力や金や善悪の関係だけで成り立っているわけではありません。他との目に見えないつながりである縁によって成り立っていると言うのです。

自分が成り立たせていただいているという表現が適切でしょう。
私が魚だったら 動物も植物も自然の生命です。その生命である魚を捕る時、人間は釣り針に餌をつけて魚を騙して捕ります。または網を仕掛けて大量に捕獲もします。

食べるために養殖をして育ててから捕ったりもします。もし自分が魚の立場であったらどうでしょうか。恐ろしいことです。食べられるために騙されたり、育てられたりするのです。

牛や豚だってそうです。鶏だってそうです。足がおいしいだとか手羽先がおいしいだとか、舌だ、尾だ、内臓だとか言われたらどうでしょうか。

それが自分の身体だったらどうしますか・・・。絶句です。反対の立場に立たせられると、絶句せざるをえないような縁によって私たちは生かされています。
仏さんの眼 私の目には見えないものがいっぱいあります。普段気が付かないでいる大切なことも数知れずあります。反省をしなければ取り返しのつかなくなることも多いでしょう。

反省する心には、仏さんの眼が与えられるのではないでしょうか。仏さんの眼は、私たちにこの世の本当の姿を見せてくれることでしょう。
今に生きる 反省はします。反省はするのですが、やはり他の「いのち」をいただいてしまいます。食べてしまいます。食べなければ生きていけないからです。

憎むべき存在です。悲しい存在です。恐ろしい存在です。それでも自然に生かされています。自然の一部として存在を認められています。

今生きることを許されています。今生きていることに大きな意味を見つけることができれば幸いです。
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おときの話27 平成21年4月
空を見上げて 
生命の背景
冬の間厳しい寒さの中で耐えていて、その力をじっと蓄えていた生命が春を待っていました。春には雪が溶け、土の中に眠っていた生命が芽を吹き出します。バッケやコゴミや片栗など、桜やチューリップや菜の花などたくさんの生命が活動し始めます。
 
 なんにも無いところから生命が飛び出したのではありません。長い長い時間を経て、計算なんかできないほどの長い過去を経て、今芽を出したところです。過去という無限の広い世界から、今に生まれ出た生命です。人間の力でも科学の力でもありません。自然の力です。
バッケの写真
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大地は過去 大地は過去です。たった一つの新しい生命を生み出すために準備された無限の過去が大地となります。大地は生命の生みの親です。生命は地上に生み出され、大地に支えられて生きています。

大地より養分を与えられ、大気より新鮮な空気を呼吸して生きていきます。私たちは過去の頂点に立っているのです。過去を大地として地上に生まれ、今を生きています。今はどんどん過去になって行きます。今が積み重なった過去を土台としてその上に生かされています。生かされて生きています。
大地が育てる 春に芽を吹いた植物は花を咲かせます。栄養分は大地にしっかり張った根から吸収します。地中に蓄えられていた栄養分が植物に芽を出させ、花を咲かせ、葉を茂らせ、幹や枝を育てます。大きくなった植物は、葉を散らし、枝を落とし、大地の養分となっていきます。
地上は現在 生命が生きている場所は地上であり現在です。今現在私たちが生きている空間は地上であり、時間は今です。地上は現在です。私たちの生活の場は今ここにあります。過去にあるのでもないし未来にあるのでもありません。

しかしながら、現在は過去に支えられいます。過去がなければ現在もありません。現在は未来へと向かっています。未来があるから現在があります。未来のない現在など考えられません。
空は未来 私たちは過去の上に生き、支えられ、未来に手を引かれ導かれ生きて行きます。未来は空です。空に太陽の光があるように未来にも光があります。希望や夢があります。希望に燃えるとも言います。熱い夢などとも言います。希望とか夢などと言うと現実離れしているようにも思われますが、希望や夢があればこそ現在が輝いてくるのではないでしょうか。さあーやるぞ、という気持ちになります。
空を見上げて 太陽の光が地上の生命を照らし、温めてくれるように、未来は現在を照らし温め、夢のある未来へと引っ張り上げてくれます。どんなに悲しくても苦しくても古き良き過去へ帰ることはできません。古き良き過去を土台にして未来へと向かわなければなりません。下の大地を見つめているだけではいけません。空を見上げて太陽に向かうことです。
菩薩は応援団
仏さんは過去にも現在にも未来にも存在するように、大地にも地上にも空にも存在します。仏さんはこの世に菩薩として姿を現しますが、菩薩の中に地湧菩薩という方がいます。

地湧は大地から涌いて来たという意味です。ご存じの地蔵菩薩もそうです。大地出身です。また虚空菩薩という方もおります。空出身です。仏さんは時空を超えてあらゆるところにいます。あらゆるところから私たちを支えて応援してくれています。
念仏の心 菩薩の応援歌はお経です。激励のことばは念仏です。ナマンダブ〜です。よし頑張るぞ〜という気持ちもナマンダブ〜です。
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おときの話28 平成21年6月
お経堂開き 
わからなくてもいい 6月19日にお経堂開きをしました。お経堂のまわりの草取りや掃除をします。お経堂を開いて、「おとき」に集まっていただいた檀家の方々に参列してもらい、お経をあげます。先代住職は永代供養をかねている行事だと言っていましたが、よくわかりません。現住職がよくわからないまま行事を進行していることは不思議でもあり奇妙でもありますが、それでもいいじゃないかと思っています。わからないまま受け入れることが必要なこともあります。 お経堂の写真
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お経堂には大蔵経が納められています。大蔵経はすべてのお経のことを意味するので一切経とも呼ばれています。この膨大な数のお経には何が書かれているのでしょうか。
経の意味 お経は、サンスクリット語というインドの言葉でスートラと言うそうです。スートラの意味は「つなぎあわせる糸」という意味だそうです。物と物をつないだり、物事と物事をつないだり、あらゆるものをあらゆるものにつなぐ糸のことです。いろんな物事の間にある関係とか規則とか法則を意味しているようです。
目隠しでは無理 私たちは目隠しをされて深い森の中にぽつんと一人置かれると、全く動くことができません。勝手に歩き回っても道に迷うだけです。目隠しを外して、自分が何処にいるのかを知らなければなりません。

太陽の位置はどこにあるのか、道はあるのか、道しるべは、手がかりは、音は、記憶は、などなどいろんなことを周りの世界から教えてもらわなければ歩くことはできません。もしかすれば協力してくれる仲間がいるかもしれません。

目を閉じて一人ではなにもできません。周囲のあらゆる物事から助けを借りなければ動けません。
一人では無理 人間が生きていく上で必要な物は衣食住である、衣食住はお金がなければ手に入れられない、だからお金は一番大切だ、という考えがあります。

お金さえあればそれでよいという考えです。自分は一人で生きていけるという考えです。私たちは一人で生きていけるものでしょうか。

もっともっと目を開いて周囲の状況とか環境とか他との関わり合いを考慮しないと道に迷ってしまうのではないでしょうか。
金は万能ではない 学校ではいじめがだいぶ目立っているそうです。いじめられる子供は金銭的に困っている子供とは限らないようです。

金銭的にどんなに豊かでも、いじめがある環境では困ってしまいます。生きているのがいやになることもあるでしょう。

衣食住だけが幸福をもたらすものではありません。他との温かい関係が必要です。
自然も大事 他とは人間関係だけではありません。人間と自然も調和が必要です。人間だけがよければそれでよいという人間の一人歩きが環境の破壊を生み出しています。

地球温暖化はその最たるものです。絶滅しつつある動物や植物もたくさんあります。その反動が必ず人間に跳ね返ってきます。天に唾するようなものです。
日常気が付かない貴重な自然  先日、お墓をリフォームするというので雲然までお経を上げに行ってきました。お骨はどうするのですかとたずねると、ここは土葬だからそのまま上にお墓を造るということでした。

土葬と聞いてなんとなく周りを見渡すと薄暗く、神秘がただよっているような感じがしました。土葬の上の草は刈り取られていましたが、なんとなくその上を歩くことはできないような気がしました。

よく考えると、土葬でなくても普通の土の中にはミミズもいるし、モグラ、ネズミ、蛇、いろんな虫などが住んでいるので、その上を歩くことはなんとなく遠慮しなければならないように感ずるのが当然なのに、私たちは平気で歩いています。

お経の心からいうと、ごめんごめんと言いながら歩かなければならないところです。少なくともそのことに思いをいたすことが大切です。
畜生に支えられ 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道の中に畜生とありますが、これは犬猫牛豚鳥など人間に飼われている動物たちのことです。

