2015年1月22日 13:53:11

                                                         

法名のことば
ご案内へ
平成10年から付けさせていただいた法名の自己流解説です。
読みが漢音だったり呉音だったりしますので、順不同のようなところもあります
実際に法名に使っていない漢字でも、他の漢字の説明に必要な漢字は掲載して
います。たとえば「悪」などです

             

      ( アイウエオ順です )                             ん  

 

  追加年度
 慈悲心は私たちに対する仏の高尚なる「愛」でもあります。「愛」にはいろんな種類の愛がありますが、仏の「愛」は慈悲の心です。 愛憎紙一重と言われる愛もあります。この愛は執着心です。愛着、愛欲とも言われます。  
 愛 「愛楽」
 
仏さんの教えが書かれているお経に「阿弥陀経」というお経があります。この「阿弥陀経」に次のように書かれています。
  これより西方に、十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と言う。 
  その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまう。
  舎利弗、かの土を何のゆえぞ名づけて極楽とする。
  その国の衆生、もろもろの苦あることなし、ただもろもろの楽を受く、
  かるがゆえに極楽と名づく
 
  池の中の蓮華、大きさは車輪のごとし
  青き色には青き光、黄なる色には黄なる光、
  赤き色には赤き光、白き色には白き光あり。
  微妙香潔なり。
 
インドの天親菩薩という高僧の作である「浄土往生論」に
 
     仏 法 味 を 愛 楽 す る
 
という言葉があります。仏さんの教える法則である真理の味を楽しむ、という意味です。ものの色は赤が良くて白は悪い、などということはありません。白は白の美しい光を放っています。それぞれの色がそれぞれの美しい光を持っています。甘い味だけがおいしのではありません。辛い味も、塩っぱい味も味わい深いものです。苦(にが)さもそうです。
 
仏さんは、どうしようもなくつらいこの人生さえも、味わいながら生きていくことを教えているように思われるのです。
H26 
 哀  
 仏さんは、毎日毎日悩み苦しみながら生きている私たち衆生のことを「あわれみ」「いつくしん」でいます。この仏さんの心が「哀」であり「愍」です。この心を慈悲心ともいいます。簡単に言いますと、仏さんの優しい温かい心のことです。
 
 本当に優しい温かい心には行動がともないます。自然の流れとして心が動くと、身体も動くことになるのでしょう。この動きが仏さんの修行となり、お経となり、教えとなっていきます。このような仏さんの行いが「攝受」です。「摂
(せつ)(しゆ)不捨(ふしや)」とも言われます。私たちをすくい取って捨てないという意味です。 
 
親鸞聖人が、これが大切なお経であると教えてくれるお経が「大無量寿経」というお経です。このお経の中で、仏さんが修行をして仏さんになる前の姿である法蔵菩薩という菩薩が、四十八の願いを立てています。その第一番目の願いは次のように書かれています。
 
   設我得仏           たとえ 私が仏さんとなることができるとしても
 
   国有地獄餓鬼畜生者    この国の中に 地獄、餓鬼、畜生のような生活をしている人たちがいるような
                    状態であれば 
 
   不取正覚            私は 覚りをひらいて仏さんになることなどはしない  この世のすべての人
                    たちを救うまでは
 
 仏さんはこのような四十八の願いを立ててから修行の生活に入ったのでした。無限、無量の修行は成就(完成)し、四十八願はすでにかなえられたということです。ということは、私たちはすでに救われている、ということになります。わかったようなわからないようなことだらけですが、しかたありません。

異次元の世界のことでもあるからです。三次元のこの世のことだけでも、理解できないことだらけなのですから、ましてや仏さんの世界のことなどわかる道理がありません。
 
この世で私たちがすでに救われているということはどういうことかというと、「今」「ここ」に安住できるということです。どんな困難な状況にあっても、その状況を受け入れて、あわてず、おそれず、逃げることなくこの場に生きることが大事だということではないでしょうか。

地獄のような日々と思っていたこの世が、極楽のように思える局面の展開が必ずあると信じて生きていくことが、極楽への近道のように思われます。
 H26
罪悪に沈む者のことを悪人といいます。大無量寿経に「悪人悪を行い、苦より苦に入る」とあります。苦しみ悩む人間を救おうとする仏の願いを本願といいますが、「歎異抄」に「罪悪深重の衆生を助けんがための願にてまします」とあります。

仏は罪深い人間、悪い人間を救うためにこの世に現れました。良い人間は救わなくても、自ら救われていきます。悪人こそ仏の正しいお客様なのです。このことを「悪人正機説」といいます。                                 

親鸞聖人の高僧和讃に「 極悪深重の衆生は 他の方便さらになし ひとえに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまう 」とあり、私たち煩悩の深い凡人は、自分の力ではどうしようもないので、仏さんに頼るしか方法はない、と教えています。    
                                                                              戻る

親鸞聖人は、貴族や武士のような特権階級の人々のための宗教を好まず、むしろ世間からは排斥されているような貧しい人々、罪を犯したくなくても生きるためにやむを得ず犯してしまうような人々のための宗教を開きました。

どんなにりっぱなことを言っていても、私たちは生きるためには、他の生きものの命をいただかなくてはなりません。肉でも野菜でも生きものです。生きている命からいただくものです。人間は生きている限りは動かなければなりません。動けば蟻(あり)を踏みつぶしてしまうこともあります。ハエをたたきつぶすこともあります。蚊は憎たらしくも思えます。昔はノミやシラミに悩まされ、潰しまくったこともあります。生きるということは、他の命をいただき、他の命を土台に生かさせていただいているということです。 

貧しければ貧しいほど、自分の手で他の命を収穫しなければなりません。汚れた仕事、人のいやがる仕事、嫌われる仕事、それでも生きるためにはやらなければなりません。  親鸞聖人自身、罪人として京都を追放され、日本海側の貧しい地域で暮らさなければなりませんでした。そこでは、地元の人々よりも貧困な生活をしなくてはなりませんでした。生きることに精一杯で、善いことをするなどの余裕はありませんでした。善いと言われる行いをしたり、修行をしたりして功徳を積むなどということはできませんでした。ましてや、純粋に善い心など持ちようがありませんでした。

煩悩の深い私たち人間にとっては、純粋に善い心は、ほんのわずかの間だけ顔をだすこともあるかもしれませんが、瞬(またた)く間に消えてしまいます。このような人間は救われるはずがありません。

ところが、親鸞聖人はこのように言います。私には善い心は一つもなく、地獄に行くのは決まっていることだが、念仏を称えれば救われると言う方がおられる。念仏の中に善い心、真実の心、仏の心、慈悲の心が入っているからだ、と教えてくれた。嘘でも何でもしかたがない、地獄に行くことに決まっている身にとっては、最後の唯一の救いの道だ。念仏を称えて救われよう。                   

念仏の中に込められている心は「至誠心」です。親鸞聖人が大切にしておられるお経の一つである観無量寿経というお経の中に、この心を持つ者は必ず極楽浄土に往生する、と書いております。救われるということです。生きている間に、この救われていく道を歩くことになるのです。
 親鸞聖人は、九才の時に京都の比叡山にある延暦寺というお寺に入り僧侶になりました。そのお寺で親鸞は二十年間修行をしました。座禅はもちろん、山々を駈けめぐったり、京都の町中でお経をあげながら食を乞う乞食行をしたり、インドから伝わったあらゆるお経を読んだりしました。修行をすることによって悟りをひらこうとしたのです。

ところが、二十年経っても親鸞は悟りをひらくことはできませんでした。悟りをひらくどころかますます煩悩が盛んになったということです。煩悩が盛んなったということは欲望が激しくなったということです。人間九才から二十九才という年齢のころは、人生においても最も元気が良く盛んな時代です。

ましてや山々を駈けめぐったりして身体を鍛えたりしていたのでは、お腹は空くだろうし、美味しいものは食べたいだろうし、エネルギー消費が激しいので肉だって食べたくなるのは自然の成り行きです。精進料理だとか一汁一菜だとかなど言っていられなくなるのは当然のことだったのでしょう。

 親鸞はこのように言って嘆いています。
    悪性さらにやめがたし   (自分の悪い性質はどうしようもない     )
    こころは蛇蜴のごとくなり (心はヘビやトカゲのように冷たく冷酷なものだ)
    修善も雑毒なるゆえに   (たとえ良いことをしても、悪い心もまじっている)
    虚仮の行とぞなづけたる  (だからどんな行いも嘘の行いとなってしまう  )

 「大無量寿経」には、自分の力で悟りをひらくことのできない人間は、仏さんの力に頼るしか他に道は無い、と教えています。だから仏さんを頼りにしなさい、と親鸞は言います。

 仏さんを頼りにします、という言葉が南無阿弥陀仏です。まかせておけ、という仏さんの言葉も南無阿弥陀仏です。力の弱い私たち凡人は、仏さんに頼るしか他に道はありません。私たちにとってはたった一つの道です。                   
 H25
苦のない仏様の世界を安養浄土、安楽浄土、安楽国などと呼びます。安らぎの世界だからです。安心できるからです。安心は信心の語と同じ意味にも使われます。

艱難辛苦の人生を歩んでこられた故人には、「安楽浄土」の仏の国でゆっくりと暮らしていただくことを願います。私たちの真宗の聖典である大無量壽経というお経の中に、「三途の苦難の名あることなし、ただ自然快楽の音あり、このゆえにその国を名付けて安楽という」とあります。住んでいるのは仏様だけです。

 
 「安居」はインドの言葉ですが、日本語に訳すと「雨期」という意味になります。雨期には植物が盛んに生育しますし、小動物が活発に活動すると考えられていました。このような時期に修行などをして動き回ると小さな生命を踏んづけてしまう可能性が高いと僧侶達は考えました。それに雨の中を動き回るのは難儀であるとも考えたのでしょう。

そこで、雨期にはあまり動き回らないで、家の中で仏さんの教えを勉強して研鑽を積もうとしました。このような理由で、僧侶が集まって雨期に研鑽することを「安居」と呼ぶようになりました。

 秋田では8月にお盆を迎えますが、日本の地域によっては7月にお盆を迎えるところもあります。8月のお盆は月遅れのお盆とも呼ばれています。7月は雨期の時季でもありますので、お盆と安居が重なる期間があるようです。 日本では、安吾は四月十六日から八月十五日の間に開かれているようです。

 お盆は、ご先祖さんを供養するというよりも、仏さんとなったご先祖さんを供養し、無縁仏を供養し、今仏道修行に努めている僧を供養するという心で迎えるものです。自分のご先祖さんだけを供養するのではなく、他の仏さんたちをも供養することが大切なことであると仏さんは教えています。その結果、仏壇やお墓にはたくさんの供物が供えられことになるのです。

お墓のそばに無縁仏の墓があったりもしますが、このためでしょう。お供え物の数でも一つ余分に供えるという風習も残っているようです。
H23
「易行」  私たちを悩ませ煩わせる欲望は、私たちの心と身体のどちらに住んでいるのかはわかりませんが、心の中には充ち満ちています。私たちの心のどこを見ても、欲望でない部分はないようです。親鸞聖人も

「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり 修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる」

と言っています。悪いことを悪いと知りつつもついついやってしまう。心は蛇や蝎のように醜くよこしまで汚れている。蛇にとっては心外かもしれませんが、人間はそのように見ているようです。蝎は木の中に住んでいる虫ですが、自分の住んでいる木を食べるのであまり良く思われていないようです。

善いことをしようとしても、その心は純粋にはなれないので、かえって悪いことになってしまう。だから修行はもちろん、功徳を積むなどという行ないは、嘘の行となり形だけのものとなってしまう。と親鸞聖人は言っています。  
 
仏教では厳しい修行をして悟りをひらき仏となっていくのが普通の道でしたが、親鸞聖人は自分は修行に耐えられないことを知りました。修行は難行道と言われます。苦行の道です。難行道を歩くことのできない人は、易行道を歩くしかありません。末法の世となった今では、易行道しか救われる道は無いことを聖人は知りました。
 
易行道とは、念仏を称えて救われていく道です。仏さんは修行のできない私たちのために、修行の代わりに念仏を与えてくれました。念仏を称えることが行となる、と言うのです。念仏の中にあらゆる功徳を入れてくれたそうです。そのことを信じて唯念仏を称えるだけでよいのです。
H19
親鸞聖人は、浄土真宗の教えを日本に伝えてくれた高僧たち七人を選んでいます。インドの龍樹と天親、中国の曇鸞と道綽と善導、日本の源信と源空の七人です。この高僧たちを讃(たた)えて、親鸞聖人は高僧和讃という句を作りました。中国の曇鸞を讃えて詠んだ句にこのような句があります。

              無碍光の利益より  威徳広大の信をえて 
              かならず煩悩のこおりとけ   すなわち菩提のみずとなる

 仏さんが私たち凡夫を救ってあげようという慈悲心は、太陽の光のようにいたるところに差し込み、なにかに遮(さえぎ)られるということはありません。この仏さんの慈悲心のおかげで、私たちは限りない功徳のある信心をえることができます。功徳とは善い行いの結果として手に入れることのできるものであり、また善い結果を導いてくれるものでもあります。

信心は、私たちが自分の意志の力で手に入れる信心ではありません。信じようとしなくても、自然に心の中に湧いてくるものであり、外から与えられるような信心です。何を信ずる心かというと、自分は努力してもどうにもならない無力な人間だけれども、仏さんにおまかせすればどうにかしてくれる、結果はどうであれおまかせするより他に方法はない、と信ずる心です。この信ずる心を言葉に表すと南無阿弥陀仏という念仏になります。

 私たちの心は煩悩にみちみちていますが、どんなに悪い心であっても、常に反省をし、念仏を称えていると、氷がとけて水になるように、心の煩悩は少しずつとけて、悟(さと)りの境地が開けてきます。もちろん私たちが生きている間は煩悩が消滅することはありませんが、煩悩がある限りは悟りもあり、煩悩が無くなれば悟りもなくなってしまう、とも考えられます。

 親鸞聖人はこのように曇鸞大師を讃えています。
 
H23
「一如」の一は不二にて、絶対平等の義で、如は如常にて不変の義です。即ち唯一絶対にして不変なる真如法性の理をいう。「一如」とは「絶対不変の真理」のことです。この一如の世界に住んでいた仏様は、私たち煩悩に苦しむ人間を見て、なんとか救ってあげたいとこの世の中に現れて下さいました。だから仏様を如来ともいいます。

一如の一は、二つは無いものであり、この世界にたった一つしかないもののことです。如は如常と言い、常に存在し、変わることのないものという意味です。物事が常に変わりゆく無常のこの世において、たった一つしかなく変わることのないものといえば、真理しかありません。この大自然の法則でもあります。仏教では一如法界(いちにょほっかい)とか真如法性(しんにょほっしょう) といいます。

 「一乗」   「一」は、たったひとつという意味で、比較したり対照したりするものがないということです。比べるものがないので、平等であり絶対であるという意味をもっています。「一如(いちにょ)」とか「一実(いちじつ)」というように使い、唯一絶対にして不変なる真如法性の理、すなわち真理とか真実のことを表します。

 「乗」は物を乗せて運ぶという意味で、乗り物のことです。私たちがこの世で苦しんでいるのは、煩悩に迷わせられているからですが、この迷いの世界から、苦しみのない悟りの世界、極楽浄土へと私たちを乗せて運んでくれる乗り物が「乗」です。

 浄土に至る乗り物として、仏は念仏を準備してくれました。無限で完全な仏が造った乗り物だから間違いがないということです。特定の人々の乗り物ではなく、だれでもが乗れる大衆向けの乗り物なので「大乗」と言われています。

なぜ念仏を称えると救われるのか、救われるとはどうなることなのか、仏法とはなにか、等々の疑問に対する説明を聞いて信ずる時、その瞬間の一念に往生が決まります。このことを「口傳鈔」という本に「されば真宗の肝要、一念往生をもて淵源とす」と述べられています。真宗においては六字の名号(念仏の南無阿弥陀仏のこ

と)のいわれを聞信することが大事である、というようにいわれるのはこのためです。「一念」は「ふたごころなき」信心のことで、一心と同じ意味です。親鸞聖人の著作「教行信證」の信巻に「一念と言うは、信心に二心なきが故に一念という。これを一心と名づく」とあります。また一念は「一声(ひとこえ)の称名(念仏)」でも

あります。信ずる心が一声の称名念仏となるということです。念仏を一回称えると救われるのです。

「一法」 私たちが住んでいる世界は宇宙であり大自然であり、その中に銀河系があり太陽系があり地球があります。地球にはいろんな植物や動物が住んでいます。山や川や海があります。これらの世界はすべて、ある法則にもとづいて動いています。人間が発見し理解できる法則もありますが、ほとんどの法則は人間の理解を超えたものばかりです。この法則は真理とも呼ばれています。

 真理はこの世ではたった一つしかありません。全てのものがこの真理にもとづいて動いています。たった一つしか無いので他と比較もできません。比較もできないので絶対でもあります。唯一絶対の真理を仏教では「一法」と言います。これが仏さんの教える仏法でもあります。

「一道」

「一向」 一向専念無量寿仏という言葉がお経に出てきます。あちらこちらに目を向けないで、仏さんの方向だけを見ましょう、という意味です。あっちの神さんこっちの神さんにお参りをし、占(うらな)いにみてもらい、手相をみてもらい、子供の名前は姓名判断でつけてもらい、首には十字架をぶらさげて、称える言葉はナマンダブでは困ってしまいます。神さんも仏さんも迷います。本当は自分が一番迷っているのです。迷わず一向に専(もっぱ)ら念仏しましょう、と仏さんは教えてくれています。

「如」  親鸞聖人は「弥陀如来は 如より来生して 報応化種々の身を示現す」と言っています。つまり、仏さんは如という真実の世界からこの世に来て、私たちのために本当の姿を見せたり、環境に応じて様々な人間の姿をしたり、時には人間以外のものの姿を借りて現れたりする、ということです。仏さんはこの世で私たちから苦を取り除き、楽を与えてあげようと努力してくれます。
 桜の散るのを見て、私たちはこの世の無常を知ります。ようやく花が咲いたと思ったら、あっという間に散ってしまう桜の姿に、私たち人間のはかない人生を感じてしまいます。仏さんが桜の姿を借りて、私たちにこの世の無常を教えてくれているのかもしれません。
 夏の暑い日に突然涼しい風が吹いてきて、しばし苦しい暑さを忘れてしまう瞬間があります。仏さんの慈悲の風かもしれません。
 食べ物がおいしいと感ずるのはなぜでしょうか。つくづくと他人の親切が身にしみることもあります。道ばたの花が美しいと感ずることはしょっちゅうです。
 子供がかわいいと感ずることがあります。なにか子供の喜ぶものをあげたいと思うことがあります。一緒に遊んであげて楽しませたいと思うこともあります。普段は欲望が渦巻いている私たちの心の中に、その時に仏さんが入って来るのかもしれません。
 真実の世界から来た仏さんは、本当の喜びを私たちに与えてあげたいと思っているのかもしれません。偽(いつわ)りのない素直な心を開いていると、仏さんが喜びを運んできてくれるのかもしれません。私たちの心の中にだって入って来てくれているかもしれません。
 他の人を騙して自分の利益になることだけに努力しようとしている心では、感ずることのできない喜びがあります。損か得かの世界ではありません。数字の世界でもありません。形の世界でもありません。真実の世界の喜びです。
 「この世の中は、きれいごとだけでは生きていけない」と言う人がいます。そのとおりです。本当です。私たちは煩悩から逃れることはできないからです。死ぬまで欲望と道連れです。それでもいいんです。素直に欲望まみれの自分を認めることです。悪い心もある本当の自分を自覚することです。仏さんの前に自分をさらけ出した時の言葉が「南無阿弥陀仏」であり「ナマンダブ」です。
 念仏の心が仏さんになります。煩悩があろうが欲望があろうが仏さんの前ではすべてが功徳になると言います。功徳は良い結果を生む原因となります。親鸞聖人は「煩悩功徳の体となる」と言っています。
H22
「一乗究竟」

親鸞聖人は、九才の時に京都の比叡山にある延暦寺というお寺に入り僧侶になりました。そのお寺で親鸞は二十年間修行をしました。座禅はもちろん、山々を駈けめぐったり、京都の町中でお経をあげながら食を乞う乞食行をしたり、インドから伝わったあらゆるお経を読んだりしました。修行をすることによって悟りをひらこうとしたのです。

ところが、二十年経っても親鸞は悟りをひらくことはできませんでした。悟りをひらくどころかますます煩悩が盛んになったということです。煩悩が盛んなったということは欲望が激しくなったということです。 人間九才から二十九才という年齢のころは、人生においても最も元気が良く盛んな時代です。

ましてや山々を駈けめぐったりして身体を鍛えたりしていたのでは、お腹は空くだろうし、美味しいものは食べたいだろうし、エネルギー消費が激しいので肉だって食べたくなるのは自然の成り行きです。精進料理だとか一汁一菜だとかなど言っていられなくなるのは当然のことだったのでしょう。

 親鸞はこのように言って嘆いています。

  悪性さらにやめがたし     (自分の悪い性質はどうしようもない     )

  こころは蛇蜴のごとくなり   (心はヘビやトカゲのように冷たく冷酷なものだ)

  修善も雑毒なるゆえに     (たとえ良いことをしても、悪い心もまじっている)

  虚仮の行とぞなづけたる    (だからどんな行いも嘘の行いとなってしまう  )

 親鸞が、真実の教えが説かれているお経として仏説大無量寿経をあげています。このお経には、自分の力で悟りをひらくことのできない人間は、仏さんの力に頼るしか他に道は無い、と教えています。だから仏さんを頼りにしなさい、と親鸞は言います。

 仏さんを頼りにします、という言葉が南無阿弥陀仏です。まかせておけ、という仏さんの言葉も南無阿弥陀仏です。念仏を称える人は誰でも、どんなに大人数でも救ってあげようと仏さんは誓っています。大人数を乗せる船のようなものなので、仏さんの教えを大乗仏教とも言います。力の弱い私たち凡人は、仏さんに頼るしか他に道はありません。私たちにとってはたった一つの道です。たった一つの乗り物とも言えます。

 親鸞はこのお経のことを「真実の教」とも言い「一乗究竟の極説」とも言って褒め称えています。私たちにとっては、たった一つの、他には無い極めつけの教えだということです。
H24
 
親鸞聖人が「真実の教」と言われる「仏説大無量寿経」には、極楽浄土には大小無数の池があると書いてあります。その池の様子が次のように書かれています。 
 
 浄土の池には、八種類の功徳が溶けている水がたっぷりと満ちています。池の水は、 清浄高潔にして味わいは甘露のごとしです。池の底には、金や白銀、水晶や瑠璃(るり)、珊瑚(さんご)、琥珀(こはく)、瑪瑙(めのう)などの宝石の砂がしかれています。

水温は熱からず冷たからずちょうど良い具合です。水浴をすると、心が開かれ身体は心地よく、心の汚れが洗い流され清明にして澄潔(ちょうけつ)になります。

 池の岸の上には栴檀樹(せんだんじゅ)が華や葉を垂れさげていて、その香りはあたり一面に薫じています。
 かの仏国土は清浄安穏(しょうじょうあんのん)にして微妙快楽(みみょうけらく)です。それでかの国を安楽国とも呼びます。
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原因結果という言葉があります。これは仏教の教えにあるものの考え方を表すことばです。結果があるということは、その結果にいたる原因があるということです。私たちが、幸せになりたいという結果を期待するとすれば、幸せになるためのもととなる原因を作らなければなりません。この原因は、誰でも作れるものでしょうか。昔の高僧は、厳し

い修行を積んでこの原因を作ろうとしました。厳しい修行には、耐えられる人と耐えられない人がいます。強い人もいるし、弱い人もいます。浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、20年間比叡山で修行しましたが、良い結果は得られませんでした。修行に耐えられない弱い人間だったのです。親鸞は、自分の幸せを自分の力で手

に入れることができませんでした。そこで、仏の力に頼ることにしました。仏の力は念仏に込められています。念仏を称えて救われて行く道を選びました。  自分のことを自分でどうすることもできないような弱い人間である私たちにとって、幸せになっていく正しい原因を自分で作ることは至難の業です。仏はこのような私たちのために、あらゆる功徳が込められていて、幸せになるための正しい原因となる念仏を与えてくれました。

 念仏を称えることが、私たちが救われていく「正因」となります。念仏を称えた時に、私たちの心の中に、仏の世界が広がってきます。仏の大慈悲の心が、私たちの慈悲の心となります。仏が私たちの心の中に入り、私たちを仏の世界へ連れて行ってくれるのかもしれません。  誰かの名前を思い浮かべたとき、その人の面影が心の中に現れるようなものかもしれません。

 
 「印」は三法印のことで、仏教の特徴を表す旗印(はたじるし)のことです。三つの旗印というのは、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)のことです。仏さんは、この世は全てが無常であり、これが自分であるなどという自分(我)というものは無いのである、と教えています。これが自分であると思っている自分は煩悩そのものであり、周囲のあらゆる条件によって成り立たせられている自分にすぎないのです。まわりのあらゆる環境によって生かさせていただいているのが私たちであると教えています。 H20
「廻心(えしん)」 宗祖親鸞聖人が書いた「唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)」に「廻心(えしん)」というは、自力の心をひるがへしつるをいうなり」とあります。自力の心をすてて他力に向かうことを「廻心」というとあります。

 私たちは、自分の本当の姿がわがままで自己中心的で欲望に満ちあふれていることに気が付くことがあります。仏によって気づかせられるのかもしれませんが、このような自分を変えようと努力してもほとんど不可能なことが多いようです。人間が人間である限り逃れられないのがこの煩悩です。この煩悩を自力でなんとかしようとすることに無理があるというのです。自分でできないことは他に頼るしかありません。

 仏が「わたしに頼りなさい」と言っています。南無阿弥陀仏の南無はインドの言葉です。「帰命」と訳して、命も何もかもすべてまかせなさいという意味です。「阿弥陀仏にまかせなさい」という呼びかけであると同時に「阿弥陀様におまかせします」という返事が「南無阿弥陀仏」という念仏です。他力の念仏ともいわれ

ています。念仏を称えることは、煩悩深きわが身を反省することでもあるし、このようなわたしをも救ってくださるという仏様に感謝することでもあります。念仏一つに多くのことが含まれています。

「廻向(えこう)」 

私たちは何か欲しい物がある時に、一生懸命働いてお金を貯めます。そのお金を「ふりむけて」私たちは欲しい物を買います。お金を「ふりむける」ということは、お金を「まわす」というようにも言います。それで「廻向」は「回してふり向ける」という意味になるのです。

  この世は苦しみでいっぱいです。苦しみが無くなることはありません。死ぬまで苦はつきまといます。できることであれば、苦の無い極楽へ行きたいものだと私たちは願います。ところが極楽へ行くためには、お金を積み立てるのではなく、功徳を積み重ねなければなりません。功徳は、良い行いをすることによって積み重なっていくものです。良い行いは良い心から自然に出てくるものです。

さて、私たちには良い心はあるのでしょうか。胸に手を当てて正直に考えてみましょう。心の中にあるのはほとんどが欲望なのではないでしょうか。どんなに良いことをしたとしても、「ありがたいだろう」「恩を忘れるなよ」「おれもたいしたものだ」というようなあまり良くない心が底に流れるのを感じないわけにはいきません。これでは功徳を自分の力で積み重ねることはできません。

 このような私たちのために仏さんは頑張りました。修行をしたのです。無限という長い時間、無限という広い空間において、功徳を積み重ねました。無限という量の功徳を積み重ねたのです。その功徳を、私たちが極楽へ行けるように私たちに「ふりむけて」下さったのです。私たちはその功徳を受け取るだけでいいのです。

どのようにして功徳を受け取るのでしょうか。それは簡単です。「なむあみだぶつ」と念仏を称えればいいのです。そんな話は絵空事だ。嘘だ。偽りだ。ごまかしだ。なんと思ってもいいのです。どうせ私たちの心はその程度のものですから。仏さんはそのことを知っているからこそ私たちをあわれんで、簡単な念仏を私たちに「廻向」してくれたのです。
H24
 親鸞聖人が書かれた「正信偈」というお経の中に「依修多羅顕真実」とあり、修多羅(お経)に依(よ)って真実が顕(あら)わされる、と説かれています。真実というのは、私たち人間の本当の姿は煩悩(欲望)によって迷い苦しんでいるという事実です。

 悪いことをしたくなくても深い煩悩のためについやってしまう、という現実があります。このように自分で自分のことをどうすることもできない弱い私たちのために、仏は念仏を与えてくれました。念仏は「南無阿弥陀仏」「なむあみだぶつ」「なまんだぶ」ととなえることです。念仏をとなえることにより、私たちの心の中に仏の心が生ずるのです。仏を信じてとなえるのです。

 仏の心は慈悲心です。この慈悲心が私たちの心に現れると、煩悩の氷がとけるといいます。煩悩は無くなることはありませんが、もはや煩悩の闇に迷うことはなくなり、命尽きるまで念仏の道を安心して歩いていくことになります。そして仏になるのです。

 
 慧 ・ 恵 「慧1」は智恵の光です。煩悩の闇を晴らし、私たちの本当の姿を照らしてくれます。本当の姿は、欲望に満ちあふれ、怒り、ねたみ、そねみなどの邪念、妄念、妄想にとらわれ苦しんでいす。この現実を反省し、仏の慈悲心をいただいて、仏のように優しく

生きていくことを教えています。なかなか難しいことで、実行できそうもないのですが、すくなくとも仏のように生きようとする姿勢が大切です。その道が浄土へと続きます。

「慧燈1」は智慧の燈火という意味で、仏の智慧が人間の迷いの暗闇を破るようすが、燈火が暗闇を照らすようすに似ているので、仏の智慧のことを「慧燈」ともいいます。

 人間がより幸せな生活を送るためには、幸せになるための知識がいくらあっても役に立つとはかぎりません。知識を利用するための智慧がなければなりません。知識が少なければ少ないなりに智慧が働けばどうにかなります。

 たいていの人はお金が好きで、お金があれば幸せになれると思っています。たしかにある部分では幸せになれますが、お金の使い方をまちがえるととんでもないことになります。お金には限りがありますが、欲望には限りがありません。そこに智慧がなければとんでもない道に踏み込んでしまいます。知識も同じことです。

 仏教では仏の慈悲心のことを光明ともいいます。慈悲の心が私たちの迷いの心を照らし、私たちの歩むべき道を教えてくれるというのです。慈悲の心は他を思いやるやさしい心です。  

 お金があっても知識があっても、自分の目先の利益ばかり、自分のことばかりを考えていては、みんなに嫌われてしまいます。世間に嫌われるだけではなく、家族にも嫌われ、最後には自分にも嫌われることになってしまいます。

 幸いにも私たちの心の中には、仏心(ほとけごころ)と呼ばれるやさしい心が与えられています。この心を常に外に出し続けようと努力することが大切です。やさしい心がまわりのみんなを幸せにし、その結果自分も幸せになるということが智慧なのです。仏の心です。

 油断をすると仏心はすぐに消えてしまいます。仏心がどこに行ったか見えなくなったら仏に頼むのです。「南無阿弥陀仏」と頼むのです。きっと智慧の光明が探しだしてくれます。仏が私たちの心に仏の心を与えてくれます。