この動物たちは人間にこびへつらって餌をもらって生きていると思われているので、畜生などと言われ馬鹿にされていますが、人間はこの動物たちの恩恵を多大に受けています。

犬や猫になぐさめられている人たちはいっぱいいます。牛や豚や鳥は食事を豊かに楽しくしてくれます。人間は動物たちや植物たちに支えられて生きています。
植物にたより 野菜などの植物は大地から栄養を吸収し、空中から酸素や二酸化炭素を吸収し生育します。動物はこの植物を食べて大きくなり、人間は植物や動物を食べて生きています。
大地と地上と空 忘れてならないのが大地の中にある溶岩から発せられる熱と空から降り注ぐ太陽の熱です。暖かさが植物や動物を守っています。暖かさは大地と空の温かさであり優しさです。大地と地上の生き物と空とすべてがスートラで結ばれています。他との関係を絶って生きているものなどありません。助けたり助けられたりぶつかったり謝ったりしながら生きています。
奥底に流れる心
お経堂のお経は、私たちがこの世で大自然と調和をし、自然の流れに逆らわないように、仲良く生きていく他とのつながりを教えてくれています。つながりの底には反省と感謝の心が流れています。そして何よりも温かい心が流れています。仏さんの慈悲心です。念仏の心です。
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おときの話29 平成21年7月
お葬式の話
出棺の奇習
人が亡くなると納棺をします。棺はお葬式の前に家から葬場へと運ばれます。これを出棺と言います。
 
出棺の仕方はいろいろあるようですが、昔はこの辺の地方では、家から棺を外に出す時に座敷の中で3回棺を回しました。なぜ3回回すのかというと、何事3回と言って、1回では足りないが3回も回せば大丈夫だろうということのようです。
何が大丈夫かというと、亡くなった人が確実に目を回して、方向感覚が無くなり、戻ってこれないようになる、ということだそうです。おまけに念のために棺を玄関から出さずに、土間から出したり窓から出したりしていました。帰ってきても入り口を思い出せないようにということでしょう。
  最近では、そんなことしなくてもよいだろうという意見が多いようです。仏さんがかわいそうじゃないか、帰ってきたければ帰ってくればいいじゃないか、帰って来て欲しいじゃないか、という気持ちなようです。

それで棺は3回まわさず玄関からそのまま出すという傾向にあるようです。
後払い 先日ある農家でお葬式がありましたが、出棺が終わってから隣家の人があわてて稲藁を束ねた物を2本持ってきました。危うく忘れるところだったと言って、2本の稲藁を棺が今まで置かれていた座敷に置きました。

それはなんですかと尋ねると、後払いするためのものだと言いました。出棺した後、なにかを払うためのものと思われました。いかにも棺とともに悪い物を追い払うように思われなくもありませんでした。
清め塩 納骨が終わって家に帰って来た時に、一般的には清め塩が玄関口に置かれていて、会葬者は手を清めることになっています。手が汚れているだろうということのようです。

本山ではこの清め塩の習慣を廃止しようという運動をしているのです。その理由は、納骨をして来たからといって何も手を清めることはないだろう、いかにも仏さんが汚れていて不浄のものみたいじゃないか、亡き人に対する冒涜だ、お骨は高熱処理をされているから清潔そのものだ、ということだそうです。
四華花 お葬式のあり方も昔と今ではどんどん変化してきているようです。式場の葬儀壇に飾られている四華花という紙でできている花があります。

昔は、神事で神主がお祓いに使う棒についている白い紙でできているものに似ていて、四華花も白いものでした。

最近の四華花は金色や銀色になっています。白い四華は珍しくなってきました。白より金銀のほうがりっぱだというのでしょうか。値段も高いのでしょう。
沙羅双樹 この四華花の由来は、お釈迦様が亡くなったときに、沙羅双樹が真っ白な花を咲かせ、釈尊のご遺体を覆いつくしたという説と、沙羅双樹そのものが悲しみのあまり白くなったという説などがあります。

昔は、近親者が悲しみをあらわす四華花を持って葬列に加わっていたそうですが、今でも白い布を頭に巻いたり、背中に垂らしたりして葬列をくんでお墓まで行進する地方もあります。
昔から伝えられてきた風習や形式にはそれぞれ意味があったようです。単なる形だけのものではありませんでした。
奇習の深い意味 出棺のやり方についても、当時の時代風景を考えてみますと、納得させられるものがあるようです。棺を回したり土間や窓から棺を出したのも、けっして意地悪をしてそのようなことをしたのではないと思われます。

当時の人々も、できることであれば亡くなった方に帰って来て欲しいと思っていたに違いありません。しかし、それはできないことだったのでしょう。亡くなった方には迷わずに成仏して欲しかったのです。

帰って来ることは、再びこの世の地獄を生きることになったからです。それほど悲惨な現実があったと思われます。あの世は極楽です。あえてこの世の地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道の苦しみを味わうことはありません。

極楽で安らかに過ごして欲しかったのです。亡くなった方への温かい思いやりの心だったのです。
         
昔の死装束はあの世への旅支度でした。菩提樹が道案内をしてくれます。
後払いにも 後払いの稲藁にも温かい心が流れています。当時の死因はいろいろだったでしょうが、恐ろしい病気はやはり疫病だったと思われます。疫病は流行病です。あっという間広まって多くの犠牲者を生むことになります。

犠牲者を多く出さないためには細心の注意を払うことが必要です。出棺後座敷を稲藁の束で掃き清めることが必要だったのです。亡き人を冒涜するためではありません。

生きている人たちを守るためです。救うためです。それは、仏さんとなった今は亡き方々の願うところでもあるのでしょう。
清め塩にも 清め塩でもそうです。昔は火葬ではなく埋葬でした。高熱処理ではないので埋葬は常に危険をともなうものでした。病気と隣り合わせの作業だったに違いありません。

作業の後はうがいをしたり手を洗ったりして清める必要があったのです。昔の人の知恵で塩は最上の消毒剤だったと思われます。清め塩は、亡き人を汚らわしいものと見る冒涜である、と簡単に片づけるわけにはいかないのではないでしょうか。

清め塩にも大切な意味があったのです。人々を守り救うという温かい心が流れていたと言えないでしょうか。必要ないから止めてしまえ、では済すまないでしょう
仏事には温かい心が流れていることが大事です。日常生活でも同じです。
余談の1 東京では、葬儀をしてから火葬をします。秋田でも昔はそうでした。秋田の人たちが東京へと仕事を求めて移動するようになってから、秋田では火葬をしてから葬儀をするようになったようです。

亡くなった方を何日もそのままで置かれないので、火葬をしてから遠方の親戚とか参列客をお待ちするために、葬儀を後で執り行うようになったようです。
余談の2 葬儀の場所は本来墓所でした。土葬にしても火葬にしても墓のある場所で葬儀を行ってから埋葬しました。

外で葬儀が行われたので、葬儀壇は仮に作られた簡単なもので、塗りも彫りも無い白木の壇となったのでしょう。壇は葬儀の後そこで焼かれたようです。

葬儀で使われた物は、できるだけ持ち帰らないようにしたのでしょう。それで葬儀壇やローソク立て、香炉などは今でも簡単に作られていて、一回限りの使用に耐えられる程度の作りになっています。

あまり頑丈な、何回でも使えるような葬儀用具は不吉な物として好まれなかったのかもしれません。
余談の3 火葬の後で葬儀をするようになってから、葬儀の場所はお寺の本堂でも行えるようになりました。境内で火葬前の葬儀が行われたことはあるようですが、本堂内では生仏の葬儀を行うことはありませんでした。

火葬後の葬儀は、最初本堂の入り口で行われたそうです。その後、本堂内の入り口近くで行われるようになりました。それから本堂内の阿弥陀さんの方で行われるようになりました。
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おときの話30 平成22年
煩悩という色眼鏡
お金の世界
私たちが今住んでいるこの世の中を見てみますと、中国が話題の中心になることが多いような気がします。中国は今世界で一番経済発展が著しい国です。経済的に豊かに生きていこうとすると、このような国に関わりを持っていくことが必要になってきます。それで世界中の国々が中国に視線を向けて、中国に集まってくるという状況になっているのではないでしょうか。中国が少しくらい乱暴なことをしても、喧嘩をするわけにはいかないのです。

 お金が無ければ幸福にはなれないものと決まっているかのように、この世界のすべてが金、金、金で動いているように思われます。たしかに今の世の中では、お金が無ければ動きがとれないし、大変に不自由な思いをしなければなりません。そのとおりなのですが、お金だけではない世界もこの世には同時にあるのではないでしょうか。
色眼鏡の世界
仏さんの眼からこの世を観ると、私たち人間は煩悩という色眼鏡をかけてこの世を見ていると言います。煩悩には食欲、色欲、金銭欲、権力欲などがあるようですが、私たちはこのような欲望を通して物事を見聞きしていると言うのです。お腹が空いている人がお魚やお肉を見るとおいしそうだと思うのですが、仏さんから観るとお魚やお肉は、人間という動物と同じ命を持っていた動物であり、今まで生きていた生き物であると見えるし、かわいそうなことだと思うそうです。それで、私たちがお魚やお肉を食べる時は「いただきます」と言ってから食べましょう、と教えています。私たちが生きていくためには、他の命をいただかなくては生きていくことができないのですから、感謝の気持ちを込めていただきましょう、と教えています。

 おいしい食事をするのは結構なことですが、人間の欲は深いものでもっとおいしいものを食べたい、もっと多く食べたい、ほかの人よりも多く保存して置きたいということになってくるのが人間の常です。そういうことになると、お金が必要となります。お金がなければ欲しい物は手に入りません。欲はますます深くなるけれども、欲に追いつくだけのお金が無ければ苦しくなります。欲は尽きることがないので、苦しみも尽きることがないということになります。欲望が苦しみの原因ともなっています。もちろん適度の欲は生存には必要です。
自然の世界
煩悩という色眼鏡を通して見た世界が欲望の世界だとすると、色眼鏡を外して観る世界はどんな世界でしょうか。大自然の世界です。ありのままの世界です。自然は変化し続ける川の流れのようなものです。自然の大きな流れは厳しい面もありますが、温かい面もあります。命ある物はすべて自然に生かしてもらっているからです。自然の法則は持ちつ持たれつ、この世にあるものすべてはお互いを支え合って生きるようにできています。厳しいだけではありません。人間の世界では、支え合う心を慈悲心と呼んでいます。慈悲心は優しい温かい心です。
観世音菩薩
仏さんの絵像や彫像を見ると、両脇にはたいてい家来か弟子のような方々が控えています。この方々を脇士(わきじ)と言い、これから仏さんになろうという菩薩です。菩薩は仏さんになる一歩手前の方々です。仏さんの脇士は、観音菩薩と勢至菩薩です。観音菩薩の名前はよく耳にする名前ではないでしょうか。観音菩薩は慈悲の担当です。この世の色々な姿に身を変えて私たちを救ってくれます。「あの人は観音様のようにやさしい人だ」「観音様の化身のようだ」などと言ったりします。

 観音菩薩は観世音菩薩とも呼ばれています。観世音菩薩という名前を、私は私なりの勝手な解釈で、この世の音のように目に見えないものを観せてくれる菩薩の名前であるとしています。目に見えないものとは仏さんの慈悲心などです。観世音菩薩は仏さんの心を観せてくれるし、実践してくれる方のことです。

 仏さんは、色眼鏡をかけない時に見える自然の世界を私たちに観せてあげようとしています。自然の世界の奥に見え隠れする仏さんの心を感じさせようとしてくれています。
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おときの話31 平成22年
仏さんの仕事
仏さんと真理
 
 
「一如」の一は不二にて、絶対平等の義で、如は如常にて不変の義です。即ち唯一絶対にして不変なる真如法性の理のことです。「一如」とは「絶対不変の真理」のことです。この一如の世界に住んでいた仏様は、私たち煩悩に苦しむ人間を見て、なんとか救ってあげたいとこの世の中に現れて下さいました。だから仏様を如来ともいいます。

私たちが住んでいる世界は宇宙であり大自然であり、その中に銀河系があり太陽系があり地球があります。地球にはいろんな植物や動物が住んでいます。山や川や海があります。これらの世界はすべて、ある法則にもとづいて動いています。人間が発見し理解できる法則もありますが、ほとんどの法則は人間の理解を超えたものばかりです。この法則は真理とも呼ばれています。

 真理はこの世ではたった一つしかありません。全てのものがこの真理にもとづいて動いています。たった一つしか無いので他と比較もできません。比較もできないので絶対でもあります。唯一絶対の真理を仏教では「一法」とも言います。これが仏さんの教える仏法でもあります。
仏さんの仕事
親鸞聖人は「弥陀如来は 如より来生して 報応化種々の身を示現す」と言っています。つまり、仏さんは如という真実の世界からこの世に来て、私たちのために本当の姿を見せたり、環境に応じて様々な人間の姿をしたり、時には人間以外のものの姿を借りて現れたりする、ということです。仏さんはこの世で私たちから苦を取り除き、楽を与えてあげようと努力してくれます。

 桜の散るのを見て、私たちはこの世の無常を知ります。ようやく花が咲いたと思ったら、あっという間に散ってしまう桜の姿に、私たち人間のはかない人生を感じてしまいます。仏さんが桜の姿を借りて、私たちにこの世の無常を教えてくれているのかもしれません。

 夏の暑い日に突然涼しい風が吹いてきて、しばし苦しい暑さを忘れてしまう瞬間があります。仏さんの慈悲の風かもしれません。

 食べ物がおいしいと感ずるのはなぜでしょうか。つくづくと他人の親切が身にしみることもあります。道ばたの花が美しいと感ずることはしょっちゅうです。

 子供がかわいいと感ずることがあります。なにか子供の喜ぶものをあげたいと思うことがあります。一緒に遊んであげて楽しませたいと思うこともあります。普段は欲望が渦巻いている私たちの心の中に、その時に仏さんが入って来るのかもしれません。
本当の喜び
 真実の世界から来た仏さんは、本当の喜びを私たちに与えてあげたいと思っているのかもしれません。偽(いつわ)りのない素直な心を開いていると、仏さんが喜びを運んできてくれるのかもしれません。私たちの心の中にだって入って来てくれているかもしれません。

 他の人を騙して自分の利益になることだけに努力しようとしている心では、感ずることのできない喜びがあります。損か得かの世界ではありません。数字の世界でもありません。形の世界でもありません。真実の世界の喜びです。
 「この世の中は、きれいごとだけでは生きていけない」と言う人がいます。そのとおりです。本当です。私たちは煩悩から逃れることはできないからです。死ぬまで欲望と道連れです。それでもいいんです。素直に欲望まみれの自分を認めることです。悪い心もある本当の自分を自覚することです。仏さんの前に自分をさらけ出した時の言葉が「南無阿弥陀仏」であり「ナマンダブ」です。

 念仏の心が仏さんになります。煩悩があろうが欲望があろうが仏さんの前ではすべてが功徳になると言います。功徳は良い結果を生む原因となります。親鸞聖人は「煩悩功徳の体となる」と言っています。
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おときの話32 平成22年
救われる方法
苦楽の原因
私たちの生きているこの世の中は苦労苦労の連続で、休むひまはほとんどありません。ましてや楽しみなどはめったにあるものではありません。生まれてから死ぬまでこのようなことの繰り返しではないでしょうか。

 仏教では苦とか楽とかという言葉をよく使いますが、私たちが苦しんだり楽しんだりすることの裏には、苦や楽を生み出す原因があります。風邪をひいて熱を出して苦しんでいるとするなら、風邪をひいてしまうような原因があったはずです。薄着をしていたとか、体力が弱っていたとか、強い風邪の菌をうつされてしまったとかです。

同じように、旅行をして楽しい思いをしているとするなら、旅行ができるような条件があったはずです。この条件が、楽の原因となっているはずです。まず、旅行ができるような健康状態であること、旅行費用をためることができたこと、時間があったことなどです。すべての結果には原因があります。その結果に至るための正しい原因を正因と言います。
信心は正因
苦しみ悩んでいる状態から救われるということがあります。欲望に汚れているこの世の中で悟(さと)りをひらくということがあります。往生するとか仏さんになるということがあります。このような結果を導く正因は、唯一つ「信心」だけであるという教えが仏さんの教えであり、親鸞聖人のすすめる道です。

 信心は信ずる心です。仏さんが私たちを苦しみから救ってくれるという約束を信ずる心です。また、すでに救っているという言葉を信ずる心です。だから、仏さんを信じましょう!