「慧燈2」 太陽の光が道を照らしてくれるので、私たちはこの道は危険な道だとか安全な道だとか判断できます。迷わずに目的地に到着できます。人生の道でも暗ければ道に迷ってしまいます。暗いということは正しく判断できないということです。もし判断の基準が利己的な欲望だったとするとどうでしょうか。自分にとって一見都合の良さそうな道だけを選ぶことになってしまいます。美味(おい)しそうな物だけが価値があり、値段の高い物が良い物で、楽なことが大事なこととなってしまいます。

私たちの幸せは、単に自分が良ければ良いというわけにはいきません。目の前の人が苦しんでいては、私が苦しくないから問題ないとは言ってられません。欲望の満足が本当の幸せとは言えないようです。
 
仏教は仏さんの教えです。私たちが歩むべき道を教えています。生きていく上で安心のできる道です。冬のつらく厳しい大雪も、私たちの大切な食料であるお米を育てるという重要な役割を持っています。このことを知っているのと知らないのとでは、冬の厳しさのとらえ方がだいぶ異なってくるのではないでしょうか。

物事の本当の姿を見せてくれるのが仏さんの教えです。仏さんの智慧でもあります。仏さんの智慧が迷いの暗闇を照らして道を示してくれるので、この智慧を慧燈とも言います。燈火のように明るくしてくれるからです。仏事に蝋燭(ろうそく)に火を灯すのは、真実の世界に目を向けましょうという意味もあるのです。
 
「慧眼1」 仏さんは、私たちが学校で学ぶような知識を覚えろとは言いません。知識も大切ですが、その知識を使う智慧を持つように教えています。智慧の眼を持ってこの世の中を見るように教えています。 私達の日常生活は、毎日が楽しくて幸せなことばかりとは限りません。むしろ、つらいことや苦しいこと、いやなことが連続している日々ではないでしょうか。なぜこのような状況になるのでしょうか。
 
仏さんは、その原因を私達の心の中に見つけました。煩悩です。煩悩は熱い太陽に照らされた乾いた砂のようなもので、いくら水を注いでもすぐに乾燥してしまいます。満足するということがありません。私達はどんなに恵まれていてもそのことに気付くことがありません。煩悩という色眼鏡を通して世界を見ているからです。
 ごまかしのない、うそいつわりのない、本当の姿が見える世界を浄土と言いますが、現代の言葉で言えば真実の世界というのかもしれません。仏さんはこの真実の世界から悩み苦しむ私達を見て憐れみ、本当の世界を知らせるためにこの世に人間の姿をして現れました。
 現実生活の中では、何が正しく何が本当でどのようにあるべきか、ということは頭の中では理解できている人が大部分ではないでしょうか。わかっているけど、どうしようもない現実があります。それは私たちが煩悩から逃れることができないからです。
 人間である限り、自分の力ではどうしようもない私達は、他に頼るしか方法はありません。他とは仏であり仏の力です。仏にすべておまかせする時の言葉が南無阿弥陀仏です。欲望を満足させてください、というお願いではありません。結果はどうあれ、おまかせするということです。
 私たちは大自然の法則、大きな流れに逆らうことはできません。この大自然の中に生かされて生きている限り、法則には従わなければなりません。この法則は仏法でもあります。仏さんの教える法です。真理とも言います。この世の本当の姿は真理です。

真理に逆らうことに無理が生じ、苦しみが生まれます。煩悩が私たちに無理を要求するから私たちが苦しむことになるようです。
煩悩の奴隷になっている私たちの姿をしっかりと見つめる眼が「慧眼」です。仏さんは、智慧の眼をもって自分の姿を見るように教えています。苦しんでいる自分の生き方を反省し、少しでも楽になるように仏さんは常に念じています。

「慧眼2」  仏教では仏さんの慈悲心のことを光明ともいいます。慈悲の心は他を思いやるやさしい心です。慈悲の心が私たちの迷いの心を照らし、私たちの歩むべき道を教えてくれるというのです。
 
幸いにも私たちの心の中には、仏心(ほとけごころ)と呼ばれるやさしい心が与えられています。この心を常に外に出し続けようと努力することが大切です。やさしい心がまわりのみんなを幸せにし、その結果自分も幸せになるということが智慧なのです。仏さんの心です。仏さんの願いです。
 油断をすると仏心はすぐに消えてしまいます。仏心がどこに行ったか見えなくなったら仏さんに頼むのです。「南無阿弥陀仏」と頼むのです。きっと智慧の光明が探しだしてくれます。仏さんが私たちの心に仏さんの心を与えてくれます。

「惠」 この地球上の空気の量には限りがあります。空気中の大切な酸素は刻々と海の植物や陸の植物によって生産されていますが、人間が消費する酸素の量も刻々と増えています。これ以上酸素を消費していくと酸素不足になることもあります。生物生存の危機です。限りある天然の資源の中で人間の欲望だけがどんどん増えて、天然の資源は減少するばかりです。
 
人間は豊富な知識を持っていますので、あの手この手を使って快適な生活を求めて続けています。このまま人間中心の生活を続けていきますと、人間の文化生活は滅びてしまうことは明らかです。このことは誰でもが理解できることです。しかし、どうすればよいのか良い知恵が無いのです。本当は良い知恵が無いのではなく、良い知恵があってもその知恵に従いたくないという欲望が勝ってしまっているのです。
 
仏さんは二千五百年以上も昔から、人間の苦悩の原因は煩悩であると言っています。つまりは欲望が苦の元凶であると言うのです。人間は、死にたくない、病気にもなりたくない、金持ちになりたい、権力を持って威張(いば)りたい、美味しい物ばかり食べたいなどと求めます。しかし要求が満たされ満足することはめったにありません。満足したとしても一時的なもので、すぐにもっともっと欲しくなります。果てしのない欲望があるからです。
 
この欲望のままに生きる限りは、地球が滅びてしまうまで人間は求め続けます。欲望の奴隷となっていることが問題なのです。ふっと気が付くと本当の自分を失っていることがあります。お酒に酔った時のような状態です。悪いお酒が醒()めた時の気分は最悪です。

仏さんは、欲望のままに生きるのではなく、やるだけのことをやったら後は自然の成り行きにまかせましょう、と教えています。無理に欲望を通そうとするところに苦があります。どうしようもないことはこの世にいっぱいあります。諦(あきら)めることも一つの知恵です。

仏法は仏さんの教えるこの世の法則です。科学的な法則と異(こと)なるものではありません。まさしく自然界の法則そのものです。あらゆる生物は、生まれることも死ぬことも病気になることも年老いることも自分の思い通りにはなりません。自然の法則に従うだけです。法則に逆(さから)らうところに苦が生じます。人生において努力は必要ですが、自然の法則に逆らっていては苦しむだけです。






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「悦」は私たちが救われる喜びであり、仏と同じ心(慈悲心)を持つ喜びです。救われるということは、慈悲心を持ち心優しくなることです。仏願力がそれを可能にしてくれます。  
故人は、「縁」あってこの世に生まれ、家族をはじめとする親戚、知人、友人にめぐり会い、しばらくの間この世で皆様と生活を共にいたしました。「縁」がなければめぐり会うこともありませんでした。この「縁」は、私たちには推し量ることのできない大自然の法則、真理によるものです。

この世が無常であることも真理です。この世が無常であるからこそめぐり会うこともあるのですが、同時に別れることもあるのです。無常は厳しく苦しみや悲しみをともないますが、無常であればこそ希望や喜びも期待できるのです。  故人は今、「死」をもってこの世の無常を私たちに教えてくれています。

無常の世にあって生きるべき道は、今ここに生かされてあることのおどろきと喜びをかみしめ、一瞬一瞬を大切に生きる道です。故人との出会いは仏縁でもあったのです。仏縁は私たちに幸せになる生き方を教えてくれます。

私たちは、この冬の寒さがゆるみかけた時によく風邪をひきます。風の菌が原因です。菌が原因となって風邪をひくという結果になります。仏さんはこの菌を「因」と言います。風邪を「果」と言います。原因があるから結果もあるのですが、原因が必ずしも結果に結びつくとは限りません。

そこには仲介役としての「縁」がなければなりません。風邪の菌があったとしても天気が良くて暖かい日であれば風邪をひきません。太陽が隠れて寒くなったり、冷たい風が吹くなどの「縁」があれば風邪をひくことになります。油断も縁となります。 
 私たちがこの世に生まれて来たのは、単に親同士が結婚したからではありません。結婚したから子供が生まれるとは限らないからです。そこには無数の縁があると言います。科学的に理解できる縁もあるし、人智のおよばない縁もあります。人間には理解できない縁がほとんどではないでしょうか。不思議な縁によって私たちはこの世に生まれて来ました。
 病気もそうです。菌があるから風邪をひくのですが、なぜその時に太陽が隠れたのか、冷たい風が吹いたのか、油断したのかはわかりません。縁とは不可思議なものです。
 健康に元気に暮らしている人々にとっても同じことです。目に見えない不思議な縁が働いているから健康で元気にしていられるのでしょう。
 私たちの力でどうにかできる縁もあります。どうにかできることは努力をしてやらなければなりません。冷たい風が吹いたら窓を閉めることはできます。ストーブで部屋を暖めることもできます。できることはやらなければなりません。
 しかしながら、人生にはどうにもならない縁が無数にあります。なんともなりません。自然の大きな流れには逆らえません。あとは仏さんにおまかせするしかありません。どうしようもないのですから。仏さんにおまかせする心が南無阿弥陀仏という念仏となって口からでてくるのです。
 
 










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円融円満の意味で、一切のもの一切の善根功徳がまどかに欠けることなく備わっており、広大にして速やかに悟りを得ることができることを表しています。悟りは心安らかな状態、幸せを意味します。 
円融円満の意味で、一切のもの一切の善根功徳がまどかに欠けることなく備わっており、広大にして速やかに悟りを得ることができることを表しています。悟りは心安らかな状態、幸せを意味します。融は融通でその善根功徳がそのまま衆生のものとなると真宗辞典にあります

親鸞聖人の著書である教行信證に「圓融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す」とあります。
嘉号は念仏のことです。念仏にはあらゆる幸せの元となるものが込められているといいます。

仏教語に円融という言葉があります。仏さんが知恵をもって衆生を救おうとする力が十分であり、不足することはなく、衆生の誰にでも平等に降り注がれている様子を表しています。
 
「おん」と発音し、お経の中の「園林遊戯地門」という語句から引用しました。 浄土論というお経(正確にいうと経論釈の論)の中に「大慈悲をもって一切の苦悩の衆生を観察して応化身を示し、生死の園、煩悩の林の中に廻入して、神通に遊戯し教化地

に至る」とあります。浄土に往生した仏は、この世の私たちの世界に、慈悲心を持った仏として現れます。生死の苦悩や煩悩に満ちたこの世界に、仏として再び現れ、私たちをこの世の闇から救い出そうというはたらきをするという意味です。

仏様がこの世ではたらく様子が、生死の園、煩悩の林で遊び戯れるような境地なのでこのように言うものと思われます。この世の苦も楽も深く味わうということでしょう。

 
開祖親鸞聖人の書かれた「正信」に「横超」という語が何回か出てきます。人間には、生老病死などの四苦八苦と呼ばれる苦があります。人間である限りどうしても逃れられないこのような苦を、科学的に飛び越えるのではなく、横ざまに超越させようとしてくれるのが仏である、と親鸞聖人は教えています。自分の力でどうしてもできないことは、仏の力(他力)にまかせなさい、と言っているのです。

私たちの苦しみは、自分の力を他の人と比較して優劣を競ったり、どちらが金持ちかなど富の量を計ったりすることなどから生じてきているようです。すべてが大小、多少、長短などの数量を計算し、他の人と比較し、満足できないことが原因のようです。私たちに欲望がある限り、煩悩が燃え盛っている限り満足することできません。煩悩は果てしがないからです。欲望に限界がないからです。物事を計算している限りは安心できないのです。
 理論的に人生の幸福を求め続けても、人間の能力には限界があるので煩悩を克服することはできないようです。そこで仏さんは、理論を上に積み上げて行くのではなく、理論を超越して横ざまに人間を救済しようしてくれたのです。ただ念仏を称えればそれで良い、と念仏をすすめています。仏さんにおまかせしなさい、ということです。それでは仏さんにおまかせしましょう、という心が念仏です。
 「知識」と「知恵」という言葉があります。知識は言葉で表せます。量があります。知恵は言葉ではありません。計ることはできません。目にも見えません。しかし、知識を利用する力を持っています。知識を超えています。仏さんにすべておまかせして生きて行こうとすることは、知恵であると親鸞聖人は教えてくれています。このことを聖人は「知恵の光明計りなし」と浄土和讃という文で称(たた)えています。
 
「念仏生これ真宗」といいまして、私たちの宗祖親鸞聖人は念仏を称えて往生することをすすめておられます。往生とは極楽浄土に往(い)き生まれることです。浄土に住む者は皆仏様です。だから往生とは仏になることです。人間が浄土に生まれ仏になっていくすがたを往相といいます。仏は人間の苦しみを取り除いてあげたいという

願いを持つ存在ですので、浄土にじっとしていることができずに、必ずこの人間の世界に戻ってきて私たち人間を救おうとされます。浄土から人間の世界に還(かえ)ってくるすがたを還相といいます。親鸞聖人の書かれた「教行信證」の巻頭に「謹んで浄土真宗を按ずるに二種の回向あり、一は往相、二は還相。往相の回向について真実の教行信證あり」とあります。浄土真宗の救済原理たる本願の活動そのものが往相回向であると述べています。   

「往生」

故人は、九十四才という欣(よろこ)ぶべき長寿をまっとうされました。短い人生よりも長い人生のほうが望ましいように思われます。短い人生は価値が無いということではありません。短い人生でも味わい深い人生であるかもしれません。長い人生でも味わいの薄いものもあるかもしれません。大切なことは、限りのある私たちの人生をどのように生きるかということではないでしょうか。このように考える時、短い人生よりも長い人生のほうが、人生を深く味わう機会が多いように思われるのです。

 この世での命が終わることを「往生する」と一般的には言われているのですが、「往生」という言葉は「生まれて往く」という意味が本来の意味です。この世からあの世へと生まれて往くという意味です。あの世は極楽浄土です。苦の無い世界です。

 どうせあの世は苦が無いだけでなく楽も無いのだろう、何も無い「無の世界」だろう、と私たちは勝手に思っているようですが、本当にそうでしょうか。空気は見えないけれども確かにあります。電波だって聞こえないけれどもあります。私たちの感覚で感じなくてもあるものもあるのです。科学の力で解明できないものは無数にあります。ましてや私たちの頭で理解できないものは無限にあります。

 そうすると、あの世に何も無いということは、私たちの頭で理解できることは何も無いということかもしれません。もしかすると、この世よりもあの世のほうが確実に存在する頼りになる世界かもしれません。もちろん私たちにとってはこの世がすべてであり、十分に味わい尽くしたい世界であるはずなので、早くこの世を去ってしまいたいなどと考えるべきものではありません。

あの世が確実に存在する苦の無い世界であり、私たちは必ずいつかはあの世に往くことができるとすれば、私たちは安心してこの世をゆっくりと味わい尽くすことができるのではないでしょうか。味わうということは、苦も楽も、甘いも辛いも味わうということです。

 この世での人生がいろんなことを味わい尽くす旅だとすれば、あの世は私たちが生まれてきた故郷であり、これから帰って行くところなのではないでしょうか。旅は一時的なものです。始まりがあり終わりがあるものです。帰るべき故郷があればこそ、旅をじっくりと味わい尽くすことができるのではないでしょうか。

 旅の終わりは、故郷での新たな出発の第一歩ということであり「往生」ということなのではないでしょうか。
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仏様の前で拝むような仏事には、必ずロウソクに火を灯します。灯の光が暗闇を照らし明るくしてくれるように、煩悩によって迷い苦しんでいる私たちの心に救いの手をさしのべてくださるのが仏様です。仏の慈悲心が迷いの闇を晴らしてくれることを願って、私たちはローソクに火を灯します。
 「仏果」 自分(自力)で修業して功徳(仏になるための原因)を積むのではなく、仏(他力)が修業して積んだ功徳をそのまま念仏の中にいただいて往生させてもらうのが真宗です。仏の修行の結果をそのままいただくのです。「仏果」をいただくともいいます。

 煩悩だらけの私たち凡夫には、純粋に修業して功徳を積むなどということはできません。

 
「迦陵」は迦陵頻伽(カリョウビンガ)のことであり、極楽浄土に住んでいると言われる美音鳥という鳥の名前です。極楽は名前のとおり、理想の世界のことであり文句のつけようのないすばらしい国であるそうです。

景色は良く、空も雲も風も鳥も美しく、大地は金、銀、真珠、ダイヤモンド、などあらゆる宝石に満ちており、池も川も輝く水をたたえているそうです。もちろん食べ物も豊富にあるし、住むところも心配ないそうです。そんな世界を飛び回っている鳴き声の美しい鳥が迦陵頻伽です。 
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この世の中は昔からよく海にたとえられます。海の波は静まることを知りません。常に動いています。凪の時でさえ動いています。嵐の時は荒れ狂います。波と波が争います。無常です。しかし、どんな時でも海の底は静かです。表面は激しく動いていても、底は静かです。この世だって静かな底に支えられているだろう、と考えられてきました。

 この世を支えているのは大自然であり、さらに大自然を支える無限の空間と時間の世界です。絶対に動かしようのない真理、真実の世界です。仏の世界です。
「覚悟」 覚悟(かくご)という言葉があります。死を覚悟するとか、受験に失敗することを覚悟するとか、大切な物を失うことを覚悟するとか、マイナスなことを受け入れようとする時にこの言葉が使われるようです。
 
仏さんの教えでは、サトルという言葉がよく出てきます。漢字で表すと「覚」と書いたり、「悟」と書いたりします。     
 
「覚」は物事を覚(おぼ)えると言う意味があります。目が覚()めるという時にも使います。閉じていた目を開けると光が差し込んで、周囲の光景がはっきりと見えるような状態を言うようです。

私たちは普段目を開けて物を見ていますが、目に映る画像は同じでも、心に映る画像はそれぞれ異なるのではないでしょうか。水槽で泳いでいる魚を見ても、魚が美しいと思う人もいるし、かわいいと思う人もいるでしょう。

水槽に閉じこめられてかわいそうと思う人もいれば、おいしそうだと思う人もいるでしょう。千差万別です。魚を見る目が違えば、心に映る画像も異なるようです。仏さんの目を通して魚を見ると、魚も人間と同じようにこの大自然に生命を受けた大事な存在と映るのではないでしょうか。

仏さんのように自然にあるがままに物を見ることを「覚」ると言うようです。

「悟」の左側の「S」は立心偏(りっしんべん)と言い、心を表すものです。右側の「吾」は我(われ)という意味です。「悟」は我が心を表す漢字です。悟(さと)ると言う時は、我が心の本当の姿を覚るという意味になるようです。

「覚」が自分の外の世界に目が開けるのにたいして、「悟」は自分の内の世界に目が開けるという意味になります。自分の内の世界は心の世界です。私たちの心は欲望に満ちている世界です。

あふれる欲望のために怒(いか)り、妬(ねた)み、嫉(そね)み、恨(うら)み、辛(つら)み、などが心の中に渦巻くことになります。欲望は生きている限り消えることはないので、生きることは四苦八苦することとなります。このような自分の姿を素直に見つめることができた時、「悟」りの目が開いたと言うのではないでしょうか。

 ただし、これだけでは悟りを開いても苦しむだけのことです。苦しむ自分を見つめるだけの悟りになってしまいます。覚りも単なる客観的な目が開いただけということになってしまいます。

そこで仏さんはいつの間にか私たちの心の中に、すばらしい贈り物をしてくれていたのです。それは仏心と呼ばれる物です。慈悲心とも言われ、思いやりとか優しさとかも言われます。私たちの苦しみの暗い人生に明るい光を照らしてくれていたのです。
 
この世に仏心があればこそ、ほっとした安らぎの心に満たされることもあるのではないでしょうか。砂漠の中のオアシス(泉)のようなものです。苦があれば楽もあります。仏さんは私たちにそのことを気付かせようと懸命に働いてくれています。

簡単なことのようですが、現実には砂漠の中のオアシスに気付く人は多くはないようです。気付いたとしてもすぐ忘れてしまうようです。
 
念仏は私たちにオアシスを思い出させてくれるキーワードでもあります。
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 月  
親鸞が「真実の教」と言う「大無量壽経」というお経に「月光摩尼」という言葉が出てきます。「摩尼」は「宝石」のことです。「月光」は「月の光明」です。
 
仏さんは、太陽の光が世界を照らして明るくするように、私達の心を明るくしてくれます。暗い夜に、月の光が輝いて私達の歩く道を照らし出してくれるように、仏さんの光明は、私達の生きていくべき道を教えてくれます。
 
苦悩のどん底にいる人には、もうこれ以上悪くはならないから上を見上げるように、そこには希望の光が輝いていることを教えてくれます。物事の本当の姿はあらゆる角度から見なければ見えてきません。煩悩に目をさえぎられている私たちには見えないものを仏は見せてくれます。
 
私達人間は、目は見えるけれども何も見ず、耳は聞こえるけれども何も聞かず、自分の都合の良いことだけに目を向け、耳を傾けるというようなことがあります。煩悩の望むところだけに従っているのです。まるで闇の中を手探りで歩いているようなものです。暗闇の中を歩いているとも気がつかず、危険な崖っぷちに近づいているかもしれません。

そのような闇を晴らして本当のこの世の姿、真実の世界を照らし出してくれるのが、仏さんの光明です。
 
朝な夕なに仏壇に手を合わせて拝む時、仏さんの言葉を聞こうと意識して耳を傾け、真実の世界を見ようと意識して仏壇に向かうと、自然にその心に明るい世界が映し出されてくるのかもしれません。そのような生きる姿勢に光りが差し込むのかもしれません。
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菩薩の中に「聴光」菩薩という方がおられるそうです。「光」を「聴(き)」くとはどういうことか不思議なことです。また、観音菩薩という名前も音を観ると書きます。耳に聞こえないものを聴き、目に見えないものを観るということでしょうか。心の問題であり信心のもたらす結果のことではないでしょうか。
 
私たちの限りある能力で見たり聞いたりしているだけでは、本当の真実はほんの少ししか姿を現してくれないのかもしれません。欲望が渦巻き喧噪の絶えることのないこの世の中で、たまには静かに真実の世界に耳を傾け、欲望の耳では聞こえないものを聴こうとしたり、観たりしようとすることが必要なのかもしれません。
 
仏となられた故人は、浄土に落ち着いていつまでもいることはありません。仏は、悩み苦しみながら生きている私たちを救おうとつとめるのが仕事だからです。故人も仏としてこの世ですでに働いているものと思われます。目に見えないものを観、耳に聞こえないものを聴こうとするとき、その姿を感ずることができるかもしれません。

「観世音菩薩」  私たちが今住んでいるこの世の中を見てみますと、中国が話題の中心になることが多いような気がします。中国は今経済発展が世界で一番著しい国です。経済的に豊かに生きていこうとすると、このような国に関わりを持っていくことが必要になってきます。それで世界中の国々が中国に視線を向けて、中国に集まってくるという状況になっているのではないでしょうか。中国が少しくらい乱暴なことをしても、喧嘩をするわけにはいかないのです。

 お金が無ければ幸福にはなれないものと決まっているかのように、この世界のすべてが金、金、金で動いているように思われます。たしかに今の世の中では、お金が無ければ動きがとれないし、大変に不自由な思いをしなければなりません。そのとおりなのですが、お金だけではない世界もこの世には同時にあるのではないでしょうか。

仏さんの眼からこの世を観ると、私たち人間は煩悩という色眼鏡をかけてこの世を見ていると言います。煩悩には食欲、色欲、金銭欲、権力欲などがあるようですが、私たちはこのような欲望を通して物事を見聞きしていると言うのです。お腹が空いている人がお魚やお肉を見るとおいしそうだと思うのですが、仏さんから観るとお魚やお肉は、人間という動物と同じ命を持っていた動物であり、今まで生きていた生き物であると見えるし、かわいそうなことだと思うそうです。

それで、私たちがお魚やお肉を食べる時は「いただきます」と言ってから食べましょう、と教えています。私たちが生きていくためには、他の命をいただかなくては生きていくことができないのですから、感謝の気持ちを込めていただきましょう、と教えています。
 おいしい食事をするのは結構なことですが、人間の欲は深いものでもっとおいしいものを食べたい、もっと多く食べたい、ほかの人よりも多く保存して置きたいということになってくるのが人間の常です。そういうことになると、お金が必要となります。お金がなければ欲しい物は手に入りません。欲はますます深くなるけれども、欲に追いつくだけのお金が無ければ苦しくなります。

欲は尽きることがないので、苦しみも尽きることがないということになります。欲望が苦しみの原因ともなっています。もちろん適度の欲は生存には必要です。

煩悩という色眼鏡を通して見た世界が欲望の世界だとすると、色眼鏡を外して観る世界はどんな世界でしょうか。大自然の世界であり、ありのままの世界です。自然の大きな流れは厳しい面もありますが、温かい面もあります。命ある物はすべて自然に生かしてもらっています。自然の法則は持ちつ持たれつ、お互いを支え合って生きるようにできています。
 人間の世界では、支え合う心を慈悲心と呼んでいます。優しい温かい心です。

仏さんの絵像や彫像を見ると、両脇にはたいてい家来か弟子のような方々が控えています。この方々を脇士(わきじ)と言い、これから仏さんになろうという菩薩です。菩薩は仏さんになる一歩手前の方々です。仏さんの脇士は、観音菩薩と勢至菩薩です。観音菩薩の名前はよく耳にする名前ではないでしょうか。

観音菩薩は慈悲の担当です。この世の色々な姿に身を変えて私たちを救ってくれます。「あの人は観音様のようにやさしい人だ」「観音様の化身のようだ」などと言ったりします。
 観音菩薩は観世音菩薩とも呼ばれています。観世音菩薩という名前を、私は私なりの勝手な解釈で、この世の音のように目に見えないものを観せてくれる菩薩の名前であるとしています。目に見えないものとは仏さんの慈悲心などです。観世音菩薩は仏さんの心を観せてくれるし、実践してくれる方のことです。
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親鸞聖人の書いたお経で「正信偈」と言うお経に「清浄歓喜智慧光」という言葉があります。「歓喜」は私たちが必ず救われるという喜びであり、仏さんと同じ心、つまり慈悲心を持つという喜びです。救われるということは、仏さんと同じように心優しくなるということです。
 この喜びの境地を悦予地とも言います。この境地に至った人は必ず極楽浄土に往生をし、仏さんになります。必ず仏さんになるという地位ですので、不退の位とも言います。
浄土真宗においては、念仏を称えると仏さんの力で必ず極楽浄土に続く道に連れて行ってもらえると教えています。念仏の道を歩いていれば必ず浄土へ行くことができるという教えです。
 あの世と違い、この世は苦しみが多い世界です。生きているだけで大変なこの世の苦しみ、老いる苦しみ、病気になる苦しみ、死ななければならないという苦しみ、どの苦しみも逃れられないものであり、どうしようもないものです。このたくさんの苦しみに囲まれている私たちは、決して楽しむということはできないのか、というとそうでもありません。

苦しみの合間に楽しみがちらほらとのぞくこともあります。今日は楽しい一日だった、というような日もあります。苦痛や苦労があっても、楽なことや楽しいことが同時に起こることもあります。生きている限りは、四苦八苦からのがれられません。しかし、苦があっても苦を苦とせずに楽しいことを考えたり、楽しいことをしたりすることが可能な時もあります。

それは、私たちが苦と楽の両方に囲まれているからではないでしょうか。苦楽が物事の両側面ということかもしれません。苦があれば楽があり、楽があれば苦がある、という関係かもしれません。
 視点を変えることによって世の中が違って見えることもあります。自在に視点を変えられるような眼を仏眼と言います。この仏眼を持った時に、「歓喜」の心を持ったと言えるのかもしれません。
願   罪深く悩み多き我らをどうしてもすくい取ってやりたいという仏の願いで、我々真宗の聖典である大無量寿経の上巻に書かれてある四十八の願のことです。 仏はこの願いを成就させるために、無限の間、無量の修行をされ、我々のために徳を積ま

れ、願を成就なされました。願いは必ず達成されるということです。    
その願と行と徳のすべてが念仏、すなわち「南無阿弥陀仏」の六字に込められているのです。念仏を称えた者を必ずすくい取って決して捨てることはない、と仏様は誓いました.