 このように簡単に言ってしまえばそれまでのことですが、現実には信ずるということは至難の業です。極度に難しいことです。どのように考えても生きている限りは苦からはのがれられません。それなのにどのようにして救ってくれるのでしょうか。これが私たちの正直な気持ちでしょう。
狭い理屈・理論の世界
私たちの頭が混乱してしまう原因は、理屈とか理論とかで納得できる世界と、理屈とか理論では想像できない世界をゴッチャにしてしまうことにあるのではないでしょうか。人間の頭脳が理解できる世界は、この広大な宇宙の中のほんのわずかな部分だけです。無限の真理の中のほんのわずかなことしか理解していないのが私たち人間です。私たちの頭脳はすばらしいものかもしれませんが、理解できることはほんのわずかなことなのではないでしょうか。 
信ずるか信じないか
仏さんは、人間が信ずる心を持てないのなら、南無阿弥陀仏という念仏のなかに信ずる心も入れてあげよう、そして念仏を称えれば、信心はその念仏を称えた人の信心となるようにしてあげよう、と宣言していますが、皆さんはどのように思いますか。念仏を称えてみようと思いますか、それともばからしいと思いますか。形だけでもやってみよう、と思いますか。

 日本には古来茶道、書道、剣道、柔道などの道が多くあります。どの道においても、最初は型から入ります。基本の型を伝授します。これが大切だから最初に教えるのでしょう。どのような達人も基本の型をはずれることはないでしょう。基本の型は、その道を極めた達人が会得したものだからです。基本にすべてがあると言ってもよいのではないでしょうか。

 仏道の達人が言っています。  「手を合わせるかたちが おがむ心を生みだした」
 

私たちの浄土真宗を開いた親鸞も言っています。  「念仏を称えて救われて行く道が真宗である」
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おときの話33 平成22年
極楽行きの大乗船
仏さんの船 親鸞聖人の書かれた「高僧和讃」に「生死の苦海ほとりなし、ひさしくしずめる我等をば、弥陀弘誓の船のみぞ、のせてかならずわたしける」とあります。仏の願いの込められた弘誓の船だけが、私たちをこの世の苦しみから救ってくれるといっております。この船は人々を差別せず誰でも乗せてくれるので「大乗」ともいわれます。 
小さい船
昔は、私たち衆生が救われるためには、良い行いをして自分自身を高めなければいけない、と考えられていました。良い行いとは、寺に莫大な貢献をし、本堂を建築したり仏像を寄進したり、高価な衣や袈裟(けさ)を僧侶に買い与えたりすることでした。自分を高めるためには、座禅をしたり断食をしたり厳しい修行に耐え抜いたり、ということもしなければなりませんでした。

 ところが、お寺に高額の寄付をすることができる人は、貴族や武士の高い位にある一握りの人たちだけでした。また、厳しい修行に耐えられる人というのも限られていました。第一に身体が丈夫でなければなりません。精神的にも強くなければやり抜くことはできません。もちろん頭も良くなければなりません。このように、あれやこれやと三拍子そろった人はそんなにいるわけがありませんでした。
大きい船
そのような時代に、念仏一つで救われることができると説いたのが親鸞聖人でした。民衆の大部分を占める身分の低い人たちや、賀茂の河原で暮らしていたホームレスの人たちさえも、親鸞聖人の周りに集まってきました。どんな人たちでも救われる、むしろ貧しい人、弱い人をこそ救うのが仏さんだ、と親鸞聖人は説いたのでした。

 特別の人だけを救うのではなく、どんな人でも救って極楽浄土へと連れて行ってくれる大きな船のようなものが念仏の教えである、というのです。仏さんの教えは、このような大きな乗り物にたとえられて「大乗仏教」と呼ばれてきました。
船着き場
念仏を信じつつこの世を去った方は、大きな乗り物に乗せていただいて極楽浄土へ往きます。極楽浄土へ往って仏さんになります。仏さんは苦しんでいる人を救ってあげたいと願うので、必ずこの世に帰ってきます。この世に帰って来て、私たちを救おうと努力をします。

耳を澄ましてよく聴くと声が聞こえることもあるでしょう。目を凝()らしてよく見ると姿が見えることもあるでしょう。聴こうという気持ち、見ようとする心が大切です。仏さんはこの世の真実を教えてくれます。真実を知ろうとする姿勢が大切です。幸せは真実の上にあります。最初から無理だとあきらめたら何も始まりません。

 幸せの扉(とびら)も押さなければ開きません。押し続けることが大切です。生きる姿勢が大事です。生きる姿勢が幸せを呼び込みます。仏さんは常に応援してくれています。耳を澄まし、目を凝らすことです。そこに大乗船があります。救いの船です
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おときの話34 平成22年
素直に喜べない私
随喜功徳
 仏教には随喜功徳という言葉があります。他人の喜びをともに喜ぶということです。他人がよいことをしたのを、よいことをして下さったと喜ぶことです。

 六道輪廻の六つの世界の中に天上界という世界がありますが、天上界はさらに多くの上下関係にある世界に分かれているそうです。この世でよいことをした人が一番下の天上界に生まれるとすると、それをそばでよろこんでいる人は一番上の天上界に生まれるそうです。どういうことかというと、よいことをすることよりも、よいことをして下さったと喜ぶほうがむずかしいということだそうです。

 善をなすことはある意味では名声のためにでもやれますが、しかしそれをそばで見ていて「よいことをして下さった」と喜ぶことは名声のためにはやれない、ということです。
喜べない私
私たちは人の善行をすなおに喜べないし、よくみることができないようです。それは私たちの心の中に、煩悩というやっかいなものがあるからのようです。私たちが物事をそのまま見ようとしても、ねたみ、そねみ、うらみ、つらみ、いかり、はらだち、などの煩悩が、物事を曲げて見せてしまうからです。赤いものを赤く見せてくれないし、青いものを黄色に見せたりするのです。それで他人の善い行いもすなおに喜べなくなるようです。

 仏さんが、南無阿弥陀仏という念仏を称えれば救われますよ、と教えてくれても信じられないし、念仏を称えようという気も起こらないのはしかたのないことです。仏さんの善行をよいことと喜ぶことができないからです。仏さんはすばらしいことを教えてくれているのだなあ、と喜べればよいのですが、なかなか難しいことです。
それでもいいんだよ
仏さんは、それでもいいんだよ、と言ってくれます。喜べなくても信じられなくてもよいと言うのです。それではどうするのかというと、ただ念仏を称えればよいと言うのです。形だけでもよいと言います。中身のない形だけでは意味がないという気もしますが、手を合わせ合掌し念仏を称える形の中に、喜ぶ心、信ずる心が生まれてくることもあると教えています。心が形となるだけではなく、形が心を生み出すこともあるのです。
 薫習(くんじゅう)という言葉があります。香りの中に身を置いていると、いつの間にかその香りが身に染みついて、生まれた時から身に付いていたもののようになるという意味の言葉です。日本古来の学習方法は、剣道、柔道、茶道、華道、書道などに見られるように、型から入っていくものがほどんどです。型が容器となってそこに中身が入ってきます。自然に入ってくるようです。

中身が先か容器が先か、どちらにしても両者は一体となり、本来一つのものであったかのように自然体になるようです。
 
念仏もただ称えるだけでよいと教えてくれるのが仏さんであり親鸞聖人です。深く考える前にまずは称えてみるという姿勢も大切なのではないでしょうか。
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おときの話35 平成22年
慈悲心という大地
根本
が大事
私たちが家を建てる時、一番最初にしなければならないことは、家を建てる土地の調査です。将来においても安全で安心な土地を探さなければなりません。また、軟弱な地盤であれば補強して、沈下しないような地盤にしなければなりません。時間とともに家が傾いていくようであっては困ります。自然の大木が、安定した大地の上にしか育たないことと同じではないでしょうか。

 建物そのものについても土台が大事なことは言うまでもありません。基礎がしっかりしていなければ、建物には安定が欠けることになります。不安定であれば、安全がなくなり安心ができなくなります。何事も根本が大事だということではないでしょうか。
励ましの言葉は力
人生は重荷を背負いて山道を登るがごとし、というようなことわざがあります。重荷を背負っている人が、荷の重さに耐えかねている時に、私たちは何ができるでしょうか。重荷を背中から降ろしてあげればよいのですが、重荷を降ろすことは人生に終止符を打つことだとしたらどうでしょうか。そんなことはできません。

私たちにできることは、山道を歩きやすいように整備してあげるとか、重荷を背負う力を出せるように栄養をつけてあげるとかでしょう。しかし、現実の人生における山道は簡単に整備はできないようです。いつ何が起きるかわからないからです。難題が山積しています。身体に栄養をつけると言っても、栄養が身体にまわって、栄養が筋肉になって重荷を支える力となるまでに、重さに耐えていられるかどうか問題です。

 荷の重さにつぶされそうになっている人に今必要なことは何でしょうか。それは、同じく人生の重荷を背負って歩いている私たちの励ましの心ではないでしょうか。身近には、夫婦、親、子、兄弟、祖父母などの家族の心です。親戚、近所、町内の人たちもそうでしょう。職場もあります。

お互いに助け合い励まし合う心が、重荷を背負う力となってくれるのはないでしょうか。重荷を軽くすることはできません。苦をなくすることもできません。それでも人生の山道を歩いて行くことはできるのです。
念仏は力
私たち一人一人の励ましの心は慈悲の心です。仏心(ほとけごころ)とも言います。仏さんが教えてくれるのはこの心です。人生の山道を歩く者同士が、お互いに慈しみ悲しみ合う心を持つようにと教えてくれます。一人では登り切ることのできない山道も、みんなで一緒に励まし合う心の環境があれば、苦を苦ともせずに登り切ることができるのではないでしょうか。

 仏教に「樹心仏地」という言葉があります。この言葉の意味は、しっかりとした土台の上に立つことが大切であるという意味です。心の根を大地に深くのばすことです。仏さんの慈悲心という大地に樹(た)つことを「樹心仏地」と言い、ここにこそ安らぎの心がある、と仏さんは教えています。安らぎの心が生きる力となります。
 ナマンダブ(南無阿弥陀仏)という念仏は、「樹心仏地」の気持ちをいつも忘れないようにという心の表現でもあります。
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おときの話36 平成24年
坊主の仕事 儀式の中に仏法あり
     枕  経   
ご臨終
一般的に言いいますと、坊主の仕事は誰かが亡くなった時から始まるように思われています。お寺への死亡の知らせは、誰か使いの者が来寺してご臨終されたことをていねいに報告すると同時に、枕経の依頼をするというパターンが第一段階のようです。最近は電話での報告がほとんどになりました。
 
深夜であろうが早朝であろうが死亡したという報告があれば、すぐに枕経のために駆けつけなければなりません。たいていの遺族がそれを望んでいるからです。枕経を急いでおこなう理由はなんでしょうか。たとえ坊主が酒を飲んでアルコール臭を漂わせていても、それでもよいからすぐに枕経を頼むという気持ちの方が多いようです。それでもさすがに最近は、それじゃー明日の朝早くにお願いします、という方が増えてきましたが。

ご臨終というのは、終わりに臨んでいる、生から死へと移動しているということです。まさにこの時に仏さんが多くの諸仏や菩薩を連れて亡くなった方を迎えに来る、ということが昔から信じられていました。仏さんが迎えに来る対象の方はもちろん仏教を信ずる方々です。

そこで、今亡くなった方は仏教徒ですよ、という声が仏さんに聞こえるようになるべく早くお経をあげて欲しい、という気持ちが枕経を急ぐ理由ではないでしょうか。そうしないと仏さんが迎えに来ないかもしれない、亡くなった方が成仏できないかもしれない、極楽浄土へ行けないかもしれない、と恐れるからでしょう。
 
釈迦来迎 釈迦来迎図という絵があります。仏さんが釈迦の姿をして、両脇に文殊菩薩と普賢菩薩を従えて、諸仏、諸菩薩と共にこの世に現れる絵です。絵の中に、お釈迦さんとこの世の亡くなった方とを結ぶ赤い糸が描かれている絵もあります。この赤い糸は、仏さんが亡くなった方を救いあげる糸であると言われています。昔は、ご臨終の方に遺族が「赤い糸が見えるか?見えないか?」とさかんに聞いたりしたこともあったそうです。  
赤い糸は縁 糸や紐は、仏さんの教えではよく人と人とのつながりを表す時に用いられます。人と人の間だけではなく、自然世界の中のあらゆるものの間のつながりをも表すのにも用いられるようです。お布施の袋についている紐も何かのつながりを表します。神事か仏事かわかりませんが、ご祝儀に使う水引などは良き縁結びを表しているのでしょう。僧侶の身に付けている数珠とか袈裟とか衣とかよく見ると、複雑に絡まり合った紐の細工が見られるでしょう。これらは、複雑に絡み合って成り立っているこの世の姿を表しています。仏さんはこのつながりを「縁」と呼んでいます。この世はすべて縁によって成り立っていると教えています。自分の力で、人の力で、人間の力でこの世は成り立っているとは考えないのです。目には見えない縁のお陰様で成り立っていると考えるからです。原因結果の因果の法則で成り立っているという側面もありますが、なにかの因縁があってこそ結果もあるのですから、原因結果を縁が結びつけていると考えられるのです。万物が因縁によって生じ、起こることを縁起と言います。  
お経の内容
インドの言葉で、糸や紐は「スートラ」「シュタラ」「シュダラ」と言うそうです。「スートラ」は「お経」という意味もあるそうです。お経に何が書いてあるのかというと「糸や紐」のことが書いてある、ということです。「糸や紐」は「縁」のことです。だからお経には、この世を成り立たせているのは「縁」であるということが書かれている、と言ってもよいのではないでしょうか。
 ご臨終の方には、やっぱり赤い糸は見えないのではないでしょうか。
  寄り道 その1   修陀羅  
  僧侶が葬儀の時に着る七条という袈裟があります。この七条袈裟を肩に掛けておくための紐を修陀羅(シュダラ)と言います。赤い色の複雑に編まれた丈夫な紐です。この紐を棺の上に置いている葬儀屋さんもいます。たいていは七条袈裟のかわりのりっぱな豪華な掛け布を掛けています。修陀羅を棺の上に置くのは、仏さんの赤い糸を象徴しているのではないでしょうか
  寄り道 その2   縁起  
着物の糸 この世はすべて縁によって成り立っているということは、たとえば私たちの着ている服が、縦糸と横糸が組み合わされてできていて、服のどこかの糸を引っ張ると、どこか遠くの部分に影響が出たりします。一本の糸が他のあらゆる部分と繋がっています。私たちの目や耳ではとらえることができない繋がりです。頭の理解力をもってしても理解できない繋がりは、この世の縁の繋がりと同じようなものです。この世の縁の繋がりの複雑さは、服の糸どころではありません。さっぱりわからないのですが、お陰様でというようなものです。  
縦の糸と横の糸
縦の糸は時間的なものでしょう。宇宙の起源から始まり、地球の始まり、生物、植物、動物、人間の起源となり、原始の祖先からお祖父さんお祖母さんに至るまですべての過去の存在に支えられて私たちは今ここに生きています。未来の糸もあるのかもしれません。私たちはこれからどこへ行くのかはわかりませんが、さっぱりわからない糸に引っ張られていることも考えられます。
 横の糸は空間的なものでしょう。今現在、空気が私たちの回りにあるから私たちは呼吸して生きていられます。太陽が地球を暖め、地中のマグマが大地を暖めているから私たちは生きていられます。家があり服があり食べ物があり家族があり仲間がいるから、今私たちは生きていられます。
 縦の糸があり横の糸があるなら、斜めの糸も曲線の糸もあるはずです。私たちの頭では理解できない世界のことかもしれません。
 
諸法無我
私たちのこの手、足、顔、身体全部、このような身体が欲しかったわけではありません。生まれつきこうなのです。なんともなりません。職業だって、財産だって、家族だって思い通りではありません。自分の力ではどうしようもないことだらけです。そもそもこの世に、「これが私です」と言えるような「私」がどこにあるのか、わからなくなってきます。
私のすべてが縁によって生じ起こっているからでしょう。これが諸法無我ということでしょう。
  寄り道 その3  スーダラ節  戻る
植木等の歌
    ちょいと一杯のつもりで飲んで    いつの間にやらはしご酒
          気が付きゃホームの       ベンチでごろ寝
    これじゃ身体にいいわけないよ    わかっちゃいるけど  やめられない
                                 スイスイ スイダララッタ〜 スラスラスイスイスイ〜
                 スイスイ スイダララッタ〜 スラスラスイスイスイ
 