仏さんは本来名前も無く、形もなく、もちろん大きさも無く、ここからここまでが仏さんであるというような限界も無いような、人間の思考や想像を超えた存在でした。ところが、この世の中に自然でない部分があることに気付きました。この部分は無限なる仏さん自身の一部でもあるために、ほっておくこともできませんでした。

この部分というのは、私たち凡人の心でした。苦しみ悩んでいる心は不自然ですので、仏さんは自分自身のこととしてなんとかしなければ、と思いました。そこで仏さんは、なんとかしてあげたいという沢山の願いの内、四十八の願いを選びました。それが仏説大無量寿経というお経の中に書かれている四十八願です。
親鸞聖人は四十八願の中の十七番目の願である「諸仏称名の願」に注目しました。念仏を称えるものはみんな救ってあげたい、救わずにはおかない、という願です。浄土真宗においては、仏さんの願いというのは、この十七願のことを言います。念仏を称えて救われていくのが真宗であり、親鸞聖人の教えです。

私たちの心の悩みや苦しみは、私たちが自分の力でどうこうしようとしてもどうにもならないほど根が深いものです。人間の生・老・病・死からしょうずる苦しみは、学校教育でも病院での治療でもどうしようもないものです。薬で身体の傷はどうにかなりますが、心の傷はどうにもなりません。

自力の限界を知った親鸞聖人は、他力におまかせする道を選びました。他力は仏さんの力であり、仏さんがどうしても私たちを救ってあげたいという願う力です。
     
仏さんの願う力におまかせする心が、念仏の心です。念仏の南無は帰命という意味です。すべてをおまかせします、という意味です。帰命は帰願でもあります。
自力ではなく無限なる他力による救いなので間違いがありません。親鸞聖人が書かれた和讃に「念仏往生の願により 等正覚にいたるひと すなわち弥勒に同じくて 大般涅槃をさとるべし」とあります。念仏を称えて救われる人は、まちがいなく弥勒菩薩と同じ覚りを得ることができる、と教えています。
 








H20
「願心」

欠けたところのない満月のように、完全なものであり不自然なところなど何も無く、そのままで何も問題など無い自然の世界に、ある時突然にゆがみが生じてきました。完全な世界にゆがみが生ずると、完全なるものはそのゆがみをどうにかして元の完全な状態に戻そうとします。

 自然界のゆがみというのは人間の心のことです。特に欲望のことです。欲望は欲しい欲しいという心であり、あれも望むしこれも望むという限りなく果てしの無い心です。この欲望をもった者どうしは当然にぶつかりあいます。さらにこの欲望は自然を必要以上に破壊し尽くします。他の人と喧嘩したり自然を破壊する行為は、ついには私たち自身が困る状態を引き寄せることとなってしまいます。それで、欲望は私たちの心を煩わせ悩ませるので煩悩と呼ばれています。

 自然界の完全なるものは、ゆがみを元の状態に戻そうという願いを持ちました。自然界のものが願いを実現するため人間界に姿を現す時に、「仏(仏陀)」という名前を持ちました。仏(ぶっだ)はインドの言葉です。漢字で表すと「如来」となります。「如」は「真理」という意味です。「如来」は真理の世界から来た者という意味になります。

 如来である仏さんが、私たちの煩悩をなんとかしてあげたいという願いを持ちました。この願いを「清浄願心」と言います。
 親鸞聖人は「教行信證」という本の中でこのように言っています。

一事として            (どんなこと一つ取り上げてみても)

  阿弥陀如来清浄願心の      (仏さんが私たちを救いたいと願う心が)

   回向成就したまえるに    (私たちに届いて実現しているということが)

    非ざること有ることなし  (真実ではないというようなことはないのです)

 私たちの知らないうちに、仏さんはこんなことをしてくれていたのです。私たちはすでに、仏さんの救いの手の上にいるということです。私たちが気づいていないだけなのです。私たちは、ただ念仏を称えるだけでよいと言うのです。仏さんを信じて念仏を称えるのですが、その信ずる心さえ念仏の中に入っていると言うのです。

 念仏を称えて生きるという姿勢の中に、自然に心の安らぎが浮かび上がってくるということでしょうか。煩悩はそのままでいいのだとも教えています。
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 親鸞聖人の書いたお経「正信偈」に「清浄歓喜智慧光」とあります。「喜」は私たちが救われる喜び、仏と同じ心(慈悲心)を持つ喜びです。救われるということは、心優しくなることです。この喜びの光明が燈(とも)ることを仏は願っています。

「喜心」
 真実一心即是(すなわちこれ)大慶喜心  大慶喜心即是(すなわちこれ)真実信心 真実信心即是(すなわちこれ)金剛心 
   仏さんの心は、私たちの心の中にいただけば喜びの心となり、信心、金剛心となる。
 
 金剛心即是(すなわちこれ)願作仏心 願作仏心即是(すなわちこれ)度衆生心
   金剛心は、仏さんになりたいと願う心であり、衆生を救いたいと思う心である。
 
 仏さんの心だとか衆生の心だとかたくさんに出てきますが、要は慈悲心が私たちの救いの土台となっているようです。慈悲心が仏さんの心にあれば、仏(ほとけ)心(ごころ)であり願心であり度衆生心となり、私たちの心にあれば信心となり願作仏心となり大慶喜心となるのでしょう。

私たちが温かい心で他人(ひと)に接する時に、その人に喜びを与えるだけではなく、私たち自身も喜びを得ることができるということは、私たちの救いなのではないでしょうか。仏さんの慈悲心が私たちの慈悲心となり、慈悲心が私たちに喜びを与えるとともに救いも与えてくれるということかもしれません。
 
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南無を参照  
機微、機械、機会の機で、物が現れ出るきざしという意味です。何かのはずみ、何かのきっかけがあればすぐにはじけるように現れでるものという意味です。  真宗(一向宗)を開いた親鸞聖人は、仏様が本当に救済の対象にしておられる人々を「正機」

と呼んでおります。お医者さんは身体の悪い人たちを治療してくれます。肉体が病める人たちがお医者さんのお客様です。仏様が対象にしているのは、煩悩に苦しんでいる人々です。煩悩(欲望)に負けて、人間としてやってはならないことをやってしま

う、心ではいけないことだとわかっていてもついやってしまう。自分はどうしようもない悪人だと自覚している人たちが、仏様の正しいお客様です。これを「悪人正機説」(歎異抄)といいます。仏様は、自分の力ではとても救われないこのような人々のため

に、南無阿弥陀仏という念仏を与えてくれました。念仏を称えればどのような悪人でも救わずにはおかないという誓いをたて、その誓いが実現するようにしてくれました。                                    

 
「起心立行」 仏さんは極楽浄土に住んでいる方なので毎日しあわせに暮らしているだろう、と昔の人たちは考えていました。自分も仏さんのように極楽の世界に住みたいと思っていたに違いありません。極楽の世界に行くためには仏さんのように覚(さと)りをひらかなくてはなりません。この覚りをひらこうと思うことを起心といいます。

覚りをひらくためには何かをしなければなりません。何かとは諸善万行です。いわゆる修行のことです。修行を始めることを「立行」といいます。修行といいましても簡単なことではありません。禅宗の修行から帰ってきたお坊さんの中には栄養失調になる方もいるそうです。厳しい精進料理に耐えなければならないからです。

比叡山の修行には千日回峰という行があります。約三年間もの間近辺の山々を毎日毎日休み無く駆けめぐるというものです。睡眠もほとんどとられないそうです。もし達成できなければ死ぬという覚悟でやるそうです。親鸞聖人も九歳から二十九歳までの二十年間比叡山で修行をしましたが、覚りは得られませんでした。ますます煩悩の炎は燃え盛ったということです。

私たち凡人には厳しい修行は無理なようです。親鸞聖人のような方にも無理だったのです。覚られなかったのですから。自分の力でいくら努力してもできないのだから、あとは仏さんにおまかせするしかないと親鸞聖人は考えました。仏さんにおまかせする時の言葉が南無阿弥陀仏です。

念仏は行です。誰にでもできる行です。諸善万行の功徳がすべて念仏の中に入っているのです。仏さんが、厳しい修行に耐えられない私たちの代わりに長い長い間修行をして、その成果を念仏の中に入れて下さったというのです。私たちはその念仏を称えるだけでいいのです。自分の力ではどうしようもない私たち凡人は、仏さんを信じて念仏を称えるしか、極楽に行き着く方法はありません。

私たちは生きている限り煩悩を消し去ることはできないようですが、仏さんを信じて念仏を称えることはできます。煩悩は持ったままなので極楽浄土にそのまま住むことはできないようですが、極楽浄土へと続く道を歩くことはできます。必ず救われていく道です。安心して生きていける道です。安心は心の平和です。たとえ貧しくても苦しくても、心に安心があれば幸せな生活といえるのではないでしょうか。
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「吉祥」   インドには吉祥草という植物があります。この草は瑞祥(おめでたいきざし)のある草として貴ばれていました。お釈迦様はこの草の上で往生されたと言われています。往生は證りの道を成就するという意味でもあります。 H21
「慶」の字は、あるものをすでに手に入れて慶(よろこ)ぶ時に使う言葉です。私たち煩悩多き人間でも、すでに仏さんの手の上に救われていると言われています。私たちはすでに救われているのです。もしそのことを信じられるのなら、慶ぶ心が生ずることになります。この心を慶喜心(きょうきしん)と呼びます。

 親鸞聖人は、私たち人間が簡単に物事を信ずることのできるような純粋さを持っていないことを知っていました。聖人自ら「虚仮不実のわが身にて、清浄の心もさらになし」と嘆いています。そのような私たち人間の心をあてにしてはいけないし、頼りにしてもいけない。煩悩だらけの心は無視して、仏さんの教えについて行こう、と聖人は考えました。

 なまじ理屈をふりまわしたり、講釈したり、知識だ科学だと騒がないで、すなおに仏さんの教えについて行こうとした親鸞聖人は、「口称念仏」が大切だと言います。心では素直に念仏をすることができないのだから、口に出してナマンダブツと称えればそれでよいのだ、と言います。

「唯称念仏」という言葉も使っています。なにも考えずに唯(ただ)称えればそれでよいのだ、と教えています。不思議なことです。形だけでよいと言うのです。私たちが中身についてとやかく考える必要はないということです。

 金子大榮という仏教学者が「手を合わせるかたちが おがむ心を生みだした」と言っています。形が心を生みだすこともあるようです。仏さんが心を入れてくれたのかもしれません。

 念仏は、私たちが苦しい時、困った時、恐い時、なにかをお願いする時などに称えたりしますが、私たちが願った方向で物事が進むことはあまりないようです。昔の人たちは、うれしい時、楽しい時、感動した時にも念仏を称えていました。なぜでしょうか。

 苦しくても、困っていても、恐くても、仏さんにおまかせしてあるから安心だ、自分の思いどおりにならなくてもいいじゃないか、仏さんの大きい心の流れにまかせよう、と思うところに念仏があるし念仏の心があるようです。問題が無くなるわけではないのですが、悩むことは無くなっていくようです。

苦も困難も恐怖も、念仏がやわらげてくれます。うれしい時、楽しい時、仏さんも一緒に喜んでくれて、うれしさも楽しさも大きくなります。よい時も悪い時も仏さんは応援してくれます。私たちが苦しめば仏さんも苦しみ、私たちが喜べば仏さんもうれしいからです。

 仏さんはすでに私たちの救いを準備していて、私たちが「お願いします」と言うのを待っているというのです。「お願いします」は「南無」という言葉です。南無阿弥陀仏と称えるだけでよいと仏さんは教えています。信ずる心は後からついて来るのです。信ずる心には慶びがともなっているので慶喜心とも呼ばれています。
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「久遠」は遠い昔という意味であり無限の昔という意味です。「實成」は阿弥陀さんが覚(さと)りを開いて仏さんに成ったという意味です。仏さんはこの世ができた時にすでにこの世に居たということです。無限の昔から仏さんが存在していたということは、仏さんは宇宙とか大自然とか真理とか呼ばれるものと同じような存在と考えられます。人間の頭で考える数字や理論では計ることができない方が仏さんであるということです。

 東日本大震災は、大自然を前にしては科学の力は本当に軟弱で微力なものであることを教えてくれました。大津波の高さはせいぜい七メートルで、それ以上になることは考えられないと科学者たちは想定していたそうですが、現実には津波は十四メートルを超えたそうです。国民の税金を使って研究している学者達が、今回の津波の大きさは考えられないことで想定外であると平気で口々に言います。

考えが及ばないですみませんでしたと謝る学者は誰もいません。反省の心がまったく無いようです。天才のように思われる科学者達もその程度なのか、とがっかりさせられました。原子炉のことでも同じでした。

 そもそも科学が万能であると考えること自体が問題です。科学は人間の能力の限界までの世界のことです。それ以外の世界は人間の能力の及ばない世界であり、無限の世界です。人間の理解できる範囲は本当に狭い世界のことだけです。科学はこの世の真理のほんの一部を覗(のぞ)き見ただけです。人間は自然を支配する王者である、と人間は有頂天になっているように私には思われます。

 無限の仏さんが有限の私たちに教えてくれることは、反省と感謝です。科学の力を利用して武器を作って戦争をしたり、人間の住む世界を広げるために他の生物の世界を狭めて絶滅に追い込んだり、人間は自分勝手なことをやり放題やりながら、それでよいのだろうかという反省をしていないように思われるのです。

反省が無ければ、その結果が良くても悪くても自分で責任を負わなければならなくなります。因果応報です。自分でまいた種は自分で収穫しなければなりません。

 そうなのですが、私たち人間はそんなに賢く偉い存在ではありません。むしろおろかな馬鹿な存在なのではないでしょうか。それに、私たちは弱い人間でもあります。自分の行動に責任をとれるほどの力もありません。仏さんは私たちに、自分がどのような人間であるかを自覚し、常に反省を忘れずに生きることを教えています。

自分を反省するような姿勢の人間を仏さんは救済しようとしています。 反省するところには感謝の気持ちが生まれます。感謝の気持ちは喜びでもあります。反省の無いところには進歩がありません。他を非難し、怒り、うらみ、ねたむ心が生ずるだけです。良いことはなにもありません。

念仏は、無力でおろかな自分のことを反省し、足りないところを仏さんにおまかせしようという心の表現でもあります。また、私たち凡夫を引き受けましょうという仏さんへの感謝の気持ちも込められています。念仏の心が、私たち人間にとって必要不可欠なものであることを、法名「久遠院釋實成」を見た時に思い出していただければ、大変ありがたいことと存じます。
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「宮商」  音の種類です。親鸞聖人の作られた浄土和讃という文に「清風宝樹を吹くときは、五つの音声いだしつつ、宮商和して自然なり」とあります。その極楽浄土では、清風が宝樹の間を吹くときに、五種類の音を出しながら吹き、宮の音と商の音が調和して自然そのものである、というのです。  「清」を見て下さい

俗世間に住んでいる私たちには想像さえつかないような世界のことのように思われますが、私たちの心が望んでいる世界でもあるのではないでしょうか。到達したくても到達できそうもない世界のことのようですが、私たちが行ってみたい住んでみたいと思うような世界でもあります。

山あり谷ありの人生では、心配や苦労は絶えることがありません。問題が一つ解決したと思ったらすぐに次の問題が待っているという状態では、休む暇もありません。いいかげんにしてくれ、やめてくれと言いたくもなります。それでも一生懸命頑張らなければいけない、怠けてはいられないと私たちは思っています。すべての問題を解決しなければ理想の世界などになるはずがないと思っているからです。

子供の頃、私たちは川で泳いで遊んだものでした。すこし大きな川になると、川を横切って渡るという冒険を楽しんだものでした。大威徳山の裏の玉川は広く、横切るのは至難(しなん)の業(わざ)でした。それでも年長者のまねをして挑戦し続けたものでした。ある時、私は川を横切っている最中に疲れてしまい泳げなくなり、ただ黙って浮いていることしかできなくなったのです。黙って流れに身をまかせて浮いているとそのうち自然に向こう岸に着いていたのでした。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」とはこのことではないでしょうか。

流れに逆らってばかりいては苦労するばかりです。流れに乗ること、波にのることも大切です。人生の苦労は無くなることはありません。嫌(いや)だ嫌だと避けて逃げ回ってばかりでは苦しいだけです。

頑張らなければと無理をし続けることも苦しみです。たまには人生の流れに押し流されてみてもよいのではないでしょうか。結果をあせることはありません。自然にまかせることです。

大自然の法則に従っている流れを変えることはできません。逆らうことは苦しむことです。やるだけやったら後はまかせるしかありません。諦(あきら)めることも智慧です。生きる方法です。

すべてをおまかせしますという心が南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)です。念仏を称えて生きていく道を念仏の道と言います。この道は仏さんのすすめる道です。必ず極楽浄土へと続く道です。道は極楽浄土の一部でもあります。

手の届かないところにあると思っていた浄土は、意外に身近にあるのかもしれません。念仏の道を歩いていくうちに浄土を感ずることがあるかもしれません。仏さんは、生きている人間にこの浄土を味わわせようとしているのですから。
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「救済」  仏さんの救済というのは、私たちがどんな生活をしていても、迷いの世界で溺れないようにしてくれることではないでしょうか。幸せの絶頂にある時には転げ落ちないように自重をうながし、苦しみのどん底にある時には、もう落ちることはないから上を見上げて希望を見つめるように励ましてくれることではないでしょうか。

反省と感謝の心が救いを可能にしてくれることでしょう。反省と感謝の心を持って念仏を称えると、必ず極楽浄土の境地を味わい、ついには仏になることができる、という地位を不退の位と言います。

不退の位に安住することが救いとなるのでしょう。
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「教行信證」  浄土真宗の開祖である親鸞は、仏さんの教えを「教行信證」という本にまとめて書きました。

この世に生きることは大変難儀なことであり、悩み苦しみが多いものですが、少しでも苦を少なくし楽を多くしようとするならば、仏さんの教えに従って、仏さんの教えるような行動(修行)をしていると必ずその成果(證)を得られますよ、という内容の本です。

それまでの僧侶達の教えと親鸞の教えの異なるところは、親鸞が教行證の行の中に信が無ければならないと教えたところでした。どんな行動も信心がなければ効果が無いと判断したことでした。心のこもっていない行動に意味を見出すことができなかったのです。
ただ私たち人間の心は煩悩で満ち満ちており、純粋で清らかな部分などなかなか探そうとしても見つからないような心の状態です。親鸞は自分自身のことを極重悪人とか罪悪深重であると言っています。

ましてや純粋な信心など自分の心の中に起こるわけがないと思っていました。そのままでは地獄行きは決定していると考えました。

そのような時、親鸞は念仏の教えに出会いました。念仏は、自分の力ではどうにもならないような無力で煩悩に汚れきっているような人間のために仏さんが準備してくれたものである、ただ念仏を称えるだけで救われる、という教えでした。

純粋に信じる心さえ念仏の中に入っている、という教えです。ほっておいたらそのまま絶命してしまうような病人に、お医者さんが薬を飲ませたり、注射をしたりするようなものです。薬の中に私たちを救ってくれるようなものを入れて下さっているということでしょう。

三次元のこの世では、念仏の中に信心がこめられているなどとは考えにくいのですが、四次元、五次元の世界ではあるのかもしれません。仏さんは無限の間修行をして、修行は完了したと言います。

この世では今現在も無限に含まれますので修行は今も続いていることになりますが、あの世では完了しているのです。修行は菩薩行であり、苦しんでいる人達を救う行です。この修行によって得られるものは功徳です。功徳は成果です。救済完了という成果です。
あの世ではすでに私たちは救われているようです。この世では念仏に身を任せて心を安らかにしましょう、と親鸞は呼びかけているのではないでしょうか。

念仏が本当に私たちを救ってくれるのかどうか、救われるということはどうなることなのか、よくわからないことだらけですが、高僧達が昔からすすめる仏の教えである念仏は、理論を超えたところで実際に口に称えてみて、日常生活に取り入れられて初めてその効果が理解されるものではないでしょうか。

行動するその行の中にすべてがあるのではないでしょうか。
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 「恭敬」の心は、自分を低くし他を尊重し、つつしみうやまう心で、他力信仰の相であるといわれます。親鸞聖人の書かれた高僧和讃には、「不退のくらいすみやかに、えんとおもわんひとはみな、恭敬の心に執持して、彌陀の名号称すべし」とあります。必ず仏になることに定まった地位につこうとするなら、恭敬の心をもって念仏を称えなさい、と教えています。
 
「恭」は、ていねいで慎み深くすることをいいます。私たちが自分の心を観察した時に、自分の心には煩悩が渦巻いていることを正直に見ることのできる人は、自然に慎み深くなります。謙虚になります。親鸞聖人でさえ、著書「教行信證」の中で自分のことを「愚禿釋親鸞」と呼んでいます。

愚禿は、おろかなという意味です。どんな人でも心の中には欲望があります。それは自然なことですが、自然のあらゆるものと調和して平和に生きていこうとするなら、真実の自分を見つめ、欲望は常に反省され、度を越すことのないように用心しなければなりません。そうしなければ、本当の自分の幸せを見つけることはできません。念仏を称えるということは、このことを思い出すことです。
 
「敬」は、身を引き締めてうやうやしくし、他をうやまうことです。他とは、自分を含めた大自然のことです。真理の世界のことです。仏のことです。「恭」と「敬」は表裏一体のことばです。
 「恭敬」の心を持った人のことを「沙門」といいます。
親鸞聖人が書かれた本に唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)という本があります。この本の中に「 慶はよろこぶという、信心をえてのちによろこぶなり、喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいう、うべきことをえてのちに、みにもこころにもよろこぶこころなり 」と説明されています。           

生きているだけで大変なこの世の苦しみ、老いる苦しみ、病気になる苦しみ、死ななければならないという苦しみ、どの苦しみも逃れられないものであり、どうしようもないものです。このたくさんの苦しみに囲まれている私たちは、決して楽しむということはできないのか、というとそうでもありません。

苦しみの合間に楽しみがちらほらとのぞくこともあります。今日は楽しい一日だった、というような日もあります。苦痛や苦労があっても、楽なことや楽しいことが同時に起こることもあります。生きている限りは、四苦八苦からのがれられません。しかし、苦があっても苦を苦とせずに楽しいことを考えたり、楽しいことをしたりすることが可能な時もあります。

それは、私たちが苦と楽の両方に囲まれているからではないでしょうか。苦楽が物事の両側面ということかもしれません。苦があれば楽があり、楽があれば苦がある、という関係かもしれません。
 
視点を変えることによって世の中が違って見えることもあります。自在に視点を変えられるような眼を仏眼と言います。この仏眼を持った時に、「慶喜」の心を持ったと言えるのかもしれません。

「慶喜心」 私たちの浄土真宗で一番多く読まれているお経は、親鸞聖人が書かれた「正信偈」というお経です。お葬式でも読まれるお経です。このお経の中に「獲信見敬大慶喜」「能発一念喜愛心」などと出てきます。

 最近テレビをにぎわしているニュースの中に、子供が親を殺(あや)めたとか、親が子供を虐待したとかいうニュースが多く見られます。この世の中を作っている最も大事な部分である家庭の状況がこのようであっては、この世も終わりではないかと思わせられてしまいます。

このような状況は、私たちの心の中に潜んでいる利己的な心、自分さえ良ければそれでよいという欲望から生じているようです。本人は自覚していないのだと思いますが、自分が幸福であれば周りの人たちも幸福になるはずだ、という自分中心の世界観を持っているようです。
 
仏さんの教えはこのような考え方とは反対の教えです。慈悲心の教えです。慈悲心は、苦しんでいる人を見て、苦しみを取り除いてあげたい、楽を与えてあげたいという心です。慈父とか悲母とか言われますが、慈悲心は良き父や母の心そのもののようです。

慈悲心を持って育てられた子供が親に手を挙げるようなことをするでしょうか。慈悲心を持った親が子供を虐待するでしょうか。そんなことはないはずです。
 
仏さんが、この世で苦しんでいる私たちの苦しみがやわらぐのを喜んでくれるように、世の父や母達は、苦しんでいる子供達をなんとかして救ってあげたいと思う心を持っていることは当然のことであるはずです。

子供を愛し、子供の幸福を喜ぶ心が起こる時、父母自身も幸福になるのではないでしょうか。自分以外の人の幸福を喜ぶ心は仏さんの心で慈悲心であり「大慶喜心」とも呼ばれています。
 
まもなくお盆ですが、お盆の心は、無縁仏を供養する心です。自分のことはさておき誰にも供養してもらえない無縁仏を供養する心が大事であると教えてくれる行事がお盆です。
 本当の自分の幸福は、周囲の人々の幸福に心を配ることなしにはありえないのでしょう。ましてや自分の家族のことであればなおさら思いやる心が求められるのではないでしょうか。
























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本明寺の宗教は「真宗」(一向宗)といいまして、親鸞聖人が開いた宗です。大切にしているお経は、大無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の三つです。観経の中に、「仏の身体は金色に輝いている」と説かれています。それで仏の説かれる教えを「金口(きんく)」ともいいます。この仏の金色の身体から十二の光明が放たれています。

光明の一つ一つが、私たち凡夫の貪欲(どんよく)の汚れをきれいにしてくれるので、「清浄(しょうじょう)光」と呼ばれています。清浄光は仏の優しい心(慈悲心)の光であり、私たちを救おうとする働きのある功徳の光です。

「金口」は、仏の説く教えのことです。仏の姿は金色です。その金色の口から説かれる教えだから、このように表現しています。また、教えそのものがありがたく、黄金のように貴重で美しく輝いていることを表しています。

 仏の教えが美しいのは、煩悩や欲望に汚れていないからです。私たち人間は、口ではどんな立派なことを言っても、心の中では煩悩がうごめいています。仏の心は、苦悩する人間を救いたいという純粋な心です。純粋だから慈悲と言われます。

 仏のような大慈悲を持つことはできませんが、仏心と言われる優しい心を持つことは私たちにもできます。煩悩は持っていても、仏の心も持つことはできます。仏の心を持っていれば、この世を離れるとき、煩悩からも離れ、純粋な仏になることができます。

 
常なることの何一つ無いこの世では、苦と楽は紙一重というよりはむしろ表裏一体の同体として私達の人生を左右します。今日は明るいと思っていても明日は暗く、暗いと思っていたらすぐに明るくなるような日々です。一瞬一瞬変化し続ける毎日です。無常の世の中であり、無情でもあり非情でもあります。
 
川の波にもてあそばれる木の葉のように、何時どうなるかわからないこの世の中でもだえ苦しんでいる私達人間をどうにか救ってやりたいと願って、人間の姿を借りて現れたのが仏さんです。二千五百年も昔から、仏さんはこの世が無常であることを教えています。無常の世では頼りになるものは何一つありません。頼りになるのはこの世のものではない仏さんの心です。慈悲心です。ただ苦しみ悩みから救ってあげたい、楽を与えてあげたいという温かい心です。
四苦八苦といいますが、人間の生老病死苦のことです。

心の底から救いを求めている人の心は、人間の苦しみを知っている心です。人間の苦しみを知っている人は、他人の苦しみがわかります。他人の苦しみに同感することができますし、その苦しみを取り除いてあげたいという心が生じます。その心

が慈悲心です。慈悲心は仏の心です。 念仏を称えて救われるということは、仏と同じ心を持つということです

「恭」を参照

「愚禿」  親鸞聖人はこの大蔵経を九歳から二十九歳の間に、何回も何回も読みました。もちろん厳しい修行もしましたが、どうしても悟りをひらくことができませんでした。煩悩の炎はますます盛んに燃え盛るばかりだったといいます。欲望の炎です。どうしようもありませんでした。それで聖人は自分に愚禿釋親鸞という名を付けました。愚はおろかなと言う意味です。禿は頭髪が無いという意味です。僧侶のように頭は剃()っているが、おろかな人間であり、僧にあらず俗にあらず、という謙遜の言葉です。  

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私たちの日常の行為行動の行であり、修行の行でもあります。行は私たちが幸福になっていくための行いであるし、そうでなければなりません。修行の行ですが、私たち迷いの多い人間には厳しい修行は耐え難く、効果のあるものとはなりません。そこで

仏様は慈悲心をもって、あらゆる修行の成果(功徳)が込められている行を私たちに与えてくれました。それが 「南無阿弥陀仏」 という行です。南無阿弥陀仏 と口に称えることを念仏といいますが、この念仏が行となるのです。人間が自分で修める行

(自力)には限界があり、人によって成果は異なります。しかし、念仏行は仏様が修めた行ですのでその成果は無限です。私たちの浄土真宗を開いた親鸞聖人が書いた「教行信証」 の行巻には、「その行は即ち是諸の善法を摂し、諸の徳本を具して極速

円満す。真如一実の功徳法海なり、かるが故に大行と名くる」 とあります。「南無阿弥陀仏」 と称えることが大行であり真実の行であると書いています。私たちは念仏を称えることによって救われていくのです。 どのような厳しい修行にも耐えられるような

りっぱな強い人間は、自分の力で仏になっていくことができます。しかし、、私たち凡夫はそうはいきません。凡夫である自分のことを常々反省し、仏様の力に頼って生きていかなければなりません。 

 
「無」を参照
仏になるためには、功徳(よい行い)を積まなければなりませんが、煩悩多き私たち(悪人)には難しいことです。そこで仏様が私たちの代わりに功徳(行)をつんで、念仏の中にその功徳をこめられました。私たちはその念仏(行)を称えること(他力)により、必ず仏となって救われていくのです。 

真宗の開祖である親鸞聖人が「真実の教」と讃えている「大無量寿経」に、「自然の徳風起こりて、寒からず暑からず、温涼柔軟にして遅からず疾からず、無量微妙の法音を発す。また風、華を吹き散らして遍く仏土に満つ。」とあります。

理想の国とされる浄土には、徳風が吹いているといいます。徳は功徳のことであり、良い結果を導くための原因となるものです。この功徳が浄土には満ちているので、浄土は究極の理想の国となっているといいます。

日常の良い行いが私たちを幸せへと導くことを教えているのですが、私たちの現実の世界は、邪念・妄念・妄想・怒り・ねたみ・そねみなどの煩悩に満ちあふれています。

人間は煩悩の闇に苦しめられ迷いの世界をさまよっています。良い行いが簡単にできるような世の中ではありません。 自分の力ではどうしようもない私たちを憐れんだ仏様は、最高最良の功徳を私たちに与えてくださっております。

それが念仏です。「南無阿弥陀仏」と称えるだけでいいのです。それが功徳になるというのです。

功徳は慈悲心によって生み出されます
 
仏はひろ(弘)く一切の衆生を救おうと願って四十八の願いをたて、その願いが実現しなければ自分も仏にはならないと誓いました。その誓いを「弘誓」といいます。親鸞聖人の書かれた「高僧和讃」に「生死の苦海ほとりなし、ひさしくしずめる我等をば、

弥陀弘誓の船のみぞ、のせてかならずわたしける」とあります。仏の願いの込められた弘誓の船だけが、私たちをこの世の苦しみから救ってくれるといっております。この船は人々を差別せず誰でも乗せてくれるので「大乗」ともいわれます。念仏によって救おうという願いなので「念仏船」ともいわれます。

 
親鸞聖人が書かれた高僧和讃にこのような文があります。
 
  生死(しょうじ)の苦海(くかい) ほとりなし
   ----------------生まれてから死ぬまでの苦しみだらけのこの世の中は、果てしがない 世界である
  久(ひさ)しく沈める 我らをば
    ---------------苦労だらけの海のようなこの世で長い間おぼれている私たちを
  弥陀弘誓(みだぐぜい)の 船のみぞ
   ----------------仏さんが、私たち誰をでも広く救ってあげようと、願って作られた大きな船のような誓いだけが
  乗せて必ず 渡しける
   ----------------乗せて、必ず救済してくださるのです。
 
 欠けたところのない満月のように、完全なものであり不自然なところなど何も無く、そのままで何も問題など無い自然の世界に、ある時突然にゆがみが生じてきました。完全な世界にゆがみが生ずると、完全なるものはそのゆがみをどうにかして元の完全な状態に戻そうとします。

自然界のゆがみというのは人間の心のことです。特に欲望のことです。欲望は欲しい欲しいという心であり、あれも望むしこれも望むという限りなく果てしの無い心です。この欲望をもった者どうしは当然にぶつかりあいます。さらにこの欲望は自然を必要以上に破壊し尽くします。

他の人と喧嘩したり自然を破壊する行為は、ついには私たち自身が困る状態を引き寄せることとなってしまいます。それで、欲望は私たちの心を煩わせ悩ませるので煩悩と呼ばれています。
 
自然界の完全なるものは、ゆがみを元の状態に戻そうという願いを持ちました。自然界のものが願いを実現するため人間界に姿を現す時に、「仏(仏陀)」という名前を持ちました。仏(ぶっだ)はインドの言葉です。漢字で表すと「如来」となります。「如」は「真理」という意味です。「如来」は真理の世界から来た者という意味になります。

 仏はこの願いを成就させるために、無限の間、無量の修行をされ、我々のために徳を積まれ、願を成就なされました。願いは必ず達成されるということです。その願と行と徳のすべてが念仏、すなわち「南無阿弥陀仏」の六字に込められているのです。念仏を称えた者を必ず救い取って決して捨てることはない、と仏様は誓いました.

 私たちの知らないうちに、仏さんはこんなことをしてくれていたのです。私たちはすでに、仏さんの救いの手の上にいるということです。私たちが気付いていないだけなのです。私たちは、ただ念仏を称えるだけでよいと言うのです。仏さんを信じて念仏を称えるのですが、その信ずる心さえ念仏の中に入っていると言います。

 念仏を称えて生きるという姿勢の中に、自然に心の安らぎが浮かび上がってくるということではないでしょうか。
 H25
 
「和」を参照して下さい
観無量寿経というお経の中に「敬上慈下(きょうじょうじげ)」という言葉があります。仏さんを敬(うやま)い、凡夫衆生を慈(いつく)しむという意味です。これから救われて仏さんに成っていく者は、阿弥陀仏を敬うだけでなく、悩み苦しんでいる人たちを憐(あわ)れみ慈しみ、念仏の道に導き救おうとするものである、と教えています。 H19
念仏を称えて往生が決定するのは、いったん浄土へ往き仏となり、すぐにこの世に戻ってきて、人間の姿をした煩悩を持った仏として生きることになるからです。煩悩を背負ったまま生きている人間の姿をした仏は、煩悩が無くなりあの世へ往けば、仏になることに間違いがなく決定しているからです。  
「顕彰」  親鸞聖人は、お経の表している意味を説明する時に「顕彰隠密」という言葉を使います。「顕彰」は、明らかにあらわすという意味です。「顕」は、お経の表面に述べられている内容をあらわすという意味です。「彰」は、お経の裏面に述べられている内容をあきらかにするという意味です。
 
お経の表面に説かれていることは、私たち人間はりっぱな生活をしなければならないということです。誰に対しても恥ずかしくない、非のない、おちどのない生活であり人間でなければ救われないと説かれています。そのために私たちは強く、賢く、豊かでなければなりません。ところが、強く賢く豊かな人間はそんなに多いものではありません。貴族か武士か、豪商か豪農かでなければこのような条件を満たすことはできません。

また、貴族や武士が必ずしもりっぱであるとも限りません。お経の表面に説かれているような理想的な人間などそんなに多くいるわけがありません。本来理想的でない人間を理想に近づけるための方便なのです。方便は方法です。
 
お経の裏面に説かれていることは、私たち人間は愚かなものである、ということです。私たちが素直に正直に自分自身を振り返ってみると、とても自慢できないような自分に気がつきます。自分の心をそのまま外に出すことなど考えられません。恥をかきます。非難をあびます。それが本当の私たちの姿です。

仏さんの本当のお客さんになれるのは、弱く愚かで貧しくて、良いことをしようとしても力が足りず、ついには悪いことさえしてしまうような悩み苦しむ人たちである、ということです。私たちのほとんどはこのような人間ではないでしょうか。仏さんが本当に救いたいと思っている人のことを「正機」と言います。

私たちが自分の力でどうにかできるようなそんな簡単な単純な自分ではありません。自分ではどうにもならない自分です。仏さんはこのことを十分に知っています。知っているからこそ、仏さんは私たちにできないことを要求したり望んだりしません。仏さんは仏さんの力で私たちを救おうとしています。私たちに教えていることはただ一つ、念仏を称えることです。それだけです。それしかありません。
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仏様は、煩悩で濁った眼のために真実を見ることができない私たちに、真実を見ることのできる清淨な眼すなわち「法眼」をもって事物を見るように教えております。「法」は水が高所から低所へ自然に流れる法則のことです。大自然の法則のことをいいま

す。この法則を見る眼を法眼というのですが、私たち凡夫にはなかなか法眼を持つことが難しいことを知った仏様は、どんなに煩悩の闇に遮られている者でも救われることができるようにと、無限の功徳が込められた「南無阿弥陀仏」の念仏を与えてくれま

した。ただ念仏を称えるだけでよいのです。たとえ真実が見えなくてもよいのです。安心して任せなさいといっております。  念仏を称えなければ救われない私たちですが、それでも時として真実が見えることもあります。それは、自分は深い煩悩をもって

おり、けっして完全な善人ではないという反省の心がおこった時です。私たちは眼を背けることなく安心して自分を省みることができるのです。どんなに悪い人間でも救って下さるというのですから、自分をかばったり弁解したりす

る必要がありません。正直に自分を見つめることができます。そこには仏様に感謝する心もおこってきます。

 
 一度浄土へ往生したものが浄土からこの娑婆へ返って来ることを「還来穢国」と言います。親鸞聖人の「浄土和讃」に「安楽無量の大菩薩、一生補処にいたるなり、普賢の徳に帰してこそ、穢国にかならず化するなれ」とあり、往生したものは必ずこの世に還って来て、衆生を仏道に向かわせる活躍をすると言っています。

「往」を見てください

 












「現生十種益」  あの世である極楽がどんなにすばらしくても、私たちが今住んでいるこの世がつまらなければあまりおもしろくありません。この世も良いところがあってもよさそうなものです。

親鸞聖人の話によると、念仏を称えると救われると信じて念仏を称えると、この世で十種類の御利益が得られるそうです。これを現生十種益(ゲンショウジッシュノヤク)と言います。親鸞聖人の聖典である教行信証にはこのことが書かれています。

この世の苦労の大部分は自分の欲望から生じています。欲望は尽きることがないので、ついつい必要以上のものを求めて手に入れようとしてしまいます。手に入らなければ不満が出てきます。

争いも起こります。そこには、うらみ、そねみ、ねたみ、いかり、などが生じてきます。そしてついつい悪いこともしてしまいます。どんなに悪いことはしないようにしていても、努力のかいもなく悪に陥(オチイ)ることはあるものです。

人間誰にでも、他人には話せないような悪いことや恥ずかしいことはあるのではないでしょうか。反省しても後悔してもどうにもなりません。このような罪はどんどん積み重なっていきます。同時に心の苦しみも増大していくのではないでしょうか。
 
お金のない苦しみ、空腹の苦しみ、人間関係の苦しみ、住宅の悩み、自分の顔やスタイルの悩み、家族の悩み、などなど人間の苦しみや悩みは尽きることはありません。仏さんはこのことを四苦八苦と言います。この世は苦悩に満ちている言います。

苦悩を生み出しているのは私たちの心にある欲望であると言います。求める心です。必要以上に求めるところに無理が生じます。もちろん食欲という欲望があるから、私たちは健康な身体を維持できるのですが、必要以上に食べ過ぎると糖尿病、痛風、高脂血症、高血圧、などの万病を引きおこす原因となってしまいます。
 
仏さんはこのように欲望の虜(トリコ)になっている人間を見て、なんとか反省させてあげたいと思いました。反省のきっかけとなる言葉としてナマンダブという言葉を教えてくれました。

念仏です。念仏を称えながら、求め続ける心を静めて、頑張っても努力してもどうにもならないことは仏さんにお任せしなさい、と教えています。このように念仏を称えると、今までとは異なる世界が広がってくると言います。

今まで悪い悪いと思っていた世界が、善い世界として捉(トラ)えられてくると言います。悪が転じて善となることは、この世における念仏による十種類の御利益の一つです。転悪成善の益(テンアクジョウゼン)と呼ばれています。念仏があれば、この世も捨てたものではなくなります。     戻る
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現  「現生利益」

親鸞聖人が書かれた「現生利益和讃」という詩の中に、次のようにあります。
 
  南無阿弥陀仏をとなうれば    ナムアミダブツと称えると
 
  十方無量の諸仏は       東西南北、北東、北西、南東、南西、上下の諸仏は
 
  百重千重囲(い)(によう)して       百重にも千重にも取り囲んで
 
  よろこびまもりたまうなり      喜んで私たちを守ってくれます
 
 現在私たちが生きているこの世において、私たちは仏さんの御利益にあずかっている、という詩です。あの世もさることながら、この世での救いが大事ということでしょう。
 また、親鸞聖人の書かれた「教行信証」には、次のようにあります。
 
   無碍広大の浄信を以て   純粋に信ずる心を、どんな衆生にも与えようと
 
   諸有海に廻施(えせ)      仏さんは、あらゆる迷いの世界に信心をとどけた
 
   是(こ)れ利他真実の      これを、私たち衆生の利益となる本当の
 
   信心と名づく        信心と呼びます 
 
 信心は仏さんの心であり、仏さんの心が私たちの心になるということです。本来の私たちの心は、汚れきった欲望だらけの心なのかもしれません。私たちの心は、素直に仏さんを信ずる心を持てないほど汚れている、と親鸞聖人は教えています。
 親鸞聖人は「愚(ぐ)禿(とく)悲(ひ)嘆(たん)述(じゆつ)懐(かい)」という詩で、次のように言っています。
 
   浄土真宗に帰すれども    念仏を称えて救われようとはするのだが
 
   真実の心はありがたし    仏さんの心はありがたいものだ
 
   虚仮不実のわが身にて   私自身は、嘘と偽(いつわ)りだらけで真実などどこにもない身
 
   清浄の心もさらになし     仏さんの慈悲を喜ぶ心も出てこないのだから
 
 親鸞聖人は、仏さんの救いを喜ぶ心さえ仏さんからいただくのだと言っているようです。自分自身はどこまでも救いようのない悪人だけれども、それでも仏さんは救ってくれるのだ、と教えています。この世において、今救ってくれるということです。今喜ぶ心をいただいているということではないでしょうか。今ここで、目覚めて、恵みを受けている自分に気づくことが、仏さんの救いではないでしょうか。 
 
 
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 化
「化生」

浄土真宗の教えでは、この世を去ってあの世に生まれる時、自分の力でどうこうするのではなく、仏さんに導かれて、仏さんの力であの世に生まれるのですから、あの世は極楽に違いありません。

極楽に生まれるのにもいろんな種類の生まれ方があるそうです。自分の力で極楽に行った人は、最高の生まれ方をすることはできません。仏さんにおまかせできない人は、極楽に生まれたとしても、極楽の片隅に生まれたりするそうです。また、自分が極楽に生まれたことに何百年もの間気が付かないでいたりするそうです。
 
仏さんのすすめる念仏を称えて救われて行く私たちは、仏さんの力で救われるのですから、仏さんと同じ生まれ方をするそうです。親鸞聖人は「和讃」という詩の中でつぎのように教えています。
 
  如来淨華の聖衆は 
    正覚のはなより化生して
    衆生の願楽ことごとく
    すみやかにとく満足す
 
 仏さんの教えに従って往生する人は、正しい覚りの華である蓮華の上に生まれると教えています。正覚は仏さんの覚りです。
 
皆さんのお家の仏壇の仏さんは蓮華の花の上に立っているはずです。仏さんは蓮華の花から極楽浄土に生まれ出たことを表しています。蓮華はどこから出てきて咲いているでしょうか。美しいきれいな雲の上に咲いているのではありません。

泥の中に根を張って、泥の中から咲き出しているでしょう。美しい覚りの華は、苦労や悩みやドロドロした欲望の満ちたこの世に根っこを張って、この世を土台としてあの世に咲き出ています。

この世の苦が多ければ多いほど、仏さんは大きい美しい蓮華を準備してくれます。苦を転じて蓮華を育てる養分にしてくれます。苦が多い人、弱い人をこそ仏さんは正しく観察をしていてくれます。見逃すことなく必ず救い取ってくれます。
 
泥が深ければ深いほど、その中に立派に大きく育つ蓮華の種が育まれているはずです。その種を大事に守り育てていくことが、仏さんのすすめる念仏の道ではないでしょうか。

私たちの欲望は悪いだけではありません。覚りの元ともなっています。親鸞は「煩悩即菩提」と言っています。欲望も反省して見つめていけば覚りともなると言っています。
 
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智恵光と言い、煩悩に覆われて悩み苦しむ我々衆生の暗雲を打ち破って、嘘偽りのない真実の世界を照らし出し、迷いのない道を照らしてくれる仏の心であり、慈悲光とも言う。

太陽の光が暗闇を照らして明るくしてくれるように、煩悩の闇の中にさしこんできて、私たちを救おうとしてくださる仏様の慈悲の「光」を不可思議光と言ったり知恵光と言ったりします。それで仏様のことを「南無不可思議光如来」「帰命尽十方無碍光如来」などとも言うのです。

 「光瑞」 大無量壽経に「如来の光瑞」とあり、これについて親鸞聖人は浄土和讃で「如来の光瑞希有にして・・・」と、その尊容の説明をしています。光瑞は奇瑞(不思議でめでたい)なる光明という意味です。光明は慈悲心の輝きです。

 「光雲」 親鸞聖人は、「讃阿弥陀仏偈和讃」の中で「光雲無碍如虚空」と言っています。仏の光明が何物にもさえぎられず、あまねく十方衆生を照らすことを、雲が空中にゆきわたっている様子にたとえたものです。

私たちは仏事にかならずロウソクを灯します。ロウソクは火を付けると光明を放ちます。この光明は慈悲光と呼ばれたり、「智慧の光」と呼ばれたりします。私たちを苦しめる原因となっている煩悩が作り出す闇を晴らしてくれる仏の慈悲や智慧は、光の明るさのような働きをしているからです。

「光妙」は「光が妙(たえ)である」という意味です。妙は不思議なまでにすぐれていることです。光は仏の智慧の姿です。智慧が悩みの闇を照らし苦を苦でなくしてくれます。仏の慈悲光は、物事の本当の姿を照らし出してくれます。交通事故にあって怪我をし、自分の不幸を嘆いている人には、今生きていることの幸せを教

えてくれます。苦悩のどん底にいる人には、もうこれ以上悪くはならないから上を見上げるように、そこには希望の光が輝いていることを教えてくれます。物事の本当の姿はあらゆる角度から見なければ見えてきません。煩悩に目をさえぎられている私たちには見えないものを仏は見せてくれます。

この世に還った仏さんは、太陽の光が世界を照らして明るくするように、私達の心を明るくしてくれます。暗い夜に、月の光が輝いて私達の歩く道を照らし出してくれるように、仏さんの光明は、私達の生きていくべき道を教えてくれます。

私達人間は、目は見えるけれども何も見ず、耳は聞こえるけれども何も聞かず、自分の都合の良いことだけに目を向け、耳を傾けるというようなことがあります。煩悩の望むところだけに従っているのです。まるで闇の中を手探りで歩いているようなものです。暗闇の中を歩いているとも気がつかず、危険な崖っぷちに近づいているかもしれません。

そのような闇を晴らして本当のこの世の姿、真実の世界を照らし出してくれるのが、仏さんの光明です。この光明は知恵の光明とも呼ばれています。親鸞聖人はこの光明を称えて「智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく 光暁(こうきょう)かむらぬものはなし 真實明に帰命せよ 」と浄土和讃に謳っています。

朝な夕なに仏壇に手を合わせて拝む時、仏さんの言葉を聞こうと耳を傾け、真実の世界を見ようと目を向けると、自然にその心に明るい世界が映し出されてくるのかもしれません。そのような生きる姿勢に光りが差し込むのかもしれません。
 
 
私達は朝になると太陽の光で目を覚まします。光があるので顔を洗ったり、ご飯を食べたりすることができます。箸をもって小さい米粒をつかむこともできます。家族の顔を見て「おはよう」と言うこともできます。そして学校や仕事場へと行くことができます。一日が光によって照らされ導かれている毎日です。
 
もし光が無ければ、私達は歩くこともできません。物をつかんだり拾ったりもできません。動きがとれなくなります。夜でさえ月の光があるのでどうにか動くことできるのに、もし月の光も無ければ真っ暗闇です。たまたま現代では電気の光に照らされ助けられていますが、停電になると大変です。大騒動です。
 
暗闇の中で無理に歩こうとすれば道に迷います。暗闇で道に迷うと、石につまずいたり木にぶつかったします。自分がどこにいるのかわからなくなり、家に帰る方向を見失ってしまいます。とんでもない山の中に入ってしまったり、危険な沢に落ちたりするかもしれません。
 
私達の身体は太陽の光によって導かれていますが、心はどうでしょうか。心だって何かに導かれなければ道に迷ってしまうことがあるのではないでしょうか。一日のうち何回も迷うこともあります。生きているうちに大きく迷うことも数知れません。私達弱い人間は、迷いながら迷いながら生きています。迷いの中でお互いに助け合いながら歩いています。迷った時は救いを求めて手を差し出せば誰かがつかんでくれます。手を差し出さないと誰も気が付いてくれないかもしれません。あきらめてはいけません。同じくさまよっている仲間もいるのですから。
 
開祖である親鸞聖人は、愚禿鈔という書物に「賢者の心は、内は賢にして外は愚なり」と書いています。この世の中に頼りになるものは何一つないように思われる時もあります。本当にひどい世の中だと見える時もあります。しかし、外見だけではなくようく目をこらして見てみると、私達を救おうとしている存在があると言います。

「浄土和讃」の中に、「光雲無碍如虚空」とあります。仏さんの光明が雲のように世界をおおい、さえぎるものもなくあまねく照らしている、という意味です。さらに「光沢かぶらぬものぞなき」ともあります。どんな人でも平等に光りを浴びている、ということです。

光とは仏さんの慈悲の心です。私たち凡夫が苦しんでいるのを見て、かわいそうだ、なんとかしてあげようと願う気持ちです。それが光のように私たちにそそがれているということです。
 
私たちの目には仏さんの光明が見えません。肉眼で見えるものでもないのですが、心の目にもよく見えてはいないようです。それは、煩悩が私たちの目に色眼鏡をかけているからです。生きているかぎり煩悩は無くならないので、色眼鏡をはずすことはできないようですが、それでも心の中に仏さんの光によって照らし出された世界が見えることがあるようです。

仏さんの世界を見るためには、自分が深い煩悩を持っていることを自覚し、注意深く心の眼を開くことが必要です。そして仏さんの教える法に耳を傾けることです。仏さんの教える法とは、昔からよく言われている言葉で、どこかで聞いたことがあると思われますが、諸行無常、諸法無我、一切皆苦などの言葉で表されるこの世の法則のことです。仏法とも言います。仏法に耳を傾けることを聞法と言います。

親鸞聖人の浄土和讃に次のようにあります。

  智慧の光明はかりなし   (仏さんの知恵は太陽の光のようなもので限りがない)

  有量の諸相ことごとく   (この世に存在しているあらゆるものはみな)

  光暁(こうきょう)かぶらぬものはなし  (仏さんの知恵の光を浴びないものはないのである)

  真実明に帰命せよ     (本当に私たちを救ってくれる仏さんの知恵の光にすべておまかせしましょう)

                   (おまかせします、という意味の言葉がナムアミダブツです)

 仏さんの智慧というのは、この世で迷い苦しんでいる者を救ってあげるための智慧です。仏さんの智慧に従うことはむずかしいことではありません。苦しんでいる人達をどうにかしてあげたいという仏さんと同じような温かい心を持とうとすればいいのです。

 私たちが自分の苦を取り除こうとするなら、その前にまず自分のまわりの人達の苦を悲しみ 、どうにかしてあげられないものかという温かい心を持とうとすることです。一見すると効果のない矛盾する方法のようですが、そこに仏さんの智慧があるのです。不思議な現象です。自分以外の人達のことを心の中に置くと、自分の苦が気にならなくなるようです。

 とは言っても、私たちの心は怒り、腹立ち、恨(うら)み、辛(つら)み、妬(ねた)み、嫉(そね)みなどの激しい煩悩に満ち満ちて汚れています。仏さんと同じような心を持つなんていうことはできそうもありません。仏さんの心は慈悲心です。温かい心です。私たちの心は欲望だらけです。仏心なんて入り込むところなんてないようです。

 仏さんは、それでいいのだ、と言います。仏さんと同じような心を持とうとしても、なかなか持ちきれない自分の心を反省しながら、どうにかして仏心を持とうとする姿勢が大切なのだ、と言います。仏さんの智慧に従って生きようとする姿勢が、私たちに楽をもたらしてくれるようです。
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「悟忍」は仏さんの智慧を悟(さと)るという意味です。仏さんの智慧は、私たちがこの世を生きていくための智慧です。苦しみや悩みをやわらげるための智慧です。

 「ピンチはチャンス」という考え方がありますが、私たちはピンチに陥(おちい)ると困ってしまいます。しかし、ピンチは別の面では絶好のチャンスであることもあります。お金がたくさん入った財布を落としてしまった時は、誰でも困ってしまいます。しばらくはお金が惜()しくて惜しくてたまりません。

自分の間抜けさに腹が立ちます。残念でしようがないのですが、もしかしたらなにかのチャンスであるかもしれません。お金を落とした人はこれに懲()りて反省をし、注意深い人間になろうとし、そのためになにかで成功するかもしれません。落とした金額どころではない大金を手にするかもしれません。

ものは考えようです。または、お金を拾った人が貧しい人で大変に助かったと感謝しているかもしれません。落とした人は、自分の知らないところで良いことをしているのかもしれません。損と得は裏表かもしれません。

有頂天になっている人やトップに立っている人、しあわせの絶頂にある人は大変です。落ちるしかないからです。いつ不幸が訪れるかと不安になります。それでも不安を感ずる人はまだ救われます。高いところから落ちないように努力したり注意したりして良い状態を少しでも長く保つことができるからです。相撲の朝青龍は昨日白鳳に負けて地獄を見たことでしょう。いつかは訪れることなのです。
苦の裏には楽があります。希望があります。楽の裏には苦があります。不安があります。この世に生を受けたものは、死をも受けなければなりません。若いものには老いが待っています。健康なものには病気が待っています。これが無常の世界です。この世が無常の世界であることを自覚することが、生きるための智慧です。仏さんの教える智慧です。
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五 
「五徳」

 「五徳」は五つの徳という意味です。「徳」は、良いことを生みだす元となるもののことであり、同時に良いことそのもののことです。五つの徳は、1 身の徳、2 心の徳、3 利他の徳、4 自利の徳、5 自利利他円満の徳のことです。
 
 1 身の徳     身体上に現れる徳です。たとえば「和(わ)顔(げん)愛(あい)語(ご)」です。笑顔や優しい
            言葉使いなどです。 
 2 心の徳     三昧の徳とも言われます。心が穏やかに平安になることです。心が          
            極楽にいるような状態です。
 3 利他の徳   衆生を導く徳です。学校の先生のように他の人たちを導くことがで          
            き、それが自分の喜びともなるという徳です。
 4 自利の徳   最も勝(すぐ)れた道の徳です。自分が生きていく道が見える徳です。人生          
            に迷わなくても生きていける道です。浄土真宗では念仏を称(とな)えて           
            救われて行く道です。
 5 自利利他円満の徳
            3と4の両方の徳が得られるという徳
 
 お釈迦様には、この「五徳」が備わっています。
 
 
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 「恒河沙數」(ごうがしゃしゅ)と言う言葉があります。「恒河」(ごうが)はインドのガンジス川のことです。「沙」は「砂」のことです。「數」は「数」です。「恒河沙數」の意味は、ガンジス川の砂の数という意味です。ガンジス川の砂の数は、数え切れないほど多いということで、無限という意味にもなります。人間の尺度、物差しでは測れないということです。数とか形では表すことは不可能であるということです。

南無阿弥陀仏の阿弥陀は、漢字で表すと無量寿と書きます。無量光とも書きます。無量は無限です。仏さんは時間的にも空間的にも無限の存在であるということです。無限の仏さんの住んでいる極楽も無限です。無限なので人間の物差しでは測れないということです。目や耳や鼻などの感覚で感ずることしかできません。お経の中では、極楽がどんなところか感覚で感ずるように描かれています。
    
 
お経の中には、極楽浄土がどのようなところか教えている経文があります。どのような経文かと言いますと、美しい花々が咲いていて、その花々はそれぞれが美しい光を放っているそうです。赤い色の花は赤い色の美しい光を、白い色の花は白い色の美しい光を、黄色い色の花は黄色い色の美しい光を放っているそうです。青や緑や無数の光にあふれているそうです。風はそよ風で気持ちが良く、微妙な良い香りを運んでいるそうです。

馥郁たる風ということでしょう。甘い香りが欲しいと思えば甘い香りが、さわやかな香りと思えばさわやかな香りが運ばれてくるそうです。大地や池には、無数の宝石が散らばっているそうです。金、銀、瑠璃、真珠、ダイヤ、アメジスト、サファイヤなどなど輝いているそうです。吹く風は良い香りばかりではなく、すてきな音をも運んでくれるそうです。音楽かもしれません。水の音かもしれません。小鳥のさえずりかもしれません。虫の声かもしれません。いろんな楽器の音もするそうです。


 この世の中には「覚り」(さとり)という言葉があります。「覚り」は、暗闇の中でローソクに火を灯した時にまわりにあるものが見えてくる状態のことです。いままで眠っていた人が目を覚まして、まわりのものをよく見るような状態です。暗闇は、欲望であり煩悩であり私たちの心そのものです。日中の明るい時でさえ、私たちの欲望は私たちの目の前を遮って目を見えなくしているそうです。

目の前に飛んできた小鳥がどんなに美しい色の光を放っていても、どんなにすてきな声でさえずっていても、お腹のすいた餓鬼にとっては、おいしそうな食べ物としか見えません。おいしい食べ物は、お腹に入らないかぎりは役に立ちません。飛んで逃げてしまえばそれまでです。目覚めた目にとっては、小鳥は飛んで逃げてしまっても、美しい光の色やすてきなさえずりの声は目や耳に残ります。「覚る」ということは、極楽が見えることなのかもしれません。
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「欣浄」は欣求浄土のことです。西方の極楽浄土へ往生することを欣(ねが)い求めることです。人間は誰でも理想の世界を求め、幸福に暮らすことを願っていますが、この世で実現することは至難(しなん)の業(わざ)です。この世では無理でも、せめてあの世では幸せに理想の生活をしたいと願うのは人間の心情です。仏はこの

ことを知り、なんとか救済してあげたいと願い、念仏をとなえれば間違いなく浄土に生まれるようにしてくれました。念仏をとなえたら、後は安心してこの世を生きていきなさい、と教えています。くよくよ考えないで、仏にまかせなさいと言います。

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「作願」  お経は漢文で難しいので、親鸞聖人はわかりやすい和文でも教えてくれています。この和文を「和讃」と言いますが、この中に「如来の作願をたづぬれば、苦悩の有情を捨てずして、廻向を首としたまいて、大悲心をば成就せり」とあります。

仏さんはもともと姿も形も無い方なのですが、この世で私たち人間がいろんなことに苦しみもがいていることを憐れみ悲しんで、どうにかしてあげたいと願い、この世に人間の姿をかりて形を現した方です。姿は人間ですが、本当の正体は慈悲心です。苦しんでいる私たちをなんとか救ってあげたい、楽を与えてあげたいと願う心そのものです。
 私たち衆生を救ってあげたいという願心を起こすことを作願といいます。物事は願うばかりでは実現しません。行動しなければなりません。この行動が修行です。仏さんは無限の長い間修行をしました。その修行は終了し成就したと言います。終了したと言っても無限の修行は果てしも無いはずです。仏さんの世界では終了しても、私たちのこの世では無限に続いているということでしょう。この世での仏さんの修行は、菩薩行とも呼ばれています。
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 作  
親鸞聖人の「正像末和讃」の中に次のような詩があります。
 
 如来の作願をたづぬれば    如来はどうして願いを立てられたのかをたづねると
 苦悩の有情をすてずして     苦しみ悩む私たちを捨てることができなかったから
 回向を首としたまいひて     念仏を私たち衆生に与えてあげようと考えて
 大悲心をば成就せり       念仏の中に慈悲心を入れて、念仏を称える人をすべ                
                    て救ってあげようとなさったからだということです。
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西 「西天」はインドの国のことです。宗祖親鸞上人の作られたお経の中に「印度西天之論家」とあります。論家はインドの高僧である龍樹菩薩のことです。龍樹菩薩は、親鸞上人が浄土七高僧として選びあげている第一の高僧です。インドの龍樹菩薩と天親菩薩、中国の曇鸞と道綽と善導、日本の源信と源空とが浄土教を伝えてくれた七高僧と呼ばれています。

「西方浄土」 「西遊記」   仏さんが住んでいる極楽浄土は西の方にあると言われています。それで西方浄土とも呼ばれています。西の方角で十万億仏土を超えたところにあるそうです。仏土は仏さんの国土です。

仏さんは阿弥陀仏のほかにも無数におりますが、十万億の仏さんの国土を越えたところに浄土があると言います。阿弥陀さんの国土一つだけでもただならぬ広さがあります。そのような広さの国土が十万億あり、それを超えたところに浄土があるというのです。人間の力で行けるところではありません。

 中国の小説「西遊記」に登場する孫悟空という猿の化身がおりますが、この悟空は生意気だったので、仏さんにさえ逆らったりしていました。「仏さんは空を飛べないだろう。俺は一瞬にして10万8000里を飛ぶ筋斗雲(きんとうん)に乗って、この世の果てまでひとっ飛びで行くことができる。」と自慢をして、すぐに飛んで行きました。

この世の果てまで行くと、そこには五本の柱が立っていました。孫悟空は柱の一本に用をたしました。さらに他の一本には「悟空参上」と書いたのでした。仏さんのもとに帰って来た悟空が見たものは、仏さんの中指に書かれた「悟空参上」の文字でした。結局悟空は、仏さんの手の平の上で行ったり来たりしていたのでした。

この世に生きている私たちにはどうしようもない大きさと広さの空間を、自由に行き来し動かしているのが仏さんという存在のようです。仏さんは私たちにとって、この大宇宙のような存在なのでしょう。私たちはこの大宇宙の中では無のような存在です。

あっても無くてもよいような小さな存在です。どんなに騒ごうが暴れようがしょせんは仏さんの手の平の上でのことです。宇宙の法則を変えて動くことはできません。法則に従って生きていくしかありません。

 空間的に私たちは本当に小さな世界にしか住むことができません。極楽浄土が西方十万億仏土を超えたところあると言われても、行くことも想像することさえできないように思われます。空間的に小さい世界に住んでいるだけではなく、時間的にも制限されています。私たちは過去に生きることも、未来に生きることもできません。

「そんなことはない。俺は生まれてから五十年も生きてきた。これからも三十年は生きるはずだ。だから俺は過去にも未来にも住んでいることになる。」とは言っても、現に生きているのは今この瞬間だけです。仏さんは、刹那に生きる、と言います。

時間的にも空間的にも束縛されている私たちは、仏さんのように時空を超えて生きることはできません。仏さんは時空を超えて生きています。そうすれば、仏さんはいつでもどこでも私たちに会うことはできますが、私たちはそうはいきません。私たちの好きな時に、仏さんを見ることも、聞くことも、感じることもできません。

大丈夫です。幸いなことに私たちには心があります。心は不思議なものです。心の中に宇宙があると言う人もいるくらいです。仏さんは私たちの心の中にも住んでいると言われます。私たちの外の世界は私たちの手の届かないところだらけですが、心の中の世界は時空を超えて自由に私たちでも動き回れる世界なのではないでしょうか。

故人はこの世を去って西方浄土へ行ってしまって、もう会えないものだと決めてしまう必要はありません。私たちにも時空を超えて動くことのできる世界があるのです。仏さんだって私たちの心の中にも住んでいるのですから、いつでも会うことができるでしょう。

仏壇に向かって手を合わせている時は、心の中で仏さんと対面している時なのではないでしょうか。仏さんからこの世の真実を教えていただくチャンスでもあります。
 
 「西」は「西方浄土」の「西」です。「刹」は「寺、寺院、国土」という意味です。「西刹」は「西にある国土」という意味で「阿弥陀仏の国土」のことを言います。つまりは「極楽浄土」のことです。

 自然の太陽は西に沈み、夕方になり夜が来て、世界が安らかな休息の時間になるところから考えて、極楽浄土は西の方角にあると感じられたもののようです。なにはともあれ、昔から極楽浄土は苦の無い理想の世界と考えられてきました。みんなが行きたいと思っている国でした。この世は地獄だけれどもあの世は極楽だ、とも考えられてきました。

  私たちが生きている苦労の多いこの世では、私たちがしっかりと足を地につけて立っているような場所は無い、どこもかしこも不安定な場所ばかりで落ち着けるところなんか無いと思われます。落ち着ける場所はあの世の浄土だけだとも思われます。さらに浄土は西方十万億仏土という遠いところにあるので、この世を去ってからも無事に行けるものかどうかも不明です。

 昔、加賀の国に浄土真宗の信者で「加賀の千代女」という方がおられました。この方が加賀の吉崎にある本願寺の別院にお参りをした時に詠んだ句が、石碑に残されています。

   うつむいた            人生の旅に疲れ果てうつむいた
   処(とこ)が台(うてな)や    足下を見たらそこには大地があった
   菫草(すみれぐさ)        大地には、咲いては枯れ、枯れては咲くとい
                       う強い強い多年草のスミレが咲いていた
 
 「加賀の千代女」は、うちひしがれた時にこそ、そこには仏さんの大地が広がってくる、と言っているのではないでしょうか。日常の苦労では計り知れないどん底に落ち込んだ時にこそ、そこには仏さんの救いの手が待っているということでしょう。