 
この世は、自分の思うとおりにはいかないものです。頭でわかっていてもどうしようもないことだらけです。ちなみに、スーダラ節のスーダラは修陀羅に似ていませんか。植木等のお父さんは、浄土真宗の僧侶だったそうです。
 この世は努力しても無駄な世界なのでしょうか。
  寄り道 その4   ヨットの話  
努力は必要 五木寛之は、この世での努力は必要である、と言っています。人生をヨットにたとえて教えています。私たちの人生はヨットのようなものである。私たちの行きたい方向へと向かう風が吹けば、私たちは行きたいところへ行ける。反対に別の方向へ向かう風が吹けばヨットは行きたくない方向へと流されしまう。もちろん何も努力をしなければである。幸いにヨットには帆もあるし舵もある。ヨットの帆を張り舵をしっかりと握っていれば、そして運が良く適当な風が吹いてくれれば、望みの方向へ進むこともできる。風は吹くこともあるし吹かないこともある。私たちの力ではどうしようもないことである。しかし努力はできる。良い風が吹いた時の準備はできる。ヨットを操ることもできる。努力をしなければ、成るものも成らない。  
しかし 努力はできる、とは言い切れない場合もある。努力をしたくない遺伝子を持っていれば、どうしようもないのである。最近の言葉ではDNAと言うようである。親鸞は「そのような業縁があれば、どのようなことでもしてしまうかもしれない」と言っています。努力するもしないも、縁しだいであると言っているのです。
  寄り道 その5   為せば成る  
上杉鷹山 「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは ひとのなさぬなりけり」

やれば必ずできるという意味ではないでしょう。やらなければ何事もできない、ということです。結果はともあれ、やってみなければ何事も成就できるはずがない、ということでしょう。

なでしこジャパンの監督も「宝くじは、買わなければ当たらない」と言って、選手に勇気を持ってシュートするように励ましたのである。成るか成らないかはわからないが、何事も為さねば成らないのである。
 
私の母親 私の母は「なせば成る」の信念を持って子供を育てました。私の耳にタコができるほどこの言葉を聞かされたものでした。本当になせば成るのか。何事も。私にとっては、何事も母の期待にこたえるようには成すことはできませんでした。何をやっても失敗と敗北の連続です。母の期待する基準には永遠に到達することはできませんでした。  
私の子供時代 何をやっても、まだダメだ、努力が足りない、わがままだ、と言われ続けると子供は自信を喪失します。劣等感が強くなり続けます。私がそうでした。自信が無いので人の前に出ることが嫌いでした。未熟な自分をさらけ出すことが恥ずかしかったのです。当然の結果として、人の前では極度に緊張しました。話をすることもできませんでした。すぐに顔が赤く火照ってくるのでした。

もちろん複数の人間の前では身体が震え、口が震え、手が震え、足が震えました。話し下手どころか、声も出せませんでした。こんな私に母が期待したことは、本明寺住職になり、学校の教師になることでした。至上命令でした。子供の意見を聞く耳を持っていませんでした。

中学生の頃から、私は神経過敏性胃腸炎になり、あまりにおならの回数が多くなったので、つけられたあだ名は「ガス」でした。高校時代には激しい下痢をともなうようになり、授業をまともに聞いていられない状態でした。朝ご飯はしっかり食べないと脳が働けないから、必ず食べなさいと母は言いました。朝食べたご飯は、腸の中で午前中激流となって駆けめぐるのでした。

おかげで私の大腸には憩室と呼ばれるポリープがたくさんできているそうです。腹圧によって飛び出たものだそうです。
 
その結果 大学受験の失敗。可能な限り受けた試験は、すべてダメ。一年間の浪人生活は天国のような地獄。それまでの人生の反動なのか、開放感に身を任せ、遊べるだけ遊んだ。悔いなく遊んだ。遊びに悔いは無いが、勉強に悔いだらけ。  
なぜ鬼は恐い 地獄の鬼は恐いと言われますが、なぜでしょうか。顔が恐い、身体が恐い、金棒が恐い? 本当に鬼の恐ろしいところは、人の話す声に耳を傾けない、聞こえないところにあると言われます。

どんなに苦しくても、どんなに叫んでも、どんなに泣いても、どんなにあばれもがいても、どんなに哀願しても無視してしまうのです。これほど恐いことはありません。救いがないのです。
 
劣等感 自信喪失は劣等感を深くします。強い劣等感の持ち主が、人に何かを教える教師などになれるでしょうか。「なせば成る」 
自信喪失では文字も上手に書くことはできなくなります。きわめて悪筆の教師が黒板の前に立つとどうなるでしょうか。ある女子高校で、「もっと文字のきれいな先生から習いたかったわね」という声を背中で聞きました。

英語を話せない英語教師の悲哀、先生よりもはるかに素質のある高レベルの生徒に教える時の心情、劣等感は深まるばかりです。「なせば成る」努力でどうにかなるものでしょうか。赤面症の教師が生徒の前で人生を語ることができますか。自信喪失で劣等感のかたまりの教師が、生徒の相談相手になることができますか。

悪筆の坊主でもいいんですか。亡くなった方の法名を悪筆で書く時の坊主の心の中をのぞいたことはありますか。墓標の文字は世間の目にさらされます。私のプライドはどこにあるんですか。人様の前で声を出すことはもちろん、ましてや歌などは歌ったこともない私が、檀家の前でお経をあげなければならないんです。人生に自信の無い人間が法話をしなければならないんです。

小学生の頃、お盆が近づくと私は死にたいと思ったものでした。衣を着た姿を同級生に見られたくなかったのです。特に女の同級生には。「なせば成る」桧木内川へは何度も足を運びました。でも死ぬことはできませんでした。その頃、私はすでに犬かきで泳ぐことができたからです。
 
救いは 皮肉なことに、親のすすめた僧職の中に救いがあったのです。仏さんの教えです。そのままでいいんだよ、という容認の言葉に救われました。できなければできないでいいじゃないか、為して成らぬこともある、それが自然だよ、という言葉は応援歌のように聞こえたものでした。

あとは仏さんにまかせなさいという言葉に、それまで重く背中に負わされていた責任感のようなものが、すーっと消失していくように感じたのでした。
 
母の近況 私の母は86才である。年寄りにはよくあることのようであるが、転倒して骨折した。何日か入院して退院したが、歩行が困難な状態になっていた。みんなが「ころばないように注意して歩かなければいけない」と言ったが、母は「んだって私は、ころびやすい人だしもの」と言って注意しようとしなかった。

そしてまた転倒した。みんなが「注意して歩くように努力が必要だ」と言ったが、母は「んだって、努力でぎねしもの」「やんだしもの」と言った。「んでねば歩けなくなるしよ」と言うと「あや〜、腹べ悪り」と言った。

母は最近少し歩けるようになった。
   
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僧にも欲あり 枕経を読んだ後は、これからの段取りの相談になります。あれをやってこれをやってと型通りの進行になります。そしてさあ帰ろうとしたところでおもむろに「それでしよ、おでらさん」となります。「つづみのほうは、なんとしたらえんしべ」「そうばっての、あるしべ」「はじかがねってば、なんぼくれだしべ」他いろいろ。

返事は「実力に応じて、全力を尽くして下さい」です。「そんたごどいわれでも、こまるんし」。困るのは僧侶の方です。決定権は門徒にあります。僧侶を過度に問いつめると大変なことになるかもしれません。僧侶も罪深い煩悩の持ち主です。とんでもない金額を提示してしまうかもしれません。
 
頭陀 ・ 托鉢 ・ 乞食  読経に値段はありません。価格表もありません。あるとすれば、それは門徒の皆さんの心の中にあるのではないでしょうか。心の中の自分との戦いが必要なのかもしれませんが。そもそも布施とは施しです。施して、あげるものです。

東アジアの仏教国では、僧侶が一列に並んで歩いていると、住民が僧侶の持っている鉢にご飯とか、おかずなどの食べ物を入れる光景に出くわすことがあります。この鉢は托鉢と言われています。托鉢は、鉢を託するという意味です。僧侶が自分の食事を皆さんに委託する、お願いするということです。

僧侶は首に頭陀袋も下げていて、鉢に入らないようなものを入れます。それは布とかお金とか生活に必要なものだったりします。僧侶の生活は住民である私たちが面倒を見ますから、僧侶の皆さんは働かなくてもいいから一生懸命仏さんの教えを学んで、私たちを教え導いて下さい、ということでしょう。

僧侶が歩いていろんな物をいただいてまわることを印度語で頭陀(ズダ)と言います。日本語では托鉢行と言いますす。また乞食行とも言うようです。乞食という語はあまり良い意味では使われないようですが、僧侶の行なのです。