 この世は地獄のようにも見えますが、私たちがどこにいようとも私たちが置かれている「今この場」にこそ私たちが生きる大地がしっかりとあるのではないでしょうか。仏さんがいつでもどこでも私たちを見守っていることを心に置き、いざという時には仏さんがしっかりと救い取ってくれることを信じて、あとは仏さんにすべてをおまかせして、「今この場」でしっかりと生きていくことが大事なことと思われます。
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  「西路」は、西方浄土に往生する道という意味です。西方浄土は、西の方へ十万億という数の仏さん達の国々を越えていったところにある極楽浄土といわれる国のことです。あまりにも遠いところにあり、この世の言葉や数字では表せないのでこのような表現をしていることのようです。

そんなにも遠いところにある国へは、近代的な飛行機でもロケットでも行くことはできそうもありません。まして、私たちが自分の力で功徳を積んで、その成果をもって行き着けるような生やさしいところでもないようです。私たちが修行をしてもどれほどのことができるでしょうか。

正法の時代、像法の時代ならまだ仏教も生き生きとしていて人間もまだ汚れきっていなかったかもしれませんが、今は末法の時代です。世も末だといわれる時代です。煩悩のエキスみたいな私たちが努力しても、どれほどの純粋な効果を得られるというのでしょうか。自分の力では西路を通って浄土へは行き着くことはできません。

ここは一番、仏さんの力を頼るしかないないようです。親鸞聖人は、仏さんにおまかせする方法として、念仏を称えることを勧めています。浄土真宗においては、念仏を称えて救われていく道が「西路」です。
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西  「西方」 

仏説阿弥陀経というお経の中に次のように書かれています  
 
  爾時仏告   長老舎利弗          その時に、仏さんが長老舎利弗に告げた
  
  従是西方   過十万億仏土        これより西方に、十万億の仏土を過ぎて
 
  有世界    名曰極楽           世界あり、名づけて極楽とする
 
 西方浄土は、西の方へ十万億という数の仏さん達の国々を越えていったところにある極楽浄土といわれる国のことです。あまりにも遠いところにあり、この世の言葉や数字では表せないのでこのような表現をしていることのようです。
 
そんなにも遠いところにある国へは、近代的な飛行機でもロケットでも行くことはできそうもありません。まして、私たちが自分の力で功徳を積んで、その成果をもって行き着けるような生やさしいところでもないようです。私たちが修行をしてもどれほどのことができるでしょうか。

正法の時代、像法の時代ならまだ仏教も生き生きとしていて人間もまだ汚れきっていなかったかもしれませんが、今は末法の時代です。世も末だといわれる時代です。煩悩のエキスみたいな私たちが努力しても、どれほどの純粋な効果を得られるというのでしょうか。自分の力では西路を通って浄土へは行き着くことはできません。
 
ここは一番、仏さんの力を頼るしかないないようです。親鸞聖人は、仏さんにおまかせする方法として、念仏を称えることを勧めています。
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「最勝尊」  仏さんはいっぱいいますが、私たちが仏さんとして信じている仏さんの名前は阿弥陀という仏さんです。阿弥陀仏は他の仏さん達からも褒(ほめ)め称(たた)えられるような最も勝れた尊い仏さんなので、最勝尊とも呼ばれています。 H22
「罪業深重」
親鸞聖人は自分の心を正直にまっすぐに見つめた方でした。ひいき目に見るとか、甘く見るとかは決してしませんでした。

徹底して客観的に自分を見つめると、自分はただの凡人であり、むしろ欲望は人並み以上に強く、良いことをしようとしてもどうしても良いことにはならず、自分は良いことをしているという自慢とかうぬぼれとかの心が湧き上がってくるばかりである、ということに親鸞聖人は気が付きました。

厳しい修行をしても欲望は減少するどころかますます燃え盛るばかりである自分にがっかりするだけでした。それで、自分は地獄へ落ちるほかに道はないものと覚悟をしました。
 大切なのはここです。自分は自分の力ではどうにもならないような、救いようのない人間であることを自覚し信じたという点です。仏さんが一番救ってあげたいと願う人は、このような人なのです。強い人を救う必要はありません。

力を振り回している人は、他の力を受け入れようとはしません。ただただ他の力に頼るしか道の無い人をこそ、仏さんは一番に救おうとするはずです。

人間にとって努力は必要が無いということではありません。努力は無駄であるということでもありません。努力しても努力してもどうしようもないことがあるということです。親鸞聖人は、「大自然から与えられたこの身体、心は自分が作ったものではない。

何時どのように変化するか知れたものではない。もしそのような遺伝子が働き出せば、どのような行動でもしかねないものだ。」と言っています。どんな悪いことでもしてしまう可能性があると言っています。このことを罪業深重(ざいごうじんじゅう)と言います。
 
罪業深重を深く信ずるところが宗教心の出発点です。ここに仏さんの手がさしのべられています。罪業深重を信じ、仏さんの救いを信じ、仏さんの手にすべてをおまかせすることを深信と言います。深信を言葉にすると南無阿弥陀仏となります。
 
私たちが大自然から与えられたこの頭、顔、目、口、鼻、胴体、脚、これらのどれ一つをとっても、自分のものだけれども本当に自分のものと呼べるものは一つもありません。すべてが与えられたものです。

心もそうでしょう。簡単にどうこうできるものではありません。満足でも不満でもどうしようもありません。

一人一人の人生について考えてみても、自分の人生とは言っても自分の思い通りにはなりません。どうしようもないものに突き動かされているようなものです。少しくらいはどうにかなっても、大きな流れには逆らえません。流れに身をまかせるしかありません。

どこに流れ着くかを指定することはできません。ただ信じておまかせするしかありません。流れに逆らうことは苦しくつらいことです。疲れ果てて溺れてしまうかもしれません。流れに身をまかせてこそ浮かぶ瀬もあるかもしれません。なによりも楽になります。
 
大きな流れに身をまかせた時の言葉がナムアミダブツです。親鸞聖人は、念仏成仏これ真宗、と言ってます。念仏を称えて救われて行くのが仏さんの教えである、と言うのです。
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そろそろ土手には桜が咲こうとしています。桜は蕾(つぼみ)から芽を出し、咲き始め、満開となり、間もなく風に吹かれ、雨に打たれて散って行ってしまいます。ほんのわずかな期間しか木の枝にくっついていません。このあっけない花の命を哀(あわ)れだと感じてくれれば、まだ救われます。ただただ美しいとか、きれいだとか騒いでばかりで、おまけに花びらが散ってしまうと、「なんだ、それだけか、つまらない」と文句を言うにいたっては、言語道断(ごんごどうだん)です。とんでもないことです。花は人間に見られるために咲いているのではありません。私達の都合に合わせて咲くのでもありません。観光客のために、観桜会の期間に合わせてちょうど咲くものでもありません。桜はただ自然に咲いているだけです。自然に咲く姿が、私たちに自然の道理を教えてくれています。咲いた花は必ず散るものだということを。
 
ある高僧が言いました。 「 散る桜、残る桜も散る桜 」  私たちは桜の咲く姿をどうのこうの言っていますが、命の短さは人間も同じだということです。たとえ百年間長生きしたとしても、死んでしまえば無です。なにも無かったことになります。生まれた時に、すでに死ぬことが決まっています。何時死ぬかはわかりません。今日か、明日か、明後日か。散る桜を見ている私たちも、間もなく散っていかなければならない命なのです。今生きていることは奇跡(きせき)なのです。すごいことなのです。桜が咲いている時間が貴重な時間であるように、私たちの生きている今という時間も大切な時間なのです。

 今生きていることを有り難いと思う時、ただ「ありがとう」と言うだけでなく、「なまんだぶ」と言うのが仏教です。「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とも言います。心の中で思うだけでなく、身体で、口で表現することが大事だと言われています。誰のためでもありません。自分のために念仏を称えるのです。
沙羅樹(さらじゅ)。沙羅双樹。お釈迦様が亡くなられたとき、その周りに沙羅樹(さらじゅ)という木が、四方に各2本ずつ計8本ありました。この木を沙羅双樹(さらそうじゅ)といいます。お釈迦様がこの世を去られる時、この木々でさえ悲しみのあまり

にその葉という葉をすべて白くしてしまいました。お葬式の時にお骨の両側に白い和紙のついた木(紙花)を置くのは、沙羅双樹の深い悲しみを表しているのだそうです。

 
「三種淨業」 観無量寿経というお経の中に 「かの国に生ぜんとおもわんものはまさに三福を修すべし。一には父母を孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず・・・、二に三帰を受持し・・・、三には菩提心をおこし・・・、かくの如きの三事を名付けて淨業とす。・・・

この三種の業は、過去未来現在、三世の諸仏の淨業の正因なり。」とあります。仏となるためにやらなければならない大事なことが三つある、といっています。これを「三種淨業」といいます。しかしこのようなりっぱな行いは私たち凡人にはなかなか難しい行いです。煩悩の深い私たちにできません。仏はこのことをよく知っ

ておりまして、この三種淨業の功徳を「南無阿弥陀仏」という念仏に入れて下さいました。私たちはりっぱなことはできなくとも、「南無阿弥陀仏」と称えることにより仏になることができます。

「三法」 真宗を開いた親鸞聖人の主著は「教行信(きょうぎょうしんしょう)」ですが、私たちが救済されていく過程や方法が説かれています。従来の教えでは、仏の説かれた教えである「教」に従って、修行である「行」を修めると、その結果として悟(さとり)りである「證」を得られるということになるのですが、親鸞聖人は

行の中には「信」がなければいけないと説かれました。従来の「教行證」の中に「信」を見いだされたのです。求道の因が果に向かう過程を示す教行證は「三法(さんぼう)」と呼ばれています。

 真宗で大切にしているお経は「三部経」で、大無量寿経と観無量寿経と阿弥陀経の三つです。また、三蔵、三願、三経、三門、三機、三往生、三々法門などと、仏教では仏法を説く時に、物事をよく三種類とか三段階とかに分けて説明しているようです。

仏教の聖典は経・律・論の三種類に分けられます。この三種類を総称して「三蔵」と言います。孫悟空の物語にでてくる三蔵法師はこれを翻訳する人のことです。三蔵の中で説かれていることは、仏の慈悲心です。悩み苦しむ一般民衆すなわち衆生を救ってあげたいという仏の心です。仏心はたいていの人の心の奥にもすでに与えられていますが、煩悩に邪魔されていて、なかなか表面に出てこないのが現状です。

「三誓偈」  仏さんが仏さんになる前、私たちの住んでいる人間の世界におられた時の名前を法蔵菩薩と言います。法蔵菩薩が、私たち人間の苦しんでいる姿を見て、どうにかして救ってあげたいと思い四十八の願いを立てました。

その直後に、四十八の願いを必ず実現させるための三つの誓いを立てました。人間を最高の幸福の道へ導く、いろんな貧しさと苦しみから人間を救う、念仏を称えるどんな人間をも救う、という三つの誓いです。

 この誓いを四句十一行の偈文に表しました。三誓偈と言うお経です。お盆にお墓で読んでいるお経です。

 法蔵菩薩が三つの誓いを立てたのは、法蔵菩薩の恩師である仏さんの世自在王仏の前においてでした。世自在王仏は、この世のあらゆる法則にとらわれること無く超越していて自由自在で、世間のために利益になることをするという点においては最高の仏さんです。

私たちの宗教である浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、三誓偈の三つの誓いの中の、念仏を称える人を救うという誓いを重く見ました。念仏を称えて救われて行くのが真宗である、と言っています。

「三蔵」 仏教の聖典のすべてのもののことを三蔵と言います。三蔵は経蔵と律蔵と論蔵のことです。経蔵は仏さんの教えが書かれたお経のすべてです。律蔵は、仏教徒が守らなければならない生活の規則について書かれたものです。論蔵は、お経について論じられたことが書かれたものです。
 
律蔵に書かれている規則    自然の世界にはいろんな規則があります。法則とも言います。高いところにある水は低いところに流れます。鳥は空を飛べますが人間は飛べません。魚は水の中で生活できますが、猫はできません。土の中に種を蒔くと種から芽がでます。いろんなことがいろんな法則に従って動いています。自然の法則に従わなければどんな生物も生きていくことができません。また、生きている物はいつか必ず死ななければならない、ということも法則です。生きるも死ぬも法則に従うしかありません。
 
昔の王様達や殿様達は強い権力と財力を持っていました。望むものはたいてい何でも手に入りました。しかし、どうしても手に入れることのできないものがありました。それは永遠の若さと永遠の命でした。生物は、この世に生まれて来たからには必ず老いていかなければなりません。そして死んでいかなければなりません。どうしても老いたくなくて、死にたくなくて、家来に命じて不老不死の薬を探しに世界中へと旅立たせた王様もおりました。
 
自然の法則に従わないということは、真理に従わないということで無理なのです。真理が無いのです。嘘の世界になってしまいます。偽りの世界です。虚偽の世界は夢の世界です。砂の上に築いたお城のようにすぐに壊れてしまいます。頼りにならないものを頼りにするほど不安なことはありません。
 
私たちの日常生活でも、不老不死を願う王様のような無理をしていることがあるのではないでしょうか。絶対に病気になりたくないと願っていても、病気になる時はなります。他の人と争いたくないと思っていても、ついつい争ってしまうこともあります。貧乏になりたくなくても貧乏になってしまう時もあります。もっともっと楽をしたいのに苦の連続だったりします。なる時はなる、ならない時はならない。自分の思うとおりにはならない。これがこの世の定めです。法則です。
 
やるだけのことをやったら、後は自然の法則にまかせる。真理に従う。仏教では仏さんにまかせると言います。仏さんにおまかせします、という心が念仏の心です。南無阿弥陀仏です。ナマンダブでもよいです。

「三世」 過去と現在と未来のことを三世と言います。私たちは現在という時間の中に生きています。現在という時間の中にいるのに、過ぎ去った過去のことについて悩んだり困ったりしています。

失敗したことを反省するのは良いことですが、いつまでもくよくよ考えて疲労困憊(ひろうこんぱい)したりして、ついには病気なったりしています。過ぎ去ったことはどうしようもないことです。過去に戻ることはできません。過去に生きることはできないことです。

一方で、未来のことを思い煩(わずら)っていることもあります。良い学校に入りたいけれども成績がどうも足りない。車を買いたいけれども家も建てたい。海水浴にも行きたいし、温泉にも行きたい。それなのに、お金もないし暇(ひま)もない。どうしたら満足のできる生活ができるのか、まったく見通しが立たない。私の将来は真っ暗闇(くらやみ)だ。というように未()だ来ない未来のことを思い悩んでいます。

昔から人間は病気になることを恐れていました。生きている間に絶対に病気にならないという人はほとんどいません。それでも、ほとんどの人はどうしたら病気にならなくてすむのかと健康な状態の時から考えています。歳(とし)をとってくるとますます老いることを嫌います。嫌うけれども老いが止まるわけではありません。若返り健康法をいろいろ試してみても効果があるのかどうか。それでも不老長寿の薬を求めてやみません。

そのうちに、遠くに生の終わりを意識するようになります。もしかしたら遠くではなくて近いかも知れませんが。その時から、少しでも長く生きようと願うことになる方もおります。どのように願っても、どのように努力しても、来るべきものは来るのが自然です。

過去のことを考えすぎたり、未来のことを悩んだりしながら人生を過ごしたら、現在の自分はどこに行ってしまうのでしょうか。過去に生きる亡霊のようになったり、未来の悪夢の奴隷になったりしてしまうのではないでしょうか。

仏さんは今を大切にするように教えています。

 「三寶」は、三つの宝という意味です。仏と法と僧の三つです。仏(ぶつ)はインドの言葉です。日本語では覚(さと)りをひらいた人という意味です。法は法則の法です。法律の法です。規則のことです。自然界の規則であり、この世の規則のことです。人間が考え出したものというよりも、人間が考える前からすでに存在していたもののことです。

誰にも変えることのできないものであり、真理とも呼ばれるものです。「僧」はインドの言葉で、日本語では、仏さんの教える法を求める人々という意味です。いわゆる坊主だけのことではありません。仏道を歩くみんなのことです。仏法僧の三つは大切なものであるから宝物であると言われます。 
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仏さんが私たちを救おうとする心は、真実心と智慧心と慈悲心という言葉で表されます。これを本願の三信とも言います。この仏さんの心は「南無阿弥陀仏」という念仏一つの中に込められています。念仏を称えることは、この仏さんの心を私たちの心の中に受け止めることになります。

仏さんの三信心を一信心として受得することになります。受得した一信心は真実心でもあり、至誠心とも呼ばれています。

 私たちの心は煩悩に汚れているので、仏さんの心を容易に信ずることなどできないようです。そこで仏さんは、信ずる心さえ念仏の中に込められました。私たちは、ただ念仏を称えればよいと親鸞は教えています。

 嘘のような話ですが本当のことです。念仏を称えるという形の中に、自然に信ずる心が生じてきているのです。体験というか体感というか、そのようなことで知られてくるような事なのではないでしょうか。
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 三  
 「三寶」は「仏、法、僧」のことです。
 「仏」は「ブッダ」というインドの言葉で、日本語では「覚者」と訳します。覚った者という意味で、一切の迷いを離れて真理を覚り、また他の衆生を導いて覚りの道に入らしめる人のことです。
「法」は、形あるもの、形の無いものなど、あらゆる事物、あらゆる道理そのものを表しています。ものの規範、道理、法則、規則などを表します。
「僧」は、仏法を尊び、共に仏道を歩む人々のことです。いわゆる坊主のことではありません。私たち仏教徒である衆生のことです。
 「三寶」は、私たちが尊重すべきものなので「寶」すなわち「宝」と言います。
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仏の心は嘘偽りのない心です。真実の心です。観無量寿経というお経で、仏さんの心は第一に至誠心であると言っています。開祖である親鸞聖人はこの至誠心を解釈して、至は真なり、誠は実なりと言い、真実の心であるとしています。
 
一心は、ふたごころなく一つのことにのみ向ける心のことです。親鸞聖人は著書の教行信證の信の巻で「一心はすなわちこれ真実信心なり」と言っています。真実の世から生まれ出た仏さんの心を信ずる心です。
 
仏さんが私達衆生を救いたいという心を信じて、頼みますと言う時の言葉が念仏です。念仏を称えるとなぜ救われるのか、その理由を問い、聞き続けることが救われていく道です。なぜだろうと聞いていくところに仏の教えがあります。この世の本当の姿を求めて行く道が念仏の道です。
仏さんは苦の世界を見せてくれます。同時に楽の世界も見せてくれています。非情な苦の世界の裏には、希望をもたらす無常の世界も存在することを教えてくれています。苦しんで苦しんでどん底の苦しみを味わった身には、苦からの解放があるだけです。無常であるがゆえに、いつまでも同じ状態であるわけがありません。希望の光を照らしてくれるのも無常です。

私たちは誕生した時、すでに将来、生老病死苦という四苦を背負って歩くことを決められています。四苦八苦しながら生きなければなりません。それでも、子供が誕生した家庭や周囲の人々は、おめでとうと口々に祝福します。それは、生命そのものは奇跡のようなもので、誕生しなくても当たり前で、誕生したことはむしろ不思議なことなのだからです。不思議にも生まれ出たこの人生を、ほとんど苦だらけのこの人生を、苦も楽と一緒に噛みしめながら、今生きていることの喜びを私たちが感じることができるように、仏さんは仏法を説いてくださいます。

お釈迦様が誕生してすぐ、東西南北に七歩あるいて「天上天下唯我独尊」と言われたのは、お釈迦様だけが偉いということではなく、尊い生命を授かった生きとし生けるもの全てが、それぞれがこの世で一番大切な命だと教えてくれていることなのです。他と比較できるものではありません。一つ一つの命が大事なのです。この世がどんなに苦しくても、尊い命を生きている私たちは、命を大事に生きなければなりません。苦の裏には必ず楽もついてくる、と仏さんは教えてくれています。
念仏の中に込められている心は「至誠(しじょう)心」です。至は真という意味で、誠は実という意味です。「深心(じんしん)」も念仏の中に込められています。深心は深く信ずる心です。まともに物事を信ずる心さえ無い私たちに、信ずる心も念仏に込めてくれたのです。

親鸞聖人が大切にしておられるお経の一つである観無量寿経というお経の中に、この心を持つ者は必ず極楽浄土に往生する、と書いております。救われるということです。私達は生きている間に、この救われていく道を歩くことになるのです。

親鸞聖人は、貴族や武士のような特権階級の人々のための宗教を好まず、むしろ世間からは排斥されているような貧しい人々、罪を犯したくなくても生きるためにやむを得ず犯してしまうような人々のための宗教を開きました。

どんなにりっぱなことを言っていても、私たちは生きるためには、他の生きものの命をいただかなくてはなりません。肉でも野菜でも生きものです。生きている命からいただくものです。人間は生きている限りは動かなければなりません。動けば蟻(あり)を踏みつぶしてしまうこともあります。ハエをたたきつぶすこともあります。蚊は憎たらしくも思えます。昔はノミやシラミに悩まされ、潰しまくったこともあります。

生きるということは、他の命をいただき、他の命を土台に生かさせていただいているということです。  貧しければ貧しいほど、自分の手で他の命を収穫しなければなりません。汚れた仕事、人のいやがる仕事、嫌われる仕事、それでも生きるためにはやらなければなりません。 

親鸞聖人自身、罪人として京都を追放され、日本海側の貧しい地域で暮らさなければなりませんでした。そこでは、地元の人々よりも貧困な生活をしなくてはなりませんでした。生きることに精一杯で、善いことをするなどの余裕はありませんでした。善いと言われる行いをしたり、修行をしたりして功徳を積むなどということはできませんでした。ましてや、純粋に善い心など持ちようがありませんでした。

煩悩の深い私たち人間にとっては、純粋に善い心は、ほんのわずかの間だけ顔をだすこともあるかもしれませんが、瞬(またた)く間に消えてしまいます。このような人間は救われるはずがありません。

ところが、親鸞聖人はこのように言います。私には善い心は一つもなく、地獄に行くのは決まっていることだが、念仏を称えれば救われると教えてくれる方がおられる。念仏の中に善い心、真実の心、仏の心、慈悲の心が入っているからだ、とその方は教えてくれる。嘘でも何でもしかたがない、地獄に行くことに決まっている身にとっては、最後の唯一の救いの道だ。念仏を称えて救われよう。
自然法爾(じねんほうに)の法。大自然の道理・規則、たとえば水が高きより低きに流れるごとき当然のことを「法」と言います。「爾」はそのようにしからしむとういう意味です。「法爾」は、大自然の法則に従ってその通りに存在するということです。  

親鸞聖人の「正像末和讃」に、「法爾というは如来の御ちかいなるがゆえに、しからしむるを法爾という。この法爾は、御ちかいなりけるゆえに、すべての行者のはからいなきをもちて、このゆえに、他力には義なきを義とすとしるべきなり。」とあります。 

 生まれて間もない子供たちは、人間の世界の汚れを知りません。自然の子供だからです。子供は自然の法則に従っていると安心できます。大声で泣いていた孫が、今故人となられた祖父の腕に抱かれた時、ぴたりと泣くのをやめたそうです。故人の腕に自然の法則を感じたからでしょう。愛情を込めて、慈悲心をもって優しく抱きしめることは自然の法則なのです。仏教では「自然法爾(じねんほうに)の法」といいます。                                           
        
この世の物事は自然の法則に従って自然に流れ動いていくという意味です。自分の力でどうこうしようとしても、どうにもならないことがあるという意味です。浄土真宗(一向宗)におきましては、自然に身をまかせることを他力にすがると言い、また仏さんにおまかせするとも言います。

故人は生前、山に親しまれ、川に親しまれ、海に親しんで来られました。自然の中に身をまかせて生きてこられたのだろうと思われます。自然を楽しみ、自然に育(はぐく)まれて生きてこられたのですが、その自然の法則に従って浄土に往生することになってしまいました。

いくら自然の法則に従って生きて来たとしたも、必ずしも長生きできるものでもありません。長生きできないということもありません。百人いれば百人とも異なった人生を生きることでしょう。それが常なることの何一つ無いこの世の定めです。

 また、長生きしたから幸せかというとそうとも言えません。人生が短いから不幸かというと、そのように決めつけることもできません。一人一人が自分の人生をどのように感じ、どのように考えて生きて来たかということが大事なのかもしれません。
 仏さんは、人生が長くても短くても、太くとも細くとも、それぞれに幸せの要素が備わっている、と教えてくれています。心の眼を開いてしっかりと見て、耳を澄ましてよく聴いてみると、私たちの身の周りにも幸せの光景があり音があると教えてくれています。

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親鸞聖人は著書「正像末和讃」において、「自然」の意味を「おのずからしからしむ」「行者のはからいにあらずしからしむ」と説明しています。私たちは、生まれてくる時に自分の意志で生まれたわけではありません。往生する時も自分の意志ではありません。生きている今でさえ、自分の力で生きているというより、自然の力に生かされているというのが本当でしょう。今生かされているのは自然の恵みです。この自然の恵みに身をまかせ、感謝をしながら生きていくことを、自然法爾の法に従って生きる、と言います。故人も山や川や野原の自然を愛していました。自然の中を歩き、自然の恵みを身体で感じ、自然に感謝していたことと思われます。                                        住職コーナーへ戻る

そして今、自然の法則に従い、浄土へと往生しました。浄土は自然です。大自然のもとへ、生まれてきたところへと還(かえって)って行きました。

子供の頃は誰でも自分が中心で、自分が一番得をするように行動します。おいしいお菓子があれば、誰よりも先に手を伸ばして食べてしまします。他の人に先にお菓子をとられてしまうと、悲しくなり、くやしくなり、怒りたくなります。泣いてしまいます。大人になると自分中心ではなくなるかというと、そうでもありません。人間は生きている間は、欲望を捨てることはできないので、自分中心で自分勝手な心を持ち続けます。そこから争いが生じます。

 仏さんは、煩悩深い私たち人間が幸せに生きる知恵を教えてくれています。周囲の人達が悩み苦しんでいるのに、自分だけが幸せになるということはありえないことなので、まず自分の利益はさておき、他人の利益のことを考えましょう、と教えてくれます。・・・が、煩悩深い私たちにはなかなか難しいことです。仏さんは、そのことも知っています。煩悩に動かされている人間は、自分の力でどうこうできることはほとんどないと知っています。そこで、しかたがないから人間にはこれをあげようと、念仏をくださいました。
 
自分で自分をどうしようもない凡夫は、ただ念仏を称えなさい、と教えています。自分は煩悩が深い人間で、良い行いをしようとしてもできない人間だ、と認めることが最初です。反省です。反省して念仏を称えるのです。念仏とともに反省の心も生じます。
 現実には、自分の利をさておき、他人の利を先に考えることは難しいことですが、そこに反省の心が有るのと無いのとでは、だいぶ違いがあります。
 身近な人にはもちろんのこと、どんな人にも優しくできればすばらしいことと思われます。
冬が過ぎると春が来ます。春が過ぎると夏が来ます。そして秋が来てまた冬がきます。一年の四季はずっと昔から繰り返してきました。日本の雪国では春夏秋冬の違いが特別にはっきりしています。はっきりしているから冬の厳しさにはつらいものがあります。はっきりしているから春の喜びはひとしおです。冬の厳しさが春の喜びを増してくれます。冬が春を支えてくれています。冬があるから春があります。

春があるのは冬のおかげでもあります。私たちの勝手な都合で、春の喜びだけを楽しむことはできません。春夏秋冬のうち自分の好きな季節だけを選び取ることはできません。私たちの好みとは関係なく自然の四季はめぐってきます。
 
私たちが生まれてきたのも私たちの意志ではありません。もちろん親の意志でもありません。人間が人間を作るなどということはできないからです。人間は自然の世界の何一つをも作ることはできません。まねをするだけです。せいぜいロボットをつくるだけです。私たちは自然の意志によって生み出され、自然に生かされ、自然に帰って行きます。すべてが仏の手のひらの上で動いているようなものです。孫悟空の筋斗雲でさえ仏の手を飛び越えることができませんでした。
 
自然の意志は自然の法則です。自然の法則によって四季はめぐり、生じたり滅したりします。この世が冬だけではないことは有り難いことです。春も夏も秋も準備しておいてくれたことに感謝しなければなりません。冬の寒さが春の日差しをさらに暖かく感じさせてくれるのであれば、冬にも感謝です。
 
冬の間に育(はぐく)まれた植物の芽がもうすぐ咲きます。山菜もでてきます。冬の間山にたくわえられた雪は夏に流れ出し、おいしいお米を育ててくれます。冬の間私たちを苦しめた雪が、私たちの命を支える食べ物を作ってくれます。何が良くて何が悪いのかはわからないものです。ただ自然にまかせ、仏さんにまかせるしかありません。

 「仏さん、おまかせします、お願いします」という気持ちを表現する言葉が「南無阿弥陀仏」「なむあみだぶつ」「なまんだぶ」です。そこには同時に「ありがとう」という気持ちも入っています。

「自利利他1」  菩薩は仏さんが仏さんになる前の位の姿です。菩薩の修行は自利利他行とも呼ばれています。菩薩が仏さんになるためには、自分の利益になることばかりをやっていてもだめであり、他の人の利益になることもやらなければいけないからです。本当に自分のためになることは他の人のためになることです。自分だけの利益ということはありえません。他の人の利益になることでなければ本当の自分の利益とはなりません。
 
 私たち人間は自分一人で生きているのではありません。まわりと共に生きているのであり、まわりに生かされ生きています。妻だって夫だって子供だって幸福にならなければ自分の幸福はありません。社会が貧しければ自分も貧しいのは当たり前です。自分も社会の中で生かされている一人だからです。

菩薩は世の中が幸福にならなければ自分も仏にはならないと誓い、いつまでもいつまでも果てしもなく自利利他の行を続けています。菩薩は私たち人間のお手本となって働いてくれているのです。私たちも自分のためだけではなく他の人のためになるように努力をしなければ、本当の自分の幸福に近づくことはできない、と仏さんは教えています。それが自利利他行です。

「自利利他2」 私たちの家庭においては、子供が幸福な状態であれば親も満足であるし幸福な状態であると思われます。もちろん親の幸福と子供の幸福を混同していることもあるようですが、普通は子供の幸福は親の幸福でしょう。また、親の幸福は子供の幸福でもあるはずです。このような意味において、自分の本当の利益になることは他人の利益になることであるはずですし、他人に本当に利益になることは自分の利益にもなるはずです。
 人間関係が家庭内の理想的な親子関係のようであればということになるのかもしれませんが、大事なことです。仏さんはこのことを自利利他と言います。自利はそのまま利他であるし、利他は自利であると言います。本当に自分のためになることをしようと思うなら、他人のためになることをしましょうということです。このような行為は菩薩行とも呼ばれています。

 親鸞聖人の著書「教行信證」に「利他教化(りたきょうけ)」という言葉が出てきます。これは純粋な利他の行為のことです。まもなく仏さんになろうという菩薩は、私たち衆生を教え導くことによって救済しようとしています。このはたらきは仏さんの慈悲心のはたらきでもあります。仏さんのはたらきが「利他教化」のはたらきです。








































































































H21                                  
仏様の姿は慈悲の光です。苦しんでいる私たちを見て、なんとかしてあげたいという暖かい優しい心そのものです。慈しみの心です。苦を悲しんでくれる心です。  念仏をとなえるとこの仏の心が、私たちの煩悩だらけの心の中に入ってきてくれるそうです。念仏が、私たちの心の中に仏心があることを自覚させてくれます。

心の底から救いを求めている人の心は、人間の苦しみを知っている心です。人間の苦しみを知っている人は、他人の苦しみがわかります。他人の苦しみに同感することができますし、その苦しみを取り除いてあげたいという心が生じます。その心が慈悲心です。慈悲心は仏の心です。  

念仏を称えて救われるということは、仏と同じ心を持つということです。

 
直心」は、嘘偽(うそいつわり)りのない正直心のことです。宗祖親鸞聖人が書いた教行信證という論文の信巻に  「大信心とはすなわちこれ長生不死の神方、欣淨厭穢の妙術、撰択回向の直心」とあります。私たちの心は煩悩に汚れているので、純粋に嘘偽りの無い心を持とうとしても難しい状態にあります。しかし仏の知恵の

光明に照らされると、心の奥底に仏心が与えられていることに気がつくはずです。この心は慈悲心であり大信心であり直心でもあります。嘘偽りのない仏の心です。今の世の中で一番欠けているものは、このような心ではないでしょうか。昔は、人間のつき合いが今より深く、心のこもったものであったと故人はよく話しておられました。仏心が隠されず、表面に出てくることが多かったようです。

 
私たちが心から欣(よろこ)んで求(ねがいもと)める極楽浄土は、七つの寶石(ほうせき)で飾り立てられているとお経に書かれています。金(こん)、銀(ごん)、瑠璃(るり)、玻璃(はり)??(しゃきょ)、赤珠(しゃくしゅ)、瑪瑙(めのう)の七種類の宝石です。これらの宝石は、どのくらいの価値があるのだろうかとか、円に換算すると何円だろうかとか値踏みをするようなものではありません。

ただただ美しく、それぞれの宝石がそれぞれの色の輝きの光を放っており、見る目を楽しませてくれ、見る人の心を美しくし、十分に満足感を与えてくれる石です。見物料の額しだいではもっと美しく見せるなどということはありません。この世の基準を超えている世界のことです。


「七寶」

「七寶」は、七つの宝石という意味です。極楽浄土は七つの宝石で飾り立てられています。「大無量壽経」というお経には次のように書かれています。
 
  有七寶池         七宝の池あり     
  八功徳水         八種類の功徳の水が
  充満其中         満ちている
  池底純以         池の底には純なる
  金沙布地         金の砂が布(し)かれている
  四辺階道         まわりに階段の道があり
  金銀瑠(る)璃(り)     金や銀や瑠璃や
  玻(は)璃(り)合成     玻璃でできている
  上有楼閣         上に立派な建物があり
  亦以金銀瑠璃      これも亦(また)金・銀・瑠璃                    
  玻璃・しやこ       玻璃・しやこ
  赤珠(しやくしゆ)瑪(め)瑙(のう)    赤珠(しやくしゆ)・瑪(め)瑙(のう)で飾り立てられている
 
  この世の価値基準に従って表現すれば、極楽はこのようなところであるということであって、本当の極楽浄土は、言語を絶するようなすばらしいところのようです。
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「沙門」は、諸々の善法を修め、諸々の悪法を止める者という意味で、出家して仏道を修める人のことをいいます。宗祖親鸞聖人が真実の教といわれる「仏説大無量壽経」よりいただきました。
お釈迦様が亡くなられたとき、その周りに沙羅樹という木が、四方に各2本ずつ計8本ありました。この木を沙羅双樹といいます。お釈迦様がこの世を去られる時、この木々でさえ悲しみのあまりにその葉という葉をすべて白くしてしまいました。お葬式の時にお骨の両側に白い和紙のついた木(紙花)を置くのは、沙羅双樹の深い悲しみを表しているのだそうです。

 お葬式のあり方も昔と今ではどんどん変化してきているようです。式場の葬儀壇に飾られている四華花という紙でできている花がありますが、昔は、神事で神主がお祓いに使う棒についている白い紙でできているものに似ていて、四華花も白いものでした。最近の四華花は金色や銀色になっています。白い四華は珍しくなってきました。白より金銀のほうがりっぱだというのでしょうか。値段も高いのでしょう。 

 昔は、近親者が悲しみをあらわす四華花を持って葬列に加わっていたそうですが、今でも白い布を頭に巻いたり、背中に垂らしたりして悲しみを表しながら葬列をくんでお墓まで行進する地方もあります。昔から伝えられてきた風習や形式にはそれぞれ意味があったようです。単なる形だけのものではありませんでした。

 沙羅双樹の白い葉の表している深い悲しみは、仏さんの慈悲心の表れであり、私たちの心の中にある仏心の表れでもあります。
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お釈迦様の家族になったという意味で、仏様になったということを表しています。   
将来私たちが住むことになる極楽浄土のことを「寂光土」とも言います。平安で苦悩の無い世界のことです。この世は煩悩によって動かされている世界なので、煩雑で騒々しく落ち着かない世界であり苦悩の絶えない世界です。寂光土は静かな楽の世界です。
 仏さんが教えることを仏教と言いますが、仏教では仏さんは何を教えているのでしょうか。これが仏教であるという旗印は三つあります。「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三つです。これらは三法印と呼ばれています。

 「諸行無常」は、この世の中には常なるものは何も無く、すべてのものが常に変化をし動いている、という意味です。その動きは海の波のように変化をし、同じ動きをするものは一つも無いということです。

 「諸法無我」は、この世の中の法則に「我」は無いという意味です。ニュートンの法則のようにどんなものでも高いところから低いところに落ちるし、例外は無いということです。お金持ちだから、地位が高いから、権力があるから、身体が丈夫だから、またそういうものが無いから、私だから特別に考慮されるということは無いということです。東北大震災では多くの人々が被害を受けました。自然の力に考慮や配慮はありませんでした。

 この世の中が「諸行無常」であり「諸法無我」であることに目覚めると「涅槃寂静」の苦悩のない平安な世界に入ることができる、と仏さんは教えています。

 親鸞は教えに従い比叡山で二十年間難行苦行をしましたが、目覚めるとか覚るとかの心理状態や肉体状態に至るどころの話ではありませんでした。煩悩は燃え盛るばかりでした。人間の欲望をどうしようもなかったのです。二十九歳の盛りでした。

 親鸞は修行をあきらめて比叡山をおりました。そこで出会ったのが、法然上人の念仏の教えでした。自分の力では自分をどうしようもできない人間のために仏さんは念仏を私たちに送ってくれている、という教えでした。正法、像法の世ならともかくも、末法の今の世の中では、仏さんの力に頼るしか救われる道はないと親鸞は覚悟をしたのでした。

 念仏は「わたしにまかせなさい」という仏さんの言葉であり、同時に「仏さんにおまかせします」という私たちの心です。私たちが生きている間は「涅槃寂静」は無理なようですが、私たちの人生をなんとかしてあげようと願っている仏さんの存在は、念仏を称えることによって感ずることができるのではないでしょうか。そこに安らぎの心も生じてくるように思われるのです。
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親鸞聖人は、その著書「教行信証」の行巻で、「大行とは則ち無碍光如来のみ名を称するなり」と言っています。何か物事を成し遂げるためには、そのための努力をし、行動をしなければなりません。それを修行といいますが、私たち凡人の力(自力)は弱く効果的な修行をすることができません。そこで仏は、念仏行という行を私たちに与えてくれました。「南無阿弥陀仏」と称えるだけでいいのです。仏があらゆる功徳を念仏の中に込めてくださっているからです。念仏を称えるだけで救われるのです。仏力であり他力だからです。  
宗 
 
仏さんの言葉に「宗意安心(しゅういあんじん)」という言葉があります。仏教という宗教が目指すところは、人々に安らかな心を生じさせることである、という意味です。表面的な安心でもないし一時的な安心でもありません。宇宙とか大自然とか真理というような不動のものに裏付けられた安心です。
 弱い人間が、生きる望みを失い、生きる意味も失い、絶望の極地に恐れおののいている時に、温かい手を差し伸べられたらどうでしょう。本当に安心するのではないでしょうか。その手が善意の手か悪意の手かなどと考えている余裕などありません。信ずるしかありません。信ずることによってのみ安らかな心を生じさせることができるのです。
 親鸞は、私たちの心は物事を信ずることができるほど良い心ではない、それでもいいのだ、とまで言っています。仏さんは私たちに、信ずる心まで与えてくれるからだ、と教えています。
 仏さんは、念仏を称えると心に安らぎが出てくると教えています。念仏はただ口で「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」と声に出すだけです。ただそれだけです。このように私が言うと、「嘘くさい、いかさまだ、ごまかしだ、子供だましだ、そんなことあるわげね、」と非難されそうですが、本当のことです。
 日本古来の武道である柔道は、初心者にはまず柔道の基本の型を教えます。初心者は基本の型の意味も重要さもわかりませんが、先輩に教えられるとおりに基本の型をまねしてやってみます。基本の型を実際に身体を使ってやっているうちに、その型の意味や重要さがわかってきます。そして実際に相手を投げ倒すことができるようになります。
初心者が基本の型を信じていようがいまいがどうでもよいことです。ただ実践しているうちに信心が湧いてくるのです。基本の型の中にすでに信心が入っているとも言えるでしょう。それは基本の型を作った人の信心ですが、その信心が初心者の心の中にしみこんで、初心者の信心となるのではないでしょうか。
 念仏も同じことでしょう。親鸞聖人も「唯称念仏」という言葉を使って、ただ念仏を称えることをすすめています。浄土真宗の宗教学者である金子大榮師が言っています。
 
    「 手を合わせるかたちが おがむ心を生みだした 」
                            
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 重  「重誓偈」

親鸞聖人が一番大事に思っているお経は「仏説大無量寿経」というお経です。このお経の中に次のようなことが説かれています。
 仏さんが仏さんになる前、私たちの住んでいる人間の世界におられた時の名前を法蔵菩薩と言います。法蔵菩薩が、私たち人間の苦しんでいる姿を見て、どうにかして救ってあげたいと思い四十八の願いを立てました。
 その直後に、四十八の願いを必ず実現させるための三つの誓いを立てました。
 
 一 衆生を最高の幸福の道へ導くことができなければ、私は仏にはならない。
 二 いろんな貧しさと苦しみから衆生を救うことができなければ、私は仏にならない。 
 三 お念仏を称えるどんな人間をも救うことができなければ、私は仏にならない。
 
という三つの誓いです。
 この誓いを四句十一行の偈文に表しました。三誓偈と言うお経です。お盆にお墓で読んでいるお経です。
 
法蔵菩薩が三つの誓いを立てたのは、法蔵菩薩の恩師である仏さんの世自在王仏の前においてでした。世自在王仏は、この世のあらゆる法則にとらわれること無く超越していて自由自在で、世間のために利益になることをするという点においては最高の仏さんです。
 
私たちの宗教である浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、三誓偈の三つの誓いの中の、「念仏を称える人を救う」という誓いを重く見ました。それで親鸞聖人は、この誓いが立てられているこの三誓偈を「重誓偈」とも呼んでいるわけです。

 親鸞聖人は
 
       念仏成仏是真宗 ( ねんぶつ じょうぶつ これ しんしゅう )
 
 と言っています。
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浄土真宗で大切にしているお経が三つあります。大無量寿経と観無量寿経と阿弥陀経です。この観無量寿経の中に正観という言葉があります。物事のありのままの姿を観るという意味の言葉です。 

 もうすぐ春になりますが、春になると黄色の菜の花が咲きます。あたり一面に咲く菜の花を見た人はどのように感じ、どんなことを考えるでしょうか。人それぞれでしょうが、ある人は「今年の花のできは良いから、菜種油がいっぱいとれそうだ。」と言うかもしれません。またある人は「収穫した菜種油は高く売れるだろうか、心配だ。」と言うかもしれません。

人によっては「菜種油が採れたらどんな料理を作ろうか、そもそも油はおいしいだろうか。」、「なんと言っても春は菜の花が一番美しい。今年の花は特に良い。」、「菜の花なんかたいした金にならないから、植えるだけばからしい。」、「菜の花は野菜だろうか、それとも花だろうか。植物学的には何科に属するのか。」などなどいろいろ考えたり感じたりすることでしょう。

 それぞれの人の考え方や感じ方が異なるのは、視点が異なるからでしょう。物を見る時に、それぞれの人がそれぞれ異なる色眼鏡をかけて見ている、というこではないでしょうか。食欲という色眼鏡をかけて菜の花を見ると、菜の花はおいしそうだとか、菜種油は何々の料理に合うだとか考えるのでしょう。

金銭欲という色眼鏡をかけていると、高く売れそうだとか、役に立たない無用のものだとか思うのでしょう。知識欲という色眼鏡をかけていると、これは何という種類の植物だろうなどと考えるのかもしれません。

 色眼鏡をかけないで菜の花を観るとどうなるのでしょうか。もしかすると、菜の花がそこに咲いていても気がつかないかもしれません。人によっては通り過ぎてしまうかもしれませんが、菜の花の黄色の美しさが目に飛び込んで来る人もいるでしょう。菜の花畑の景色に心安らぐ人がいるかもしれません。

菜の花が自然に目の中に飛び込んで、心の中に映し出された菜の花が、自然な感情を呼び起こすのではないでしょうか。無条件に「ああ〜美しい」という感覚です。自然に心が安らぐ感覚です。

 特別の視点や色眼鏡を通さないで自然に物事を観た時に見えるものが、そのもののありのままの姿ではないでしょうか。ありのままの姿には、真・善・美という言葉で表されるようなものがにじみ出ているように思われるのです。間違いをおそれずに思い切って言いますと、真・善・美は仏さんの姿でもあるのではないでしょうか。
 小林一茶は 「 としよりや 月をみるにも なむあみだ 」 という句を詠んでいます。昔の年寄りは、仏さんの前で念仏をとなえるだけでなく、月を観ても念仏を称えていたということです。
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 正  「正覚」

親鸞の「高僧和讃」という詩の中に、次のようにあります。
    
     如来淨華の聖衆は       仏さんの救いの手の上に乗ったみなさんは
     正覚の華より化生して     仏さんと同じく浄土の蓮華の上に誕生し
     衆生の願楽ことごとく     願うことはみなかなえられ、あらゆる楽しみ
     すみやかにとく満足す     に満たされる
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「清音」

浄土真宗において「真実の教」と言われる「仏説大無量寿経」に「清風時発、出五音声」という言葉が出ています。「清風時におこりて、五つの音声を出す」と読みます。この「仏説大無量寿経」には、仏さんの住んでいる極楽浄土について書かれています。

 極楽浄土には菩提樹という大木があります。あまりに巨木で大きさを測ることもできないほどです。極楽浄土に微風が吹くと、菩提樹の枝と枝についている葉という葉がすべてゆれ動いて、すばらしい音を出すそうです。この音はいろいろな仏さんたちの国々に響き渡ります。この音を聞いた者は悩みや煩いが無くなり悟(さと)りを得ることができるそうです。悟りを得た者は、目には美しい光が見え、耳にはすばらしい音が聞こえ、舌には深い味わいを感じ、鼻には妙なる香りを嗅ぎ、心には仏さんの教える法を得ることができるそうです。
 
本明寺の門の掲示板に一月の言葉として

        幸せ者とは  小さな喜びを  十分に 味わえる人
 
という言葉を掲示しました。

 「清風」は「清浄なる風」です。嘘や偽りの無い風です。自然のそのままの風ですのでごまかしがありません。そのような清風によっておこされる音も清浄です。そよ風のような静かな風によっておこされる音ですので大きな音ではありません。大きな音ではありませんが心地の良い音です。私たちを幸せにしてくれる音です。このわずかの音にしあわせを感ずることのできる人は、身体全体の五感で幸せを感じているはずです。仏さんの教える仏法というのは、このようなことではないでしょうか。

 この世には苦しいことや悩み事が尽きることなくありますが、喜びも無いわけではありません。ややもすると私たちは苦しいことばかりに目を向けていることがあります。もしかして、苦しいことばかり探しているようにも思われます。楽しいことを探してみることも必要です。意外なところに意外な楽しみや喜びがあるかもしれません。小さな喜びかもしれませんが、身体全体で幸せを感ずることができるはずです。
 「仏説大無量寿経」に出てくる「清」「音」は、私たちにこのようなことを教えてくれているように思われるのです。
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今は陸中沖地震の真っ最中です。電気もようやく昨晩点灯するようになりました。それでも太平洋岸ではまだ強い余震は続いていて、被害も広がっています。被害者の人数も増える一方です。原子力発電所も爆発寸前だそうです。これからどうなるのかまったく予想もできません。これが自然の力の底知れぬところです。

本明寺の檀家の息子さんで、気仙沼市で学芸員をしている方がおります。この方が二年前に「砂の城」という本を書いております。本の内容は、明治時代に陸中海岸をおそった大津波のことです。この大津波に津波の恐ろしさを教訓として学んだ人たちは、昭和時代に再びおそった大津波で被害を受けることはなかったそうですが、新しく村を作って住み始めた人たちは大変な被害にあったそうです。

 大津波は必ずおそってくることはだれでもわかっていたはずです。過去において30年から40年の周期で津波に襲われているそうです。わかっていても実感として感じられないので無視してしまうようです。この本では、津波は来ると予言していました。必ず来るから準備しておかなけれならない、と言っていました。それなのに、一度津波の被害にあった地域にまた新しい家を建てている人たちがいるのはどうしたことなのか、と危惧していました。

 そして平成時代になって、このような国内史上最大のマグニチュード9という地震に見舞われてしまいました。平和な時間の中にも、大地震の芽は着々と育っていたのです。平和な時間が終わって不幸な時間が始まるのではありません。平和な時間の中にすでに不幸な時間はひそんでいたのです。これが自然の法則であり自然の道理です。

科学的にも地震は必ず起こると予測されていました。科学者自身が本当に実感として地震は起こると信じていれば、もっともっと対策をこうじていたかもしれません。

 自然の道理は真理です。どうしても逆らうことはできないものです。どのように人力を尽くしても避けられないものです。人間の力は、私たちが考えるほど偉大でもすばらしくもありません。自然の大きさには比較などできないほど微力です。そのことを反省することが大事です。

 人間は誕生すると人生を生きることになります。生きるということは老いていくことです。病気にもなることです。そして死んでいくことになります。これが道理です。あたりまえのことです。ところが、実感としてこのことを私たちがわかっているかというとそうでもありません。仏さんが教えるのはそこのところです。自然の流れというものがあります。逆らえば溺れてしまいます。

 地震が来るとわかっていれば、その地震に備えて準備をすることは当然必要なことです。同じように、私たちの人生には終わりが必ず来るとわかっているのですから、それなりの準備をすることは当然必要なことでしょう。無視してできるだけ見ないようにしていることはできません。真理を見ないようにしていることは無理です。

 この世の真理を教えてくれるのが仏さんです。真理から目を背けてはいけません。
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浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、数多くあるお経の中から「大無量寿経」というお経を一番大事なお経として選びました。このお経のことを親鸞聖人は「真実の教」と言っています。真実のことが書かれている仏さんの教えであるということです。

 「大無量寿経」は簡単に大経とも呼ばれています。大経では念仏を称えて救われていく道を教えている、と親鸞聖人は言います。念仏は南無阿弥陀仏です。ナマンダブでもよいです。救われるということは、願いが実現するということではありません。私たちの望みがかなえられるということではありません。お金持ちにしてくださいとお願いすると、お金持ちにしてもらえるというわけではありません。勝負に勝たせて下さいと言うと勝たせてもらえるということでもありません。病気を治してもらうことでもありません。

 なんだ、なんにも役に立たないということか、と思う方もだいぶおられることでしょう。たしかに私たちの欲望を満足させてもらえることはありません。私たちみんなの欲望を満足させるとどうなるでしょうか。それはとても考えられないことです。みんなが勝負に勝つなんてことがあるでしょうか。みんなが金持ちになってみんなが働かなくてすむような世の中を作ることができるのでしょうか。とてもできないことでしょう。

  仏さんが救うというのは、生きていることに苦しんでいる私たちに安らかな心を与えてくれるということです。お金が無くても、勝負に負けても、病気になっても、そのような状況を受け入れて生きていく力を与えてくれることです。人間生きている限り苦労は無くなりません。苦労が無くなるのはこの世を去る時です。苦労があっても心に安らぎを与えてくれるのが仏さんです。

 仏さんは、念仏をとなえると心に安らぎが出てくると教えています。念仏はただ口で南無阿弥陀仏と声に出すだけです。ただそれだけです。このように私が言うと、「嘘くさい、いかさまだ、ごまかしだ、子供だましだ、そんなことあるわげね、」と非難されそうですが、ほんとうのことです。

 日本古来の武道である柔道は、初心者にはまず柔道の基本の型を教えます。初心者は基本の型の意味も重要さもわかりませんが、先輩に教えられるとおりに基本の型をまねしてやってみます。基本の型を実際に身体を使ってやっているうちに、その型の意味や重要さがわかってきます。そして実際に相手を投げ倒すことができるようになります。

初心者が基本の型を信じていようがいまいがどうでもよいことです。ただ実践しているうちに信心が湧いてくるのです。基本の型の中にすでに信心が入っているとも言えるでしょう。それは基本の型を作った人の信心ですが、その信心が初心者の心の中にしみこんで、初心者の信心となるのではないでしょうか。

 念仏も同じことでしょう。親鸞聖人も唯称念仏という言葉を使って、ただ念仏を称えることをすすめています。浄土真宗の宗教学者である金子大榮師が言っています。

    「 手を合わせるかたちが おがむ心を生みだした 」
 
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「須弥山」    はシュミセンと読み、世界の中心にある山で、七つの海と七つの山に囲まれており、太陽や月でさえこの山を中心に回っていると言われる高い山のことです。インドの言葉ではスメールと言い、漢字で表すと妙高山と言います。

ヒマラヤ山がイメージされているそうです。ヒマラヤ山は万年雪をいただいていることから雪山(セッセン)とも呼ばれています。

 この山には四天王や諸天が住み、頂上には帝釈天が住むと言われております。仏はこれらの上に位置するものですので、寺院の本堂では、仏がその上に安置されている台のことを「須弥壇(シュミダン)」と言っています。
 
須弥壇は人間の住む世界を表しています。人間の住む世界は、下から順番に地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天と高くなっていますが、私たち人間はどうあがいてもしょせんこの六つの道である六道を生まれては死んでいくことを繰り返しているのが人間の姿である、というのが仏教の考えです。

天といえども苦しみの世界です。天も無常の世界ですのでいつかは必ず出て行かなければなりません。天を出て行く時の苦しみは死ぬより苦しいとされる世界です。この六道を脱出するためには、人間の力では無理なようです。

他力に頼らなければなりません。親鸞聖人は「念仏成仏これ真宗」と言っています。念仏を称えて仏さんに救われていく道が真宗であると教えています。
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仏教語に「正定聚」という語があります。往生の正しく定まったともがらという意味です。命終われば必ず浄土に往生して、仏となることに定まった人のことをいいます。  
寿
人間の命のことを寿命とも言いますが、大自然より与えられた命ということで、人間の力ではどうしようもないものであります。私たちの人生そのものが、人智を超えたものであり、良いとか悪いとかの判断を超えたものでしょう。苦と思えば苦であり、楽と思えば楽であるような面があります。何はともあれ、生きているからこそ苦もあり楽もあるのでしょう。
 生きていることが奇跡のようなこの大宇宙の中で、今生きていることに感謝することが、寿命を楽しむということにつながっていくのではないでしょうか。与えられているこの命のありがたさを教えてくれているのが仏の教えであり、仏の知恵です。知恵は無知の闇を照らしてくれる光のようなものです。仏教の儀式では必ずローソクが灯(とも)されますが、仏智の光のようなはたらきを讃(たたえ)えてのことなのです。
聞法しようという気持ちになり、仏さんの世界に耳を傾け、眼を向けることを、「樹心仏地」と親鸞聖人は言っています。心の中に仏さんの世界を置き、仏さんの視点を持ち、仏さんと同じような温かい心を持って生きていこうとする姿勢が樹心仏地であり、ナムアミダブツを称える生活です。

欲望が渦巻くこの世にあっては、仏さんの土地に心を樹()てることは至難の業です。しょっちゅう仏さんの世界を忘れてしまいます。それが人間です。そこで仏さんは、いつでも仏さんの世界を思い起こせるようにと、キーワードとして念仏を私たちに下さいました。

「樹心仏地」  
私たちが家を建てる時、一番最初にしなければならないことは、家を建てる土地の調査です。将来においても安全で安心な土地を探さなければなりません。また、軟弱な地盤であれば補強して、沈下しないような地盤にしなければなりません。時間とともに家が傾いていくようであっては困ります。自然の大木が、安定した大地の上にしか育たないことと同じではないでしょうか。
 
建物そのものについても土台が大事なことは言うまでもありません。基礎がしっかりしていなければ、建物には安定が欠けることになります。不安定であれば、安全がなくなり安心ができなくなります。何事も根本が大事だということではないでしょうか。

人生は重荷を背負いて山道を登るがごとし、というようなことわざがあります。重荷を背負っている人が、荷の重さに耐えかねている時に、私たちは何ができるでしょうか。重荷を背中から降ろしてあげればよいのですが、重荷を降ろすことは人生に終止符を打つことだとしたらどうでしょうか。そんなことはできません。

私たちにできることは、山道を歩きやすいように整備してあげるとか、重荷を背負う力を出せるように栄養をつけてあげるとかでしょう。しかし、現実の人生における山道は簡単に整備はできないようです。いつ何が起きるかわからないからです。難題が山積しています。身体に栄養をつけると言っても、栄養が身体にまわって、栄養が筋肉になって重荷を支える力となるまでに、重さに耐えていられるかどうか問題です。

荷の重さにつぶされそうになっている人に今必要なことは何でしょうか。それは、同じく人生の重荷を背負って歩いている私たちの励ましの心ではないでしょうか。身近には、夫婦、親、子、兄弟、祖父母などの家族の心です。親戚、近所、町内の人たちもそうでしょう。職場もあります。お互いに助け合い励まし合う心が、重荷を背負う力となってくれるのはないでしょうか。重荷を軽くすることはできません。苦をなくすることもできません。それでも人生の山道を歩いて行くことはできるのです。

私たち一人一人の励ましの心は慈悲の心です。仏心(ほとけごころ)とも言います。仏さんが教えてくれるのはこの心です。人生の山道を歩く者同士が、お互いに慈しみ悲しみ合う心を持つようにと教えてくれます。一人では登り切ることのできない山道も、みんなで一緒に励まし合う心の環境があれば、苦を苦ともせずに登り切ることができるのではないでしょうか。

仏教に「樹心仏地」という言葉があります。この言葉の意味は、人間はしっかりとした土台の上に立つことが大切であるという意味です。心の根を大地に深くのばすことです。仏さんの慈悲心という大地に樹(た)つことを「樹心仏地」と言い、ここにこそ安らぎの心がある、と仏さんは教えています。安らぎの心が生きる力となります。
 ナマンダブ(南無阿弥陀仏)という念仏は、「樹心仏地」の気持ちをいつも忘れないようにという心の表現でもあります。
 
  
H22
初 
菩薩が修行をして最初に得る位を「初地(しよじ)」といいます。「初地」の位になると必ず仏さんになることができるという望みを持ち歓喜の心を起こすので「歓喜地(かんぎち)」ともいいます。

 また、私たち衆生でも阿弥陀仏を信じて念仏を称えるものは、死後必ず仏になる身に定められているので、仏さんを信ずる心には歓喜の心が起こってくるといわれます。

 親鸞聖人は、著書である教行信証の中で次のように言っています。
  
   真実の行信を得れば 心に歓喜多し、 これを歓喜地と名づく
 
 「行」は修行のことですが、山の中を走り回ったり、座禅を組んだりする難行苦行のことではありません。私たち凡人は、難行苦行に耐えられるほど賢くも強くもありません。親鸞聖人でさえ二十年間も比叡山で修行をしたのですが、煩悩から離れ覚りをひらくことはできませんでした。私たちには無理なことです。

 そこで仏さんは、地位も名誉も権力も経済力も能力も体力も何も無い私たちのために、とっておきの行を準備してくれました。それが念仏行です。それも口に称えるだけでよいのです。修行をするための努力も必要ないのか!と思いますが、必要ないのです。努力をする力も無い私たちのために、仏さんが私たちにかわって努力をして難儀をしてくださったものです。

 考えてみれば、心の中によこしまな煩悩を持ったままでどんなに良いことをしたとしても、自分自身にとってはとても利益になるようなこととは言いがたいのでしょう。純粋な心から出たものでなければ、純粋に価値のあるものとは言えないような気がします。

 「真実の行信」とは「南無阿弥陀仏」のことです。念仏のことです。「なむあみだぶつ」と口で称えると心に喜びの気持ちが出てくる、と親鸞は言っています。ところがおもしろいことに親鸞自身が「念仏を称えても、喜びの心は起こってこない」とも言っています。

そのわけは、煩悩が喜びの心を抑えていて、素直に喜べないのが私たちの現実だというのです。そのような情けない私たちであるからこそ、仏さんは救ってあげたいと強く思っているのだ、と親鸞は教えています。

 私たちの毎日の生活の中で、念仏を称えて手を合わせて生きていこうとする姿勢には、自然に安らぎの心が生まれてくるように思われるのですが、どうでしょうか。理屈では理解できないことでも、行動することによってわかってくることもあるように思われるのです。
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「清浄功徳1」 清浄(しょうじょう)は真実をあらわします。真実は光明となってあらわれます。光明は智恵の光明といって煩悩の闇を晴らしてくれます。これは念仏のはたらきです。

「清」は煩悩の汚れがなく、嘘や偽りのない真実の、という意味です。

極楽浄土は、清浄功徳に満ちていると言われます。「浄土は、阿弥陀仏の清浄なるさとりによって荘厳(かざること)せられたものにして、迷いの世界の不浄な相と離れたもの故かくいふ。」と真宗辞典にあります。「清浄」は、煩悩、私欲から離れ清らかなことです。功徳は、善を積み上げて得られたものです。この功徳を因として仏となることができるし、しあわせになることができます。この清浄功徳に満ちている浄土では、生きとし生けるものはすべて仏様で、皆しあわせに生活しています。

この世の中では、いろんなことが起こっています。うれしいことや悲しいこと、良かったことや困ったことなどさまざまです。私たちが望んでいるようなことはめったに起きないで、むしろ望まないことばかりが起きているような気さえします。それだけこの世は困ったことが多いのかもしれません。 
 望まないことばかり起きるのは、私たちの欲望が大きすぎるということも考えられます。欲望は大きいというよりも果てしがありません。この欲望に私たちの心が支配されていて、少しばかりの幸(しあわ)せでは満足できないような仕組みになっているようです。すみっこにあるような小さな幸せでは我慢できないのです。もっと多く、もっと長く、さらにたくさんと、望みは果てしがありません。
 
欲望が私たちの幸せを遮(さえぎ)り、遠ざけているのかもしれません。仏さんは、私たちが欲望に迷わされている、と言います。私たちが道に迷って、幸せを見つけ出せないでいるのだと教えてくれています。迷いの世界を不浄の世界と言います。暗闇の世界です。道が見えないのです。
 
本当の道を照らし出してくれる光明は、真実を教えてくれる光です。不浄の暗闇を晴らしてくれるので、そこに出現する世界は清浄の世界です。
 
 極楽浄土はあの世のものとは限りません。この世でも見ることはできます。地獄だってこの世にあるのです。極楽があっても不思議ではありません。私たちの生きているこの世は、地獄でもあり極楽でもあるのでしょう。
 それでは、極楽に生きるためにはどうすればよいのでしょうか。仏さんはいろいろ教えてくれていますが、言葉で簡単に説明できるようなことではないようです。常日頃、仏さんってなんだろう、教えはどんなことだろう、幸せってどういうことだろうなどと気にかけているうち、仏さんが私たちの心の中に入り込んで、私たちを極楽に導いてくれるのではないでしょうか。
 極楽へ続く道を進む第一歩が、南無阿弥陀仏と口に称えることです。ナマンダブでも良いです。まずは口に出して称えてみることです。