さて、この乞食は値段表を持っているものでしょうか。食を乞う者が、我が儘なことは言えないでしょう。おまかせするだけではないでしょうか。
 
布施 布施には、財施とか法施とかあります。財物を施すことを財施といいますが、法施は僧侶が仏法を広めることをいいます。また、和顔施という言葉もあります。和やかな顔でいることです。愛語施もあります。愛情のこもった言葉で話すことです。このように、布施とは坊主がいただくものだけではありません。ついでに話させていただきました。
     逮 夜 戻る
枕経の次は通夜です。私たちの真宗では逮夜とも言います。退夜とか大夜と書くこともあるようです。退夜の意味は退く夜ですので、わかるような気がしますが、ほかの語の意味はどうでしょうか。  
通夜 通夜は、夜を通して亡くなった方と一緒にいるということでしょう。なぜ亡くなった方と一緒に夜を過ごすのか。亡くなった方の気持ちを考えて見るとどうでしょうか。亡くなった方にとってみれば、これから自分はどこへ行くのだろう、どうなるのだろう、家族はどうなるのだろうなどと不安がいっぱいで助けを求めたい気持ちでいるのではないでしょうか。

そのような時に家族や知人や隣人がそばにいることは、どんなに亡くなった方の心の支えになることでしょう。だから、夜を通して一緒に居てあげよう、一緒にいたいという心が出てくるのでしょう。それが通夜で
 
逮夜 亡くなった方は亡くなったのだから、寂しさも感じないし、この世の私たちには関係ない、と言うことができるでしょうか。死は他人ごとではありません。将来の自分のことでもあるのです。亡くなった方は、死を通して私たちに教えていることがいっぱいあるはずです。

 私たちは、死というものから学ばなければいけないことが限りなくあるはずです。逮捕の逮は、何かをつかまえるという意味です。逮夜の意味も、何かをつかまえて欲しい夜という意味ではないかと思われるのです。
 
大夜 大夜という言葉もありますが、大という語は大きいという意味です。どれくらい大きいかというと、なんメートルとかなんキログラムとかいう人間の尺度では測りきれないくらい大きいという意味です。仏教では、だいたいが無限という意味で使っているようです。家族の誰かが亡くなった時、日常からかけ離れた状況にはとまどうばかりです。

悲しみも尋常のものではないはずです。悲しみの大きさはこれくらいだった、などと測ることなどできません。言いようのないほどの悲しみに襲われとまどうばかりです。頭で理解するとか納得するとかという世界を超越した世界を見る思いではないでしょうか。

ましてや夜ともなると、深い暗闇の中に底知れない世界が広がり、その世界が無限に広がり、無限に終わることなく続くような錯覚に陥ることもあるかもしれません。葬儀の前の夜というものはそのように大きいものである、という意味で大夜と言うようです。
 
おときの席順 逮夜のお経と法話が終わると、おときが始まります。おときは食事のことです。夜は長いから来客には食事をしていただこう、という儀式の中の一つです。おときの席順は、僧侶が上座で、その次は亡くなった方に一番身近な者から順にとなっているようです。葬儀のおときの席順は逆のようです。

僧侶が上座というのはいいのですが、通夜の上座は棺のすぐそばということになります。その距離は一メートルそこそこの場合がほとんどです。近いことはなにも問題ではないのですが、そのために気づかせられることが多々あるのです。
料理 昔のおときの料理は精進料理でしたが、最近は仕出し料理で肉や魚は当たり前のようになってきました。寿司も出ます。刺身も出ます。尾頭付きの場合もあります。どうでしょうか。僧侶の背中一メートル前後に今亡くなった方がいるのです。刺身に手が出ますか。仏事には精進料理という意味は、体験してみて初めてわかることでした。  
本人の気持ち 亡くなった方の上の天井にはたいていは蛍光灯があります。蛍光灯はまぶしいくらいに亡くなった方を照らしています。亡くなった方はどう思うのでしょう。明るい方がいいのか暗いほうがいいのか、それともロウソクの灯火だけで十分だと思うのか。

本人に聞いてみなければわからないことなのですが、個人的な感情を言わしていただくと、明るいと少し恥ずかしいような気がしますが、どうでしょうか。さらに、顔の上に白い布がかけられていないといたたまれない気持ちになるのは僧侶だけでしょうか。

 
時空を超えて 時の流れとともに、人間の考え方や感じ方が変化してきているのですが、仏さんの教えは、時間と空間を超越して生きているように感じさせられる逮夜です。
     納 棺
納棺をする時、昔は仏さんに死装束といって白い服を着せ、手っ甲に脚絆を付けたものでした。手っ甲脚絆は旅支度のものです。ワラジも履かせました。杖も持たせました。菅笠も持たせました。それに六文銭です。極楽までは旅をしなければならないから、このような旅支度をさせたのでした。 
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     出 棺  葬 儀   (クリックして下さい)   
灯明 仏事には必ずと言っていいほどローソクに灯をともします。なぜ灯をともすのでしょうか。灯はまわりが暗くてよく見えない時にともすものです。昔と違って現代においては電気の明るさがあります。暗ければ蛍光灯を点けます。ローソクは必要ないようにもおもわれますが、昼であっても、蛍光灯が明るくても仏事にはローソクに灯をともします。なぜでしょうか。   
私たちは朝目が覚めるといろんな景色が目に飛び込んできます。いろんな景色が目に入いることを目覚めると言います。今まで見えなかったものが見えることです。肉眼での目覚めと同じように、心眼にも目覚めがあります。

仏さんの教える心眼の目覚めというものがあります。心眼が目覚めるとどのような世界が見えてくるのでしょうか。それがみなさんご存じの諸行無常の世界です。諸行無常の世界では常に同じ状態でいられるものは何一つありません。すべての物が常に変化し続けています。

なぜこの世が無常かというと、この世は無数の縁によって成り立っているからです。縁はいつどのように変化するかさっぱりわからないものです。縁の縦糸と横糸の関係は時間と空間の関係を表しているとも言えます。時間と空間は常に変化し続けています。時間と空間の中にある存在はすべて変化していることになります。

勝者がいつも勝者ではいられません。敗者もいつも敗者でいるわけでもありません。金持ちと貧乏人、成功者と失敗者、有頂天と奈落の底、いつどのように変化するかは誰もわかりません。希望は絶望です。絶望は希望です。どん底にいる者には、上から希望の光が差し込んでいます。お山の大将には落下しかありません。
このような世界が見えてくることを「覚る」と言います。
 
悟」の左側の「D」は立心偏(りっしんべん)と言い、心を表すものです。右側の「吾」は我(われ)という意味です。「悟」は我が心を表す漢字です。

悟(さと)ると言う時は、我が心の本当の姿を見るという意味になるようです。「覚」が自分の外の世界に目が開けるのにたいして、「悟」は自分の内の世界に目が開けるという意味になります。

自分の内の世界は心の世界です。私たちの心は欲望に満ちている世界です。あふれる欲望のために怒(いか)り、妬(ねた)み、嫉(そね)み、恨(うら)み、辛(つら)み、などが心の中に渦巻いています。

欲望は生きている限り消えることはないので、生きることは四苦八苦することとなります。このようなどうしようもない自分の姿を素直に見つめることができた時、「悟り」の目が開いたと言うのではないでしょうか。
 
覚悟 自分の外の世界は無常であるし、自分の内なる世界はどうしようもない煩悩で満ちているし、自分の力では救われていく道は無い。もう八方ふさがりであると覚悟したところに他力の道が開けてくるようです。他力の道は念仏成仏の道です。仏さんの勧める道です。  
仏さんは 仏さんは、ローソクに灯をともすという行為を通して、仏事という儀式を通して、この世の本当の姿に気づいて欲しいと願っているのです。
  6 火 葬 戻る
お骨は自然へ 最近は火葬にして埋葬することがほとんどですが、以前は土葬も行われていました。寺の境内でも土葬は行われていたようです。世界的に見ると、いろんな方法で遺骸を自然に帰していたようです。風にまかせて自然に運んでもらう風葬、コンドルなどの鳥にまかせて天へと運んでもらおうとする鳥葬、ガンジス川などの川へ流して大きな海へと運んでもらう水葬などがあります。どのような方法にしても共通点は、遺骸を自然に帰してあげようという気持ちです。  
骨壺 ところがです、故人のお骨を大事に扱ってあげたいという強い気持ちのせいか、お骨を陶器の壺に入れたまま納骨してしまう傾向があるようです。瀬戸物の中では仏さんも狭くて窮屈な思いをするのではないかと思われるのですがどうでしょうか。