「清浄功徳2」  健康のための薬のコマーシャルなどがテレビで盛んに宣伝されています。コマーシャルの指示通りに生活をしていれば絶対に病気にはならないような気にさえなります。老いていくことさえ無くなるようにも思われます。その結果、死というものから遠く離れていき、死の存在さえ忘れてしまうことになりそうです。
 
現実の生活においてはどうでしょうか。昨日まで元気に一緒に食事をしていた家族が突然亡くなったり、最近歓談したばかりの知人が事故で急逝したりすることは、身の回りによく起こることです。それでもそんなことは自分の周りに限って起こるはずがないと思っているのが私たちの実情ではないでしょうか。

いつかは必ず起こりうることを起こらないものと願う気持ちはわかりますが、そうあって欲しい世界と真実の世界は異なります。夢の世界は夢の世界でありすばらしい世界でもありますが、真実の世界ではありません。夢は実現することもありますが、たいていは夢のまま終わってしまうようです。真実の世界は現実の世界であり、私たちが実際に生活している世界です。    
 
私たちの目はよく見える健康な目であっても、物事の本当の姿を見ていないことが多いようです。たとえば、動物や植物を見た時どんなことを思うでしょうか。私たちと同じ生命をもつ生物であり、家族や友達がいてそれなりの生活をして生きている存在としてとらえるでしょうか。

それとも、おいしそうな食べ物になりそうだとか、お金にするとどのくらいの価値があるのだろうか、とか考えるのでしょうか。どちらにしても、私たちはそれぞれその時その時の思いをもって都合のよいようにしか物事の姿を見ることができないのではないでしょうか。
 
私たちの都合に合わせた世界ではない本当の世界を「清浄(しょうじょう)」なる世界と言います。真実の世界です。真実の世界では物事が無駄に終わることはありません。必ず良い結果に終わります。必ず良い結果をもたらすものを「功徳」と言います。良いというのは都合が良いということではありません。大自然の法則である真理に逆らわないということです。

「清浄楽」  念仏が生活の中にとけ込んで、生活の一部になった時、この世にも極楽のような美しい樹木や池や山や川があることが見えてくるのではないでしょうか。今まで経験したこともないような良い香りが風にはこばれてきたり、聞いたこともないような心地の良い音楽が流れてきたりするのでしょう。このような音楽を「清浄楽(しょうじょうがく)」と言います。
 
親鸞聖人が「真実の教」と言う「大無量寿経」に次のように書かれています。
 
     清風時発        清(しよう)風(ふう)時(とき)に発(おこ)りて
 
     出五音声        五つの音(おん)声(じよう)を出()だす
 
     微妙宮商        微()妙(みよう)にして宮(きゆう)商(しよう)
 
     自然相和        自()然(ねん)に相(あい)和()す
 
 「五音声」は、雅楽や声明(お経)で使う五つの音階のことです。「五声」とも言い「宮・商・角・?()・羽」にわかれています。「宮」の音と「商」の音は容易に相容()れにくい音どうしですが、極楽浄土においては微妙に自然に調和しているということです。

 不協和音が調和するということではないでしょうか。僧侶のあげるお経の声が種々雑多で異なる音程であってもそれはそれとしてなんとなくまとまっているようなものではないでしょうか。

 極楽浄土にある池の中の蓮華は、青い色は青い光、黄色は黄色い光、赤い色は赤い光、白い色は白い光を放っていて微()妙(みよう)香(こう)潔(けつ)だそうです。青い色は青いままで、赤い色になろうとはしないし、青い色の美しさを光にしている。それぞれの色がそれぞれの色の良さを光にして輝いているということです。

極楽浄土は、比較をしてどちらが優れているというような世界ではありません。自然にそのままですべてのものが調和している世界です。
 この世の私たちの世界はどうでしょうか。極楽のようにはいかないようです。それでも、理想的な極楽の世界が私たちに教えてくれているように、私たち一人一人の違いを乗り越えてお互いに平和に相和して生きていくことが、私たち自身の幸せにつながる道ではないでしょうか。

 そんなことを言ってもできることとできないことがある、というような意見もあります。もちろんそのとおりです。できないことをやろうとするから苦しみが生じます。できないことは無理をせず仏さんにおまかせすることです。できることをしっかりやろうとする姿勢が大事なのではないでしょうか。

 仏さんはどんなに力の無い人間でも捨てることはありません。弱ければ弱いほどなんとかしてあげようと心をかけてくれます。あるがままの姿そのままでよいと言います。大事なのは生きる姿勢です。

 できないことは素直に仏さんにおまかせすることです。「おまかせします」という心が「なむあみだぶつ」です。念仏を称えて、後はしっかり生きることです。
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親鸞聖人が書かれたお経「正信偈」に「佛言広大勝解者」とあります。仏の教えを聞いて信ずるものはすばらしく勝(すぐ)れた理解力を持った者である、と説いているのです。

念仏のいわれを聞いて信じ、念仏を称えると成仏するという教えが仏の教えです。仏の真の教えを明らかにした親鸞聖人の開いた真宗(一向宗)が、「念仏成仏これ真宗」と言われるのはこのためです。

「勝尊」
仏さんはいっぱいいますが、私たちが仏さんとして信じている仏さんの名前は阿弥陀という仏さんです。阿弥陀仏は他の仏さん達からも褒(ほめ)め称(たた)えられるような最も勝れた尊い仏さんなので、最勝尊とも呼ばれています。
 
阿弥陀仏はインドの言葉で、音を表す文字です。阿弥陀仏の意味は、無量寿仏という意味であり無量光仏という意味であります。無量寿は無限なる時間です。無量光は無限なる空間です。限りが無いということは、時間とか空間という考えでは計ることができないということです。時空を超えているとも言えます。
 
お葬式にあげるお経の最初に、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」とあります。南無は南無阿弥陀仏の南無であり、インドの言葉です。南無の意味は「帰命」です。大いなる命に帰るという意味です。大いなる命にすべてをおまかせするという意味です。大いなる命は阿弥陀仏です。仏さんにすべておまかせします、という心が南無阿弥陀仏です。
 
この世に命をいただいた私たちは、限りのある時間と空間の中で一生を過ごしています。何事にも限界があるこの世では、当然のこととして不満や苦しみに耐えなければなりません。怒りや憎しみ、ねたみ、そねみ、うらみ、つらみ、などなど心の中は安らぐひまもありません。
 
私たちの命は短いし、いつでも健康とは限らない。もっと裕福に暮らしたくても、思うとおりにはならない。宝くじには当たらない。幸運なんてそんなにあるものでもない。せっかくこの世に生まれ出たのに、今の自分は十分に幸福だとは思えない。まだまだ足りない、と思い続ける私たちです。
 
この世に生まれてどのように生きていくかを考えることは大切なことです。幸福な生活を送りたいと願うことも当然です。また、生きていくその先には、確実にこの世を去らなければならないという現実もあります。

私たちが生きていくということは、死ぬまで生きていくということです。日常生活では死を意識しないで生活をしていますが、私たちは死ぬまでどのように生きていくかということを考えなければ、人生の半分しか生きていないような気がするのですが、どうでしょうか。
人生には終わりがあるので苦しみも多いのかもしれませんが、短い人生であればこそ一瞬一瞬が大事な時間であるし、無駄にすることはできません。欲望の奴隷となってまだ足りないまだ足りないと求め続ける暇(ひま)はありません。

今のこの一瞬を丁寧に精一杯生きることが命を大切にすることであり、足を大地に踏みしめた生き方ではないでしょうか。
 
過ぎ去った過去のことや、未だ来ぬ未来のことは仏さんにおまかせして、私たちは現在の今をしっかりと生きることが大事ではないでしょうか。私たちは今にしか生きることはできません。あとは仏さんにおまかせするだけです。

仏さんが最勝尊と呼ばれるのは、このような私たちをしっかりと受け止め、私たちの人生を応援し支えて下さるからです。それもただ念仏を称えるだけで良いと言うのです。親鸞聖人は「 念仏成仏 これ真宗 」と言って、念仏を称えることをすすめています。
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「正定業」 親鸞聖人がほめたたえる昔の僧侶が七人おります。その中の一人である善導という高僧が、「寝ても起きても常に心の中に念仏を忘れないでいること」を「正定業」という、と言っています。「正定業」というのは、私たちが救われるという結果を得るように、正しく定められた原因のことをいいます。「定」は心を一境に定めて散乱せしめないこと、とあります。

 「正信偈」の中に「本願名号正定業」とあり、念仏を称えることが正定業だと言っています。

 「正」は仏の教えに照らして間違いがなく正しいという意味です。自然の理にかなっているということでもあります。この世も末だということを、末法の世と言います。反対の言葉に「正法」があります。仏の教えが正しく伝えられ、正しく実行され、正しく悟りを得る人が出るという時期のことを言います。

「正定聚」は不退を参照。

仏さんは、この世に生きている私たちを救うためにあの世からこの世に来られた方です。私たちを何から救うのかというと、苦から救います。苦は迷いから生じると考えられています。迷いは正しい道を見失ったということです。そもそも最初から正しい道を歩んでいなかったという人もいるかもしれません。正しい道とは、人間が本来歩むべき道であり、生きるべき道です。

仏さんは私たちが本来生きるべき道を教えてくれることによって、私たちを救おうとしてくれています。仏さんはこの道を正道(しょうどう)と言います。正道は仏となっていく道です。仏さんになるということはこの世を去ることではありません。仏さんの心を持つことです。仏さんの心は慈悲心です。温かい心です。私たちは生きている限り煩悩から逃れることはできませんが、仏の心を持てば私たち不浄なる者も仏さんです。煩悩を背負った仏さんです。煩悩が大きいほど重くて負担で道を歩くのは辛いですが、それでも仏さんです。仏さんが私たちと同体になってくれて、一緒に歩き一緒に苦しみ一緒に楽しんでくれます。

 「正因」は、往生成仏などの結果を招くべき正当なる因種をいう、と仏教の辞典にあります。仏さんになるための原因ということです。原因は慈悲心です。慈悲心が因となって仏さんという果を得るのです。仏さんは人間の理想の姿です。

こんなことを言うと、「俺は、仏なんかにはなりたくない。俺の理想は金持ちだ。金さえあればなんでも手に入る。」と言う人もいます。ほとんどその通りです。90%以上その通りです。ですが、本当の金持ちになれる人はほとんどいません。さらに金持ちになっても、全員が幸せになり満足できるとは限りません。

現に迷い苦しんでいる私たちにとっては、どのように生きるべきかということは大問題です。間違った道を選んではいけません。仏さんが教えてくれる道が安全確実な公道です。この道は仏道です。

仏道に入る第一歩は「なまんだぶ」と一声念仏を称えることです。そのあとは、手を合わせたり、拝んだり、焼香したり、朝夕に仏壇の前に座ったり、仏事を行うことです。そしてそのたびに仏さんと話をすることです。どんなことでも仏さんに聞いてみることです。聞くことが大切です。

このたび仏さんになられた故人も、仏道を歩む私たちの声に耳を傾け、きっといろんな話をしてくれ、大事なことを教えてくれものと信じます。聞かなければ教えてくれません。

「正因」  私たちの生きているこの世の中は苦労苦労の連続で、休むひまはほとんどありません。ましてや楽しみなどはめったにあるものではありません。生まれてから死ぬまでこのようなことの繰り返しではないでしょうか。

仏教では苦とか楽とかという言葉をよく使いますが、私たちが苦しんだり楽しんだりすることの裏には、苦や楽を生み出す原因があります。風邪をひいて熱を出して苦しんでいるとするなら、風邪をひいてしまうような原因があったはずです。薄着をしていたとか、体力が弱っていたとか、強い風邪の菌をうつされてしまったとかです。

同じように、旅行をして楽しい思いをしているとするなら、楽しい旅行ができるような状況があったはずです。この状況が楽の原因となっているはずです。まず、旅行ができるような健康状態であること、旅行費用をためることができたこと、時間があったことなどです。すべての結果には原因があります。その結果に至るための正しい原因を正因と言います。

苦しみ悩んでいる状態から救われるということがあります。欲望に汚れているこの世の中で悟(さと)りをひらくということがあります。往生するとか仏さんになるということがあります。このような結果を導く正因は、唯一つ「信心」だけであるという教えが仏さんの教えであり、親鸞聖人のすすめる道です。

信心は信ずる心です。仏さんが私たちを苦しみから救ってくれるという約束を信ずる心です。また、すでに救っているという言葉を信ずる心です。だから、仏さんを信じましょう!

このように簡単に言ってしまえばそれまでのことですが、現実には信ずるということは至難の業です。極度に難しいことです。どのように考えても生きている限りは苦からはのがれられません。それなのにどのようにして救ってくれるのでしょうか。これが私たちの正直な気持ちでしょう。 

私たちの頭が混乱してしまう原因は、理屈とか理論とかで納得できる世界と、理屈とか理論では想像できない世界をゴッチャにしてしまうことにあるのではないでしょうか。人間の頭脳が理解できる世界は、この広大な宇宙の中のほんのわずかな部分だけです。無限の真理の中のほんのわずかなことしか理解していないのが私たち人間です。私たちの頭脳はすばらしいものかもしれませんが、理解できることはほんのわずかなことなのではないでしょうか。

仏さんは、人間が信ずる心を持てないのなら、南無阿弥陀仏という念仏のなかに信ずる心も入れてあげよう、そして念仏を称えれば、信心はその念仏を称えた人の信心となるようにしてあげよう、と宣言していますが、皆さんはどのように思いますか。念仏を称えてみようと思いますか、それともばからしいと思いますか。形だけでもやってみよう、と思いますか。

日本には古来茶道、書道、剣道、柔道などの道が多くあります。どの道においても、最初は型から入ります。基本の型を伝授します。これが大切だから最初に教えるのでしょう。どのような達人も基本の型をはずれることはないでしょう。基本の型は、その道を極めた達人が会得したものだからです。基本にすべてがあると言ってもよいのではないでしょうか。

仏道の達人が言っています。「手を合わせるかたちが おがむ心を生みだした」
 私たちの浄土真宗を開いた親鸞も言っています。
                   「念仏を称えて救われて行く道が真宗である」
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「正機」  お医者さんのお客さんは病人です。病んでいる人です。苦しんでいる人です。困っている人です。健康で丈夫で強い人はお客さんになることはできません。仏さんのお客さんは悩み苦しんでいる人です。愚かで弱いがために苦しまなければならない人です。自分で自分をどうにかできるような人ではありません。
 
仏さんは、極悪最下の人には極善最上の法を説いたといわれます。愚かな人には愚かな人にほど良い薬を処方したのでしょう。私たちの親鸞聖人は自分に愚禿釋親鸞という名前を付けています。自分を愚かであると言っているのです。その愚かな人間に、仏さんは念仏を称えることを教えてくれました。
 
お経の裏面に説かれていることは、仏さんの本当のお客さんになれるのは、弱く愚かで貧しくて、良いことをしようとしても力が足りず、ついには悪いことさえしてしまうような悩み苦しむ人たちである、ということです。私たちのほとんどはこのような人間ではないでしょうか。仏さんが本当に救いたいと思っている人のことを「正機」と言います。
 
「正覚」 正しい覚(さと)りという意味です。正しい覚りは仏さんの覚りです。私たち人間は死ぬまで煩悩とは離れることができないので、本当に覚るということはできないようです。本当に覚ることはできませんが、覚りの心を持って生きることはできます。煩悩と覚りを心の中に持ち、覚りが時々顔を出すという状態ではないかと思います。
 
正岡子規という俳人はこんなことを言っています。本当に覚るということは、いつ死んでもよいという、死に対する平気な心を持つことではなく、苦しみが満ちているこの世の中を平気で生きていく心を持つことである。
 
苦しさを苦にして、苦を二倍三倍にして生きているのが私たちではないでしょうか。覚ってしまえば苦が無くなるということではないようです。苦しみながら死んでいくことを恐れないということでもありません。苦を苦としない、苦の中に浸(ひた)りきってしまわない、苦に溺(おぼ)れない、苦は無くなりませんが悩まないということではないでしょうか。

苦があれば楽もあります。この世の中が苦だけということはありません。苦の裏に楽があります。禍福はあざなえる縄のごとし、とも言います。禍(わざわい)と幸福は縄のように交互にやってくるという意味です。このことを自覚することが覚ることになるのでしょう。

「正見
八正道の底を流れているのは正見です。この世の正しいものの見方です。この世の本当の姿はどうなのかということです。この世の本当の姿はこれです。
 
    諸行無常    すべてのものは常に変化していく。生じては滅びるのがものごとのさだめである。
    諸法無我    すべてのものにおいて、「私」とか「私のもの」という実体は存在しない。
    一切皆苦    すべてのものはみな思いどおりにならない。この世で生きることは本質的に苦だ。
    涅槃寂静    この世の本当の姿を理解すれば、真の安らぎ、絶対平安の境地を得られる。

 仏さんの仕事は、私たちにこの世の本当の姿を教えて、心の安らぎを与えてくれることです。
 親鸞は、ひたすら仏さんを頼りにする心が大事だと教えています。念仏の心です。
 
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「称揚」 この世にもあの世にも、仏さんは無数におられるそうです。その仏さん達が皆、南無阿弥陀仏という念仏を口に称え、念仏の働きをほめたたえるそうです。親鸞さんはその著書「教行信證」の中で、仏さんが私達のために誓った願いを「諸仏称名の願」とも「諸仏称揚の願」とも言っております。
 
念仏を称えると私達も仏さんになります。称えるとすぐにそのまま私達も仏さんです。嘘のような本当の話です。念仏の中に功徳といっしょに仏さんの心も入っていて、念仏を称えた時、仏さんの心が私達の心に入ってきます。念仏を称えたあと胸に手を当てて静かに心を探ってみると、私達の心の奥にも仏心が与えられていることに気づきます。この仏心は、他人の苦しみをあわれみ、取り除いてあげたいという心です。楽を与えてあげたいという心です。この心を慈悲心とも言います。
親鸞さんは、念仏を称えて無限の命を生きていくことを「長生不死の神方」と言っています

「称名」  念仏は称名念仏と言いまして、ただ仏さんを頭の中で思い浮かべるのではなく、南無阿弥陀仏と口に称える念仏を仏さんは勧めています。修行だからです。修行は行動です。厳しい修行は、仏さんが菩薩の位にあった時に、私たち衆生の代わりにやってくれました。それで私たちはただ念仏を称えるだけでよいと、仏さんは言っています。

煩悩に汚れている私たちは、どんな行をしても虚仮不実(こけふじつ)の行になってしまうので無駄であるというのです。
親鸞聖人の「愚禿(ぐとく)悲嘆述懐」という和讃にはこのように謳われています。
  
   悪性さらにやめがたし     こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
   修善も雑毒なるゆえに     虚仮の行とぞなづけたる

私たちが救われて行く道は、仏さんの勧めに従って、念仏を称えて救われていく道しかないようです。現実の苦しみの中を生き抜いて行くためには、心の支えとなり頼りとなるものが必要です。私たちの力は非常に弱々しく微少なものです。仏さんの力にすがるよりほかありません。結果をとやかく言う余裕はありません。結果は仏さんにおまかせして、念仏を称えるだけです。










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「精舎」 インドの国に祇園精舎があります。これはお釈迦様が住んでいた寺院です。精舎は、お坊さんが精進をして身も心も清くし、善い行いをして仏さんの教える道を歩んで行くところです。この道は救いの道です。

 仏さんの教えには種々ありますが、親鸞聖人が特にすすめる教えは念仏の教えです。念仏を称えて救われていく道です。救われるということは、簡単に言えば幸福になるということかもしれません。
 貧乏に苦しんでいる人は、金持ちになることが幸福になることだ思うかもしれません。病気で苦しんでいる人は、健康になることが幸福になることだと思うでしょう。しかしお金もあるし健康でもある人は、みんなが幸福かというとそうでもありません。

友達や家族がいなくて淋しい思いをして苦しんでいるかもしれません。もっと美しくなりたい、もっと痩せたい、脚も長くしたい、頭を良くしたいなどなど悩み苦しんでいるかもしれません。欲望がある限り私たちは満足することはありません。

そして欲望は生きている間中私たちから離れることはありません。ということは、私たちは生きている限り幸福にはなれないということでしょうか。
 
欲望の命令に従っている限りは欲望の奴隷にすぎません。満足のできない欲望は苦しみを生み出すだけです。だからといって欲望がまったく悪いというのではありません。欲望も大切な生きるための意欲であり希望でもあります。

食欲が一番強い欲望だそうですが、食欲があるおかげで私たちはご飯をおいしく食べて、健康に生きて行くことができます。この大切な食欲も必要以上に満たしてやると大変なことになります。糖尿病、痛風、高血圧、高脂血症など、健康に生きることを通り越して病気を招く原因となってしまいます。ほかの沢山の欲望も同じことです。
 
欲望を満たしてやることも、少しは幸福へと近づく方法であるかもしれませんが、それだけでどうにかなるということでもないようです。欲望から少し距離を置くことが必要ではないでしょうか。これが精進するということでしょう。

自分の子供がお腹をすかしている時、自分の食欲を抑えて子供に食を与える、というような状況では、自分の食欲は満足できなくても心の安心を得ることができます。幸福を感じさえするでしょう。子供の幸福が自分の幸福にもなります。精進するということは、このようなことではないでしょうか。
 
自分の苦しみをさておいて、他の人の苦しみをどうにかしてあげたいという心は仏心(ほとけごころ)です。仏心は慈悲心とも言われます。誰にでも仏心はあります。この心を仏さんがみんなにすでに与えているというのです。

私たちの心の奥底に煩悩によって隠されている仏心を、表面に引っ張り出してくることが幸福へと近づく一歩ではないでしょうか。仏心を引っ張り出す時の言葉が南無阿弥陀仏です。念仏がキーワードです。

祇園精舎でお釈迦様は、仏心をもって精進する生活をしていたと思われます。
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「證」  親鸞聖人の教えでは「信」ずるということを大切にしますが、その信ずる心さえ湧き起こることのないほど煩悩が深い私たちのために、仏さんは「南無阿弥陀仏」という念仏に、信ずる心までも含めて下さいました。煩悩に汚れた私たちは、ただ念仏を称えるだけでいいのです。念仏が教であり行であり信でもあります。また、念仏を称えるところにその結果である「證」も付いてくるというのです。
 「證」は修行の結果であり悟りとも言えるのですが、私たちが念仏を称えて悟りを得られると言われても、なにせ煩悩の深い私たちには悟りは見えないし実感もできません。それでも、私たちは仏さんに救われて今ここに生きているのだということを信じて、よく目をこらして、耳を澄まして、仏さんの世界を感じようとすれば、時には仏さんの世界が見えてきたり、音が聞こえてきたりするかもしれません。

「證道」  私たちの宗を開いた親鸞上人は、時代が平家から源氏の世の中へと移った鎌倉時代に生きた方でした。権力が貴族から武士へと移り、これから武士達の争いが多くなる戦国時代へと突入して行こうとする不気味な時代でもあったと思われます。仏教界では末法思想が強く意識された時代でもありました。 
 
お釈迦様が滅せられた後五百年間を正法時代と言います。仏さんの教えが正しく伝わり、修行をする人がいて、證(さと)りを開く人がいる時代です。その後千年間を像法時代と言います。仏さんの教え、修行、證りが像(かたち)だけとなる時代です。それ以降一万年間を末法時代と言います。仏さんの教えが衰(おとろ)え、證りを開く人もいなくなる時代です。
 
親鸞上人の生きた時代はまさに末法の時代でした。もちろん私たちの生きている今の時代も末法まっただ中です。親鸞上人は末法の世の中にあって「教行信證」という本を書きました。この本の中でこのように言っています。

     「聖道の諸教は行證久しく廃(すた)れ、浄土の真宗は證道今盛りなり」
 
厳しい修行をして證りを開こうとする教えは効果が無くなった。仏さんの勧(すす)める念仏を称えることで、仏さんの力で證りを開いていこうとする道が今盛んとなっている、と言っています。
 
親鸞聖人の開かれた浄土真宗におきましては、私たちは念仏を称えて救われていく道を歩いて行きます。極楽浄土へと続いている道なので、安心して歩いて行けます。道には菩提樹の姿をした仏様が立っていて、常に私たちを見守ってくれています。煩悩に汚れ悩み苦しんでいる私たちを導いてくれます。私たちは煩悩を背負って念仏の道を歩いて行きます。








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「聖徳太子」  親鸞は、自分自身のことを「虚仮不実のわが身」「清浄の心もさらになし」「悪性さらにやめがたし」「小慈小悲もなき身」であると嘆き悲しみました。本当に純粋で正直な方でした。私たちも自分自身を振り返ってよくよく観てみると、欲望が強く自分のことを中心に考えてばかりいるような自分ではないでしょうか。

このような人間たちが集まっている社会では、争いが絶えることがないのはあたりまえのことです。争いは人間を苦しめるだけです。争いは自分以外の人を傷つけることです。そうでなくても、生きることだけでも大変なこの世の中で、さらに争ってばかりいては苦しい世の中をもっと苦しくしてしまうだけです。  

その昔、聖徳太子は、社会をうまく治めていくためには人間同士の和が大切であると判断しました。そこで、和を大切にする宗教である仏教を日本の国に取り入れることにしました。太子が作った憲法十七条の第一条に「和をもって 貴しとなす」としたのは、社会のためでもあるし、民衆一人一人のためになったことでもありました。 

このような聖徳太子のことを、親鸞は褒め称えています。仏さんが太子の姿を借りてこの世に現れたのである、と言っています。この世に現れた仏さんは、清流も濁流もすべての流れを受け入れる大海のように、善い人も悪い人も、浄(きよ)い人も穢(けが)れた人も区別することなくみんなを救おうとして下さり、社会に和の世界を作り、大いなる和の国を作ろうとして下さりました。「善悪浄穢もなかりけり」とうたい「広大恩徳謝しがたし」と褒め称えています。
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「生きる」  地球上に生きている物はすべて大地から生命をいただいて生きています。空を飛ぶ鳥たちでさえ大地が無ければ生きていることはできません。あらゆる生命を生み出している大地ですので「母なる大地」などと呼ばれています。

私たち人間は親から産まれたといっても、親である人間が人間を作れるものでしょうか。人間はそんなに賢く全能ではありません。人間はただ恋愛をしたり結婚をしたり自然の本能のままに行動をしているだけです。

その結果自然に子供が産まれてきたのでしょう。人間は自然の法則に従っただけです。天才と言われる方々が全力を尽くしても、人間にはほど遠いロボットを作るのがやっとです。ましてや普通の人間は人工的に人間を作れるわけがありません。

人間はただただ自然の力に従って行動をして子供を作ることが可能になるのでしょう。
大地という大自然によって地球上に生み出された私たちは、生きている間も自然の法則に従って生きています。

大地が生み出した野菜や果物を食べ、お米や麦や豆を食べ、海や陸上の動物をさえ食料にして食べて生きています。そうしなければ生きられないからです。どんな生物も自然にしたがっているから生きていられます。

自然に反した時は生命も終わる時です。生きている限りは自然に反していないということです。少なくとも自然には生きることを認められているということでしょう。

「無駄な人生」という言葉がありますが、無駄な人生というものがあるのでしょうか。無駄であるのかどうかを誰が判断するのでしょうか。自然に従って生まれ、自然に従って生きた人生に無駄ということがあるのでしょうか。

たとえ生きている時間が数時間だったとしても、二〜三日だったとしても、三〜四年だったとしても無駄であったと言えるでしょうか。どんなに小さな虫でも、どんなにはかない命の虫でも、それがこの世での命です。夏のセミも一夏の命です。それが自然の法則です。
人間は虫ではないと言っても、命の長さに決まりがあるわけではありません。その人その人に与えられた命の長さというものがあります。命の価値が長さによって計れるものではありません。

 どんな生き方をしても、どんな人生であっても、仏さんは「それでいいんだよ」と言ってくれます。社会的な責任のことを問題にしているのではありません。命の大切さを考えているのです。生きているだけですごいことなんだと教えてくれるのが仏さんです。

生きているという行いが大切なことで、生きているということだけで、そこには価値が満ちている、と仏さんは教えています。

生きていることの意味は何か、生きていることに価値はあるのかというようなことが話題になることがありますが、答えをさがしだすことは至難の業です。生きているということの外に答えは無いからです。生きているということが答えであり価値であるのでしょう。

 誰でも一生懸命生きているのです。一生懸命生きているとその結果はどうなるのか、などと考えてもどうしようもありません。結果は自然におまかせするしかありません。自分にとって都合の良い結果かもしれないし都合の悪い結果かもしれません。

どちらにしてもおまかせするしかないでしょう。南無阿弥陀仏という念仏は、すべてをおまかせしますという意味です。人生は自分の思い通りにならないことばかりです。思い通りにしようとすれば苦労をします。苦痛です。

いっそのこと仏さんにおまかせしてしまえば楽になります。私たちは今生きていることに喜びを見出していくことが大事ではないでしょうか。生きていくという行いには喜びが満ちているはずです。
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祥   
私達の日常生活は、毎日が楽しくて幸せなことばかりとは限りません。むしろ、つらいことや苦しいこと、いやなことが連続している日々ではないでしょうか。なぜこのようになるのでしょうか。
 
仏さんは、その原因を私達の心の中に見つけました。煩悩です。煩悩は熱い太陽に照らされた乾いた砂のようなもので、いくら水を注いでもすぐに乾燥してしまいます。満足するということがありません。私達はどんなに恵まれていてもそのことに気付くことがありません。煩悩という色眼鏡を通して世界を見ているからです。
 
ごまかしのない、うそいつわりのない、本当の姿が見える世界を浄土と言いますが、現代の言葉で言えば真実の世界とか、科学の世界とかいうのかもしれません。仏さんはこの真実の世界から悩み苦しむ私達を見て憐れみ、本当の世界を知らせるためにこの世に人間の姿をして現れました。
 
この世からあの世へ行くということは、この世の煩悩によって作られたうそいつわりの暗闇の世界を抜け出して、あの世の苦しみや悩みの無い安らぎの世界へ行くということですので、おめでたいことであるということでもあります。

亡くなった方達の亡くなった月を「祥月」と言い、亡くなった日を「祥月命日」と言いますが、「祥」は「おめでたい」という意味で、煩悩を離れてよかったな、という意味です。
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たったひとつの乗り物の意味です。煩悩が深く、罪を重ね続ける我々衆生をどう しても救いとってやりたいという阿弥陀仏の願いの力は強く、必ず迷いの世界か ら悟りの世界へと我々衆生を送り届けることのできる乗り物にたとえられます。仏の願い、つまり本願そのもののことをいいます。親鸞聖人の説かれる念仏

「南無阿弥陀仏」にこの仏の願いが込められています。親鸞聖人の開かれた浄土真宗(一向宗)では、念仏を称えて救われていく道が説かれおります。

「大乗」  親鸞聖人の書かれた「高僧和讃」に「生死の苦海ほとりなし、ひさしくしずめる我等をば、弥陀弘誓の船のみぞ、のせてかならずわたしける」とあります。仏の願いの込められた弘誓の船だけが、私たちをこの世の苦しみから救ってくれるといっております。この船は人々を差別せず誰でも乗せてくれるので「大乗」ともいわれます。