お墓の中は、底には土か砂利を敷いてあり、お骨が自然に帰るよう配慮されているのです。それをわざわざ陶器に入れたままの状態では、広々した自然に帰ることができなくなります。
 
一味海水  お釈迦様は、自分のお骨はガンジス川へ流してくれと言いました。寺院を造ったりお墓を建てたりしなくてよいと言っているのです。お弟子さん達はそれではすまないというので、いろんなことしたのでしょう。親鸞もお骨は賀茂川に流してくれと言っています。

 川はたいていは海へとつながっています。仏さんは、この世の中を説明する時によく海をたとえに出しています。私たち人間は海の波のようなものだ。表面では波同士ぶつかり合って争っているように見えるが、もともとはどちらも同じ海水なのだ。海水はみな同じ塩の味がする。

一味海水なのだ。皆一味なのだ。世界中の川はそれぞれ異なる山や野原や谷を通って流れているが、流れるにしたがって合流しさらに大きな川になり、清流も濁流も、小さな小川も大河もすべての川が海へと流れ込み大海の一部となっていく。

大海では一味なのだ。大海においては、誰が大きいだとか誰が小さいだとかどうでもいいことだ。高貴だとか低俗だとか、金持ちだとか貧乏だとか、こだわることはない。有るとか無いとかあまり考えないほうがよい。と仏さんは教えています。
  7  中陰法要  一七日〜四十九日 戻る
十王経 死後四十九日の間、亡くなった方は旅をすることになります。この世からあの世への旅です。お祭りなどにお化け屋敷なるものがよく設営されることがありますが、四十九日の旅はお化け屋敷のようなものではないかと思われます。十王経というお経がありますが、このお経の中に四十九日の旅のことが書かれています。  
旅の難所  四十九日の旅は暗いトンネルの中を歩いていくようなものです。金棒を持った鬼があちらこちらに立っていて、ことあるごとに旅人を打ち据えます。一七日、二七日、三七日と一週間ごとに関所を通過しなければなりません。関所と関所の間には険しい山あり谷あり激流岩噛む川があります。

関所には王様がいて、旅人が生きていた頃のことを問いただします。良いことをして生きていたのか、悪いことをして生きていたのかを調べます。どんなに良いことをしたのか、どんなに悪いことをしたのか。正直に言えと厳しく問いただします。正直に言わないと鬼が金棒でたたきます。
 
供養の効用 そんな時、この世で遺族達が仏前に供物を供えたり、念仏を称えたり、お経を読んだりしている声が関所に届いたりすると、その様子を見たり聞いたりした王様は「おまえは生きている時は、だいぶ悪いことをしていたようだが、おまえの安否を気遣っておまえのために供養をしている遺族がいるところをみると、おまえもなかなか良いところもあったようだな」と判断します。

するとその関所は無事に通過できることになります。一週間ごとに仏前で手を合わせて拝み、故人の供養をしなさいと坊主がすすめるのはこのためです。
 
三途の川 関所は一つだけではなく十カ所にあります。7×7=四十九日の七カ所と百ヶ日と一周忌と三回忌の三カ所の合計十カ所です。中陰といった場合は四十九日の七カ所です。

関所と関所の間にある難所で有名なところがあります。三途の川です。三途は三つの道という意味です。川を渡る道です。人によって渡る道が異なります。人生をどのように生きたかによって三つに分かれます。
 
善人と普通の人の道 比較的良い行いをして生きた人が通る道には橋がかかっています。おまけに橋の向こうには仏さんまで迎えに来ています。ファーストクラスです。

普通の人の通る道は、川の流れがゆるやかで浅瀬になっています。それでも疲れ切っている旅人は、川の渡し人足の駕籠に乗ったり、肩車してもらったりして川を渡ることになります。渡し人足達も旅人の顔を見て、この旅人は生意気そうな顔をしているとか、ずるそうな奴だと判断すると駕籠から落としたり肩車から落としたりします。

遺族にとってはこのようなことは困ることなので、納棺の際には六文銭を棺に入れたりします。渡し人足に渡すワイロです。地獄の沙汰も金次第と言われるわけです。
 
悪人の道 問題は三つ目の道です。川は底知れずに深く、激流なのです。おまけに大きな岩が次から次へと流れてきます。悪人達はここを渡らなければなりません。どんなに泳ぎが得意でも渡れるはずがないような川です。それでも渡らなければならないのです。もちろん旅人は溺れてしまいます。

溺れて死んでしまえばそれでお終いですが、死ぬことは死んでも生き返ってしまうのです。これが問題です。死ぬ苦しみを何度も何度も味わわなければなりません。ようやく向こう岸にたどり着いたとしても鬼の金棒が待っているのです。困ったものです。悪人の末路です。
 
閻魔大王
最も厳しい関所として誰でもが知っているのが閻魔大王様の関所です。ほとんどの旅人がここで極楽行きか地獄行きかが決まってしまいます。閻魔様には閻魔手帳なるものがあります。旅人の生前の素行がすべて記録されています。嘘なんかはつけません。嘘を言うと舌を抜かれてしまいます。

閻魔様のそばにはいつもお婆さんが控えています。このお婆さんは旅人の服を脱がせます。その服をお婆さんは何か調べものをするように手で何回もなで回します。旅人の生前の悪行を感じ取るのです。旅人がどんな悪いことをしたかを調べて閻魔様に告げ口をするのです。

私たちの子供の頃「あのバンバ、ショジゲのバンバみてだな」などと言ったものです。人の失敗したことを告げ口して喜んでいるようなお婆さんのことです。「ショジゲ」は「小使い」のことなのかなと思っているのですが、どうでしょうか。
 
死後三十五日目に閻魔様の関所を通過するので、三十五日の法要をやって忌明けとする方もいます。故人の行き先が地獄か極楽かがほとんど決まってしまえば、あとは安心だということでしょうか。
 
仏罰 地獄は大変なところです。針山地獄、火の山地獄、油鍋地獄など八熱地獄、八寒地獄などあらゆる苦しみの地獄があります。首を切られたり、目をえぐり出されたり、手足をもがれたり、残酷残虐極まりないところです。そうなのですが、四十九日の旅は仏さんが準備した旅です。閻魔大王も仏さんの分身です。

鬼達だって仏さんの手の者です。分身です。苦しんでいる人間をどうにかして救ってあげたいという慈悲心そのものである仏さんが、「おまえは地獄へ行け」というでしょうか。仏罰という言葉があるのですが仏さんは罰を当てるものでしょうか。そんなことが考えられますか。
 
極悪人  四十九日の旅をしなくてもよい人たちもいます。それは極悪人と極善人です。極悪人は死ぬと地獄へ直行です。極善人は極楽へ直行です。親鸞は自分のことを極悪人であると言っています。そのままであれば親鸞は地獄行きは決定しているのであると覚悟していました。

そのような時、念仏を称えれば救われる、仏さんにすべておまかせすれば救われるという教えに出会いました。むしろ仏さんは極悪人こそ救わなければならない対象であると考えているのだ、と親鸞は思いました。お医者さんは重病人をこそ真っ先に救おうとするものである、仏さんも極悪人をこそ一番に救おうとするはずである、ということでしょう。

 仏さんにまかせて、仏さんの言う通りに念仏を称えれば、この世の縁が尽きた時即時に極楽の蓮華の上に誕生することができます。仏さんと同じ生まれ方です。自力ではできないことです。
 
旅の真意
だとすれば、四十九日の旅は何だったのでしょうか。極悪人でさえ救われるというのに他の人達になぜ旅が必要なのでしょうか。亡くなった人にとっては必要ないとも言えるのでしょうが、遺族にとってはどうでしょうか。

この世に生きている私たちにとっての四十九日の旅は、なにかを私たちに教えようとする旅ではないでしょうか。特に遺族にとっては故人の死はすぐには受け入れられない現実です。受け入れたくなくとも受け入れなければならない現実です。

一七日、二七日と過ぎて行くうちに、ああそろそろ極楽だ、やっとあの世に着いたのだなあ〜と心を納得させることのできる期間としての四十九日という面があります。もう一つの面は、私たちこの世に生きている人間にとっての生き方を教えようとする面です。簡単な教えです。悪いことをするな、善いことをしなさいという教えです。

生きていく上での土台となるものです。
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