昔は、私たち衆生が救われるためには、良い行いをして自分自身を高めなければいけない、と考えられていました。良い行いとは、寺に莫大な貢献をし、本堂を建築したり仏像を寄進したり、高価な衣や袈裟(けさ)を僧侶に買い与えたりすることでした。自分を高めるためには、座禅をしたり断食をしたり厳しい修行に耐え抜いたり、ということもしなければなりませんでした。

ところが、お寺に高額の寄付をすることができる人は、貴族や武士の高い位にある一握りの人たちだけでした。また、厳しい修行に耐えられる人というのも限られていました。第一に身体が丈夫でなければなりません。精神的にも強くなければやり抜くことはできません。もちろん頭も良くなければなりません。このように、あれやこれやと三拍子そろった人はそんなにいるわけがありませんでした。

そのような時代に、念仏一つで救われることができると説いたのが親鸞聖人でした。民衆の大部分を占める身分の低い人たちや、賀茂の河原で暮らしていたホームレスの人たちさえも、親鸞聖人の周りに集まってきました。どんな人たちでも救われる、むしろ貧しい人、弱い人をこそ救うのが仏さんだ、と親鸞聖人は説いたのでした。

特別の人だけを救うのではなく、どんな人でも救って極楽浄土へと連れて行ってくれる大きな船のようなものが念仏の教えである、というのです。仏さんの教えは、このような大きな乗り物にたとえられて「大乗仏教」と呼ばれてきました。

故人も大きな乗り物に乗せていただいて、極楽浄土へ往きます。極楽浄土へ往って仏さんになります。仏さんは苦しんでいる人を救ってあげたいと願うので、必ずこの世に帰ってきます。この世に帰って来て、私たちを救おうと努力をします。耳を澄ましてよく聴くと声が聞こえることもあるでしょう。目を凝()らしてよく見ると姿が見えることもあるでしょう。

聴こうという気持ち、見ようとする心が大切です。仏さんはこの世の真実を教えてくれます。真実を知ろうとする姿勢が大切です。幸せは真実の上にあります。最初から無理だとあきらめたら何も始まりません。

幸せの扉(とびら)も押さなければ開きません。押し続けることが大切です。生きる姿勢が大事です。生きる姿勢が幸せを呼び込みます。仏さんは常に応援してくれています。耳を澄まし、目を凝らすことです。
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「浄」は浄土の浄です。浄土が清らかな国であるのは、仏法に従って慈悲につつまれ、「争」い事が「さんずい」(水)に流されるごとく消え去っているからです。

親鸞聖人は和讃の中で、「如来淨華(じょうけ)の聖衆(しょうじゅ)は 正覚(しょうがく)のはなより化生(けしょう)して」願い事がかなえられるとうたっています。「淨華」は、阿弥陀が仏になられた時に座っておられた蓮華の花です。念仏を称えて救われていく衆生(しゅじょう)は浄土の仏と同じ蓮華の上に生まれる、と言われます。これを蓮華化生と言います。仏と同じ位になれるのです。それは、自力ではなく仏の力、他力だからです。

仏様は、信ずることさえままならない私たちに、信ずる心まで与えてくれています。仏が与えてくれた信心なので、「浄信」と言われています。親鸞聖人はその著書「浄土文類聚鈔」に「往相廻向について大行あり、また浄信あり」と言っています。安楽浄土へ行くためには念仏という行と信心が必要であるということです。

「浄見」は「真実を見る」という意味です。「叡知」は「智慧」のことです。真実を見ることのできる智慧、または智慧をもって真実を見る、という意味です。

智慧は人間の知恵ではなく仏さんの智慧です。煩悩に目を閉ざされている人間には見えない真実の世界を見せてくれる智慧です。智慧は、煩悩で閉ざされて暗くなっている闇を晴らしてくれる光のようなものなので、智慧の光明などと言われます。

目が見える私たちにとって、毎日の生活で見ている世界が真実の世界であり、他に世界は無いように思われます。ところが、見ている物は同じでも、心で感じていることは見る人によって異なることはしょっちゅうあります。物の大きさ、美しさ、味わい、匂いなどの感覚、価値が有るとか無いとかの価値基準などは個人によりそれぞれでしょう。私たちの肉眼に写っている物の像は、あくまでも形と色の像であって、その物がもっている性質や特徴、働きなどは目に写りません。

目に写った像が心に届いた時に、その像が心の中にどのように映し出されるのかが問題です。人の心は様々です。みんな異なります。その人の経験や知識や教養、地位、身分、環境などにより、心に映し出される像の意味合いが異なってきます。自分にとって都合の良い像だけを映し出しているかもしれません。人によって異なる世界は真実の世界ではありません。

浄見叡知は、仏さんの教える真実の世界を見せてくれます。真実の世界とはどんな世界かということを、故人の法名をきっかけとして考えていきたいものと思います。仏さんの智慧がどこでどのように働くのかはわかりませんが、耳を傾け、目を向けていると、聞こえて見えてくるかもしれません。聞法の姿勢が必要です。

仏さんの智慧が照らして私たちに見せてくれる世界は、諸行無常の世界であり、一切皆苦の世界です。常なるものは一つもなく、生滅の繰り返しです。生まれた喜びもつかの間、この世を去らなければならない人生です。生老病死苦の世界です。どんなに努力しても成功するとは限りません。成功しても、いつまで続くかもわかりません。無常です。無常は非情です。神も仏もあったもんじゃない、とさえ思われます。これも真実の世界です。

私は故人の法名に「安養」という文字を入れさせていただきました。この世は無常だけれども、この無常が「安養」の世界をも作り出していると仏さんは言います。「安」は心を安らかにし、「養」は身を養うという意味です。この世はあの世と同じく、安養の世界でもあるというのです。どこにあの安養浄土があるというのか、この世のどこを見てもそんなものはあるようには見えません。

浄土真宗の開祖親鸞聖人も、インドや中国の高僧も、この世に浄土を見ているのです。耳を傾け、目を向けると見えてくるかもしれません。故人は今や仏さんですので、仏として私たちに教えてくれます。どうすれば浄土が見えるのか。

親鸞聖人は、ただ念仏を称えなさい、と言います。念仏を称えながら人生を生き、浄土へと続く道を歩いて行くところに浄土が見えてくると言います。

最初からあきらめては道を歩けません。まず一歩です。この一歩が念仏です。

「浄信」 私たちが自分自身の心の中を覗(のぞ)いてみると、そのままではとても他の人には見せられないような欲望の心が大部分を占めています。残りのほんのわずかな空間に、仏さんから頂(いただ)いた仏心が見え隠れしているようです。仏心は仏さんの慈悲心であり、私たちが仏さんを信ずる心でもあります。仏さんから頂いた信心なので淨信と呼んでいます。
 
親鸞聖人は「往相廻向について大行あり、亦淨信あり」(浄土文類聚)と言っています。私たちが救われて行く道には、念仏と信心が与えられている、と言うのです。普通であれば厳しい修行をしなければ救われないのですが、修行に耐えられない弱い人間には、仏さんが、修行の代わりに念仏と念仏に込められた信心を準備して下さったということです。私たちは「ナムアミダブツ」と称えるだけでよいのです。
 
お経の中に涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)という言葉があります。仏の悟りの境地は、全ての煩悩の束縛より脱し、迷いの生死を超越しているので静かである、という意味です。
 阿弥陀仏の願いは苦しむ人間を救うことです。その願いを本願といいます。本願はそのままではかなえられませんが、仏は本願が「成就」するように無量無限の努力をしました。修行をして本願が成就する原因となる功徳を積み上げ、願いがすでにかなえられたというのです。私たち人間はすでに仏の手に救いとられているというのです。

 ただ信じて仏の名前(名号)を称えればよいのです。浄土真宗において親鸞聖人が真実の経と讃えている大無量壽経の中にそのように説かれています。

「念仏成仏これ真宗」

 
「常照」 「正信偈」は親鸞聖人によって作られたお経ですが、この中に「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」と書かれた句があります。私たちの欲望は強く、私たちは食欲、性欲、金銭欲、権力などに振り回され、物事の本当の姿を見ることができなくなっています。自分にとって得か損かで良いか悪いかを決めてしまいます。

欲望のために眼が見えなくなって、何が本当で何が嘘か判断できないで迷っている私たちを、仏さんは憐れみ悲しみ、なんとかして救ってあげようと常に見守ってくれている、という意味の句です。

「常念」  さてこれからという希望に満ちた春に、この世を去る方々が多いことは、昔から知られていることです。厳しい冬を乗り越えてやっとたどり着いた春に、心の中の緊張が緩んでしまい、身体も油断をしてしまうような状態になるのでしょうか。

うららかな春にはなぜか不意の出来事が目立つようです。冬の厳しさが厳しいほど春の暖かさはうれしいものですが、病気につけいる隙を与えないように用心は必要なものと思われます。
 
私たちは、目が見え耳が聞こえ頭は冴えていても、自分が人生の崖っぷちを歩いていることに気付かないでいることもあります。そもそもこの世に誕生した時から、いつかは必ずこの世を去らなければならない命であることを意識しないで生活しているのが現実でしょう。

少なくとも今の自分には関係のないことだと決めてしまっています。それもやむを得ないことかもしれません。毎日の生活をどうするのかに心を配らなければない社会であり、時代なのですから。
 
仏さんはこの世の無常を説いておられます。常なるものは何一つ無いのだから、この世に頼りになるものもまったくないのだ、だからすべてを諦めなさい・・・と言うわけでもありません。諦めてしまっては、この世はつまらないものになってしまいます。

この世は無常なのだから用心しなさい、あらゆることを省みてこれで良いのかという反省を常々心に置いていなければならない、と説いています。
 
現実をよく見つめた反省の心には、自分の命さえ何時どうなっても不思議ではないこの世において、今自分が生かされて生きていることに感謝の念が生ずるのではないでしょうか。この反省と感謝の心を表す言葉が念仏でもあります。

この忙しい毎日の生活の中で、反省だの感謝だのと思いをめぐらす暇も余裕も無いという方々にとっても、念仏一つで反省と感謝の心を思い起こすこともできます。
 
日常生活において念仏を称えた時、無常のこの世を反省し用心をし、さらに今という時を感謝できることであれば、仏さんの教える念仏「南無阿弥陀仏」・「なまんだぶ」も役に立つもの、効果のあるものとして私たちの生活に必要なものと考えられのです。
 
故人はその前日、愛犬が死んだ時のことを心配していたそうです。自分の身体の具合が悪いことも話していたそうです。しかしながら、自分の命についてはまったく考えてはいなかったようです。もっと人間の命のはかなさと大切さを意識していれば、と思われることです。
 
故人は若くして仏さんになられましたが、これからは仏さんとして私たちを教え導く立場に立たれました。仏壇の前で手を合わせ念仏を称える時、仏さんは私たちになんらかのかたちで私たちに語りかけ、生きる苦しみを安らげてくださるものと思われます。

また、故人の法名「釋常念」が、私たちの命のはかなさと命の大切さを常に思い出させてくれることであれば有り難いことと存じます。

「常行大悲」  仏さんでなくとも、私たち凡人でも仏心は持っています。俺はそんなものは持っていないと言うような人でも、煩悩の霞(かすみ)を振り払ってよく見れば、少しくらいは仏心を持っているものです。仏さんが私たちに平等に仏心を与えてくれているのだそうです。

 仏さんは大慈大悲の行を常に行っています。これを常行大悲と言います。私たちは煩悩にまみれていますので、慈悲の行を常に行うことはできないようですが、たまに少しくらいは慈悲の行らしきものをしてみることはできるのではないでしょうか。

 仏心の実践です。温かい心の実践は仏さんの行為です。煩悩に汚(よご)れた私たちでも、仏さんと同じような行いはできます。常にはできなくても、たまにはできるでしょう。少しでも行うことが大切です。小さな一歩でも仏さんに近づいて行く一歩です。

 念仏を称えて救われて行くと言う教えが私たちの浄土真宗ですが、念仏の心は、「私にまかせなさい」という仏さんの心でもあり、「おまかせします」という私たちの心でもあります。仏さんの心が私たちの心と一体になっていくところに救いがあるのではないでしょうか。

 私たちが仏さんと一体になった時、仏さんと一体になったということがどうしてわかるのでしょうか。それは温かい心の実践という行動に現れてきた時にわかるのではないでしょうか。

仏さんの心を持って、仏さんが常に行動しているように行動すれば、私たちも仏さんと同じになるのではないでしょうか。一時的かもしれませんが私たちも仏さんです。

 ところで、私たちが仏さんになることはそんなにもすばらしいことなのか、という疑問がわいてくるかもしれません。

 仏さんは常にこの世に在住して衆生を救済しようとしているので、極楽浄土には住んでいないはずです。そうすると、私たちと同じようにこの世の苦しみを受けているのでしょうか。

 仏さんの心の中を覗いてみると、苦しんでいる人を救うことに無上の喜びを感じているように思われます。慈悲心とはそんなものではないでしょうか。衆生を救うことを願いとしている仏さんにとって、願いを実現するための行動は苦ではないでしょう。

むしろ楽ではないでしょうか。大変なご苦労であるにしても、喜びであり楽しみでもあるのでしょう。汚れているこの世にいても、仏さんの心は極楽浄土の心ではないかと思われるのです。

私たちが仏さんと同じ心を持ち同じ行動をする時、私たちの心も極楽浄土に遊ぶことができるのではないでしょうか。









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「真諦」は永久に変わらない真実なる道理のことで、仏となるべき道のことをいいます。 自然の世界の法則のことでもあり、因果の法則でもあります。煩悩多き私たちの自力では、とても歩き続けることのできない道でも、仏の慈悲心(他力)に支えられれ

ば歩き通すことができます。慈悲心の込められた念仏によって導かれるので、この道を念仏道ともいいます。 

土手の桜も散ってしまい、あふれんばかりの観光客も今は静まり、日常の生活に戻りつつあるところでした。散りゆくもの、去りゆくものの代わりに、今度は淡い緑が目に入ってくるようになりました。
 
このような自然の変化は、人間の力の及ばないところで起こります。人間の気持ちや力とは関係なく、自然の法則である真理に基づいて動いているのがこの世界です。真理に則して動いているこの世を見ることのできる目を持った時、覚(悟)ったといいます。この目を仏眼とか法眼と言います。

煩悩の深い私たちは、欲望の色眼鏡を通してこの世を見てしまいます。そこで仏さんは色眼鏡によって生ずる煩悩の闇を晴らすべく、光をもってこの世を照らしてくれています。本当に素直な心でこの世を見ると、この世の真実の有様が見えてきます。仏さんの教えは、真実のこの世の姿を教えてくれるものです。

理屈では簡単に理解したり覚ったりできるのですが、私たち人間はどっぷり煩悩に浸かっていますので、瞬間的に覚ったように感じてもすぐに煩悩の世界に戻ってしまいます。どうしようもない人間です。素直な心など瞬間的に消えてしまいます。親鸞聖人はこのような人間を罪業深重と言っています。

真実を見る目を持ち続けるためには、常に仏さんの教えを聞いている必要があります。しかし、私たちは生きていくためには食べなければなりません。食べるためには働かなくてはなりません。衣食住のためには、多大な時間が必要です。ゆっくり坊主の話など聞いている暇もありません。

仏さんはこのこともわかっています。心配いりません。そこで、仏さんは「念仏を称えなさい」とすすめます。南無阿弥陀仏の六字のうちに、すべての功徳が込められているといいます。厳しい修行をしなくても、どんなに煩悩深くとも、無限の功徳の念仏は、私たちを覚りの道へと導きます。念仏を称える時、心の中に仏の世界が広がります。いつでもどこでも行住坐臥、念仏を称えることは可能です。

故人はもうすでに仏さんになられました。仏さんとして私たちにこの世のことを教えてくれます。耳を傾け、目を向けると必ず教えてくれます。
 

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教行信證。親鸞聖人以前の仏教では、仏の「教」えに従って修「行」をすれば「證(さとり)」を得られると考えられていました。そのとおりですが、親鸞は行の中に「信」がなけれはならないと気がつきました。それで「教行信證」という書を著したのです。

真宗がキリスト教と似ていると言われるのはこの点についてです。

「信女」は、仏教を信じ、仏教の戒律(規則)を守って生きていこうと心に決めた在家の女子の戒名に付ける称号です。(真宗には戒律はないので、戒名といわず法名といいます)

「信士」は、仏教を信じ、仏教の戒律(規則)を守って生きていこうと心に決めた在家の男子の戒名に付ける称号です。

真宗においては、居士・大姉・信士・信女は用いないのが流儀です。


「信證」 浄土真宗の開祖である親鸞は、仏さんの教えを「教行信證」という本にまとめて書きました。この世に生きることは大変難儀なことであり、悩み苦しみが多いものですが、少しでも苦を少なくし楽を多くしようとするならば、仏さんの教えに従って、仏さんの教えるような行動(修行)をしていると必ずその成果(證)を得られますよ、という内容の本です。

それまでの僧侶達の教えと親鸞の教えの異なるところは、親鸞が教行證の行の中に信が無ければならないと教えたところでした。どんな行動も信心がなければ効果が無いと判断したことでした。心のこもっていない行動に意味を見出すことができなかったのです。
 
ただ私たち人間の心は煩悩で満ち満ちており、純粋で清らかな部分などなかなか探そうとしても見つからないような心の状態です。親鸞は自分自身のことを極重悪人とか罪悪深重であると言っています。ましてや純粋な信心など自分の心の中に起こるわけがないと思っていました。そのままでは地獄行きは決定していると考えました。
 そのような時、親鸞は念仏の教えに出会いました。念仏は、自分の力ではどうにもならないような無力で煩悩に汚れきっているような人間のために仏さんが準備してくれたものである、ただ念仏を称えるだけで救われる、という教えでした。純粋に信じる心さえ念仏の中に入っている、という教えです。

ほっておいたらそのまま絶命してしまうような病人に、お医者さんが薬を飲ませたり、注射をしたりするようなものです。薬の中に私たちを救ってくれるようなものを入れて下さっているということでしょう。
 三次元のこの世では、念仏の中に信心がこめられているなどとは考えにくいのですが、四次元、五次元の世界ではあるのかもしれません。仏さんは無限の間修行をして、修行は完了したと言います。この世では今現在も無限に含まれますので修行は今も続いていることになりますが、あの世では完了しているのです。

修行は菩薩行であり、苦しんでいる人達を救う行です。この修行によって得られるものは功徳です。功徳は成果です。救済完了という成果です。あの世ではすでに私たちは救われているようです。この世では念仏に身を任せて心を安らかにしましょう、と親鸞は呼びかけているのではないでしょうか。
 
 念仏が本当に私たちを救ってくれるのかどうか、救われるということはどうなることなのか、よくわからないことだらけですが、高僧達が昔からすすめる仏の教えである念仏は、理論を超えたところで実際に口に称えてみて、日常生活に取り入れられて初めてその効果が理解されるものではないでしょうか。行動するその行の中にすべてがあるのではないでしょうか。
 
優しい心や思いやりの心が大切であることは、皆が知っています。知っているけれどもなかなか実行できないのが現実です。欲望渦巻く煩雑なこの世界では、忘れられがちな心です。この心を思い出させてくれるのが念仏です。念仏を称えると救われるというのは、このことではないでしょうか。
「深廣」 鏡で自分の顔を見てみると、そこにあるのは間違いなく自分の顔ですが、ほとんどの人はその顔に満足はしていないのではないでしょうか。万が一満足しているとしても、もっと良い顔にしたいと願いお化粧をしたり、ひげを剃ったり、髪をなでつけたりするのではないでしょうか。
 
私たちの顔だけではなく身体全部が、自分の物のようですが、自分の思い通りになるものは一つもありません。五体満足で健康であっても、自分の理想とするような身体ではありません。自分の物なのに自分の思い通りならないのはなぜでしょうか。
 
植物も動物も生まれた時から、自分の意志で生まれるものは一つもありません。自分の意志とは関係なく、このような顔と手と足と頭を持たせられて生まれて来ています。親が私たちを産んでくれたと言っても、親は自然の法則に従っただけで、このような私たちの肉体や精神を作ることができるはずもありません。
 
私たちは、大自然の法則に従いこの世に生まれ出ました。大自然の法則に従ってすべてのものが動いているので、この法則には何か意志があるように見えます。もし意志があるとするなら、この意志の持ち主はこのような存在だろうと姿を表現されたのが仏さんではないでしょうか。
大自然の法則は仏さんの教えてくれる法であり仏法とも言います。
 
奥が深く広大な仏法によって私たちの命は生み出されました。私たちが生み出されたこの世で、私たちは生活をし、病気をしたり年老いたり、悩み苦しみ迷いながら死んでいきます。私たち自身の意志とは関係なく、この世に生まれあの世に帰って行かなければなりません。
 
ということは、私たちがどんなに弱い人間であっても、失敗の多い毎日でも、時には人様に笑われるような失態があっても、他の人を満足させられなくとも、自分ではどうしようもない人生なのだから、やるだけやったら後は自然におまかせするしかない、ということではないでしょうか。
 
仏さんは自然にまかせなさい、と言います。このことを親鸞聖人は「帰命」と言います。大きな命の流れにまかせるということです。私たちの命を生み、私たちを生かし、私たちが帰って行く大きな命に全てをまかせなさいと仏さんは教えています。
 
「帰命」をインドの言葉で「南無」といいます。南無阿弥陀仏の南無です。私たちの宗教は浄土真宗という仏教です。「念仏成仏これ真宗」と言い、念仏を称えて救われていくのが真宗の教えです。
仏法である大自然の法則におまかせします、という心が南無阿弥陀仏という念仏となって表れてくることであれば、有り難いことと存じます。
 
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 「南無阿弥陀仏」の意味を漢字で表すと「帰命盡十方無碍光如来」となります。「帰命」は、すべてをまかせなさいという仏のことばであり、同時にすべてをお願いしますという私たちのことばです。「盡十方」は、盡(ことごと)くあらゆる方向という意味です。「無碍光」は、何ものにもさえぎられることのない光です。仏の慈悲心のことです。「如来」は、真実の世界から来るものという意味です。「  
毎日毎日何かの目標や希望などの目指すものに向かって生活をしている私たちですが、目標や希望は必ず達成されるものと自信をもっているわけではないでしょう。自信を持ちたくても持てないのが無常のこの世です。それでも何かに向かって進んで行かなければならないのが人生ではないでしょうか。人生は進みたくなくても進んで行きます。たまたま希望通りになれば幸せなことでしょう。

ところが、私たち人間にとっては、生まれた時から向かっている先にあるものは死です。どんなに人生で成功を収めたと言われる人でも、確実に死に向かって行きます。死を拒絶している限りは救われません。私たちの歩いて行く先には死があるからです。

 仏さんは、死を往生と言います。仏の国に生まれて往くと言います。人間は死んで仏さんになるそうです。私も仏さんになったことはないので自信はありませんが、仏の国を目指してもいいと思っています。

浄土真宗におきましては、念仏を称えながら仏の国を目指します。仏の国へと続いている道を歩いて行きます。人生の道を選ぶのに、念仏の道を勧めるのが真宗です。歩いて行く道に自信が無いなら、私にまかせなさいと言ってくれるのが仏さんです。

念仏の道を歩いて得られる結果を證といいます。親鸞聖人の著書「教行信證」の證です。證は悟りのことでもあります。私たちの歩いて行く道が悟りへと続き、仏さんの国へと続くのであれば、安心して歩くことができます。仏さんの国は完全に安心の国ですので安楽浄土とも呼ばれます。

人生が旅だとすれば、行き先がすてきなところであれば、それだけ旅は楽しいものになります。旅の準備さえ楽しいものです。もしかしたら、目的地に着く前に十分旅を楽しめることもあるかもしれません。目的地もさることながら、道程にこそ深い味わいがあるかもしれません。庭園の花も美しいですが、庭園へと続く道ばたに咲いている雑草のちっぽけな花が美しいことに感動することもあります。

旅の列車の窓から見る景色は新鮮です。南無阿弥陀仏という念仏は、窓のようなものです。新鮮な世界を見せてくれます。列車の中だけでなく、窓の外に目を向けることによって、その土地その土地の風景や生活を見ることができます。
 窓は開いても、目を向け耳を傾け五感をとぎすまさなければ、何も見えないし何も聞こえません。そこに本当の世界、真実の世界が広がっていても気が付きません。光は輝き真実を照らし出していても、窓を開いて見ようとしなければ何も見えません。

今では仏さんとなられた故人も、私たちの歩いて行く人生道のために、旅の案内をしてくれることになりました。私たちが仏さんに問いかけ聞こうとし、学ぼうとすれば教えてくれます。道に迷わないように日々問いかけしなければなりません。
 仏さんに問いかけるために、仏さんを呼ぶ言葉がナマンダブです。
人類の中でもっとも尊い方のことを仏教では「人中尊」と呼びます。この方はつまりは仏さんのことです。人間の中で最も尊敬される方であると同時に、人間という存在を最も大事に思っている方でもあります。人間だけではなく生きとし生けるものの生命すべてを大事に思っている方です。

 仏さんは、この世に生きているものの中で特に人間が苦しみを味わっているようだ、ということで人間に多くの同情を感じているようです。私たちが悲しめば仏さんも悲しみ、私たちが喜べば仏さんも喜ぶそうです。どちらかというと私たちは苦しみ悩み、悲しむことのほうが多い人生を送っているようです。

仏さんはこのような私たち凡夫をなんとかしてあげたくて、いろいろご苦労をしてくださっています。仏さんのこのような優しい温かい心を慈悲心と言います。仏心(ほとけごころ)とも言います。
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須彌山はシュミセンと読み、世界の中心にある山で、七つの海と七つの山に囲まれており、太陽や月でさえこの山を中心に回っていると言われる高い山のことです。インドの言葉ではスメールと言い、漢字で表すと妙高山と言います。ヒマラヤ山脈がイメージされているそうです。
 
この山には四天王や諸天が住み、頂上には帝釈天が住むと言われております。仏はこれらの上に位置するものですので、寺院の本堂では、仏がその上に安置されている台のことを「須彌壇」と言っています。 
「随喜」  六道輪廻の六つの世界の中に天上界という世界がありますが、天上界はさらに多くの上下関係にある世界に分かれているそうです。この世でよいことをした人が一番下の天上界に生まれるとすると、それをそばでよろこんでいる人は一番上の天上界に生まれるそうです。どういうことかというと、よいことをすることよりも、よいことをして下さったと喜ぶほうがむずかしいということだそうです。

善をなすことはある意味では名声のためにでもやれますが、しかしそれをそばで見ていて「よいことをして下さった」と喜ぶことは名声のためにはやれない、ということです。

私たちは人の善行をすなおに喜べないし、よくみることができないようです。それは私たちの心の中に、煩悩というやっかいなものがあるからのようです。私たちが物事をそのまま見ようとしても、ねたみ、そねみ、うらみ、つらみ、いかり、はらだち、などの煩悩が、物事を曲げて見せてしまうからです。赤いものを赤く見せてくれないし、青いものを黄色に見せたりするのです。それで他人の善い行いもすなおに喜べなくなるようです。

仏さんが、南無阿弥陀仏という念仏を称えれば救われますよ、と教えてくれても信じられないし、念仏を称えようという気も起こらないのはしかたのないことです。仏さんの善行をよいことと喜ぶことができないからです。仏さんはすばらしいことを教えてくれているのだなあ、と喜べればよいのですが、なかなか難しいことです。

仏さんは、それでもいいんだよ、と言ってくれます。喜べなくても信じられなくてもよいと言うのです。それではどうするのかというと、ただ念仏を称えればよいと言うのです。形だけでもよいと言います。中身のない形だけでは意味がないという気もしますが、手を合わせ合掌し念仏を称える形の中に、喜ぶ心、信ずる心が生まれてくることもあると教えています。心が形となるだけではなく、形が心を生み出すこともあるのです。

薫習(くんじゅう)という言葉があります。香りの中に身を置いていると、いつの間にかその香りが身に染みついて、生まれた時から身に付いていたもののようになるという意味の言葉です。日本古来の学習方法は、剣道、柔道、茶道、華道、書道などに見られるように、型から入っていくものがほどんどです。

型が容器となってそこに中身が入ってきます。自然に入ってくるようです。中身が先か容器が先か、どちらにしても両者は一体となり、本来一つのものであったかのように自然体になるようです。
 念仏もただ称えるだけでよいと教えてくれるのが仏さんであり親鸞聖人です。深く考える前にまずは称えてみるという姿勢も大切なのではないでしょうか。
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仏さんの教えでは、仏さんが教える方法に随(したが)って生きていけば仏さんの法を悦(よろこ)び楽しむことができるそうです。極楽では誰でもが仏さんの法に随順しているので、この世の苦しみを味あわなくてもすみます。

 それでは、私たちが現実に仏さんの法に随うことができるかというと、どうも無理なようです。まず仏さんを信じられるかというと、正直なところできないでしょう。私たちの心はそんなにも素直には作られていません。疑いの心のほうが強いでしょう。信じられない仏さんの言うとおりに動くこともできないことでしょう。

手を合わせて念仏を称えましょう、と言われてもしぶしぶやっているだけではないでしょうか。心の中は何を考えているのかわかったものではありません。それでは救われようがありません。

 ところが、そのような救われようのない罪悪深重の凡夫をこそ救ってあげようというのが本当の仏さんである、と親鸞聖人は教えています。信心は無くてもよいというのです。私たちの心に信心はなくても、念仏の中に仏さんは信心さえも入れてあると言うのです。念仏はただ称えるだけでよいと言います。無心です。

 極楽はあの世のものですから、どうせこの世は苦しみだけでしょう、念仏を称えてもどうにもならないでしょう、と言ってしまえばそれまでです。理論理屈はそちらにおいて、まずは念仏を称えてみましょう。なにかが変化するかもしれません。「おはよう」という言葉でも、意味もわからず使っているうちに、なぜか心地の良い言葉になってきたのではないでしょうか。

言葉というものはそのようなものではないでしょうか。使っているうちに意味するところが理解できてくるという側面があるのでしょう。

 極楽とか地獄とかいう言葉をあの世のものとして口にしたり文字にしたりしているうちに、このような疑問が出てくるのではないでしょうか。仏さんは、この世に生きて生活をしている私たちには手の届かない極楽とか地獄というような世界のことを、お経の中でなぜあんなにも詳しく説明しているのだろうか。お経の中では、この世のことよりもあの世のことが多く書かれているのです。

 あの世に行けば幸せになれるから、この世では我慢しろということでしょうか。そうではないようです。この世があってのあの世です。この世がなければあの世もありません。この世が中心です。地獄も極楽もこの世のものだということではないでしょうか。煩悩に汚れた私たちの目には見えないことが多いということなのではないでしょうか。

 私たちにできることは、理論や理屈を超えた世界に関心を寄せ興味を持つという一歩を踏み出すことではないでしょうか。その一歩が念仏です。ただ称えるだけです。 念仏を称えることが、仏さんの法に随順するということでしょう。
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「救済」を見て下さい H20
「弘誓(ぐぜい)」を見てください。  
「清」は煩悩の汚れがなく、嘘や偽りのない真実の、という意味です。    
親鸞聖人は数多いお経の中から三部経を大切なお経として選ばれました。大無量寿経と観無量寿経と阿弥陀経です。この中の観無量寿経に、「是心作佛」という語が出てきます。「心に佛を想う時、是(この)心は即ち三十二相八十随形好なり。是

の心が佛に作(な)る、是の心これ佛なり。」とあります。仏のことを心に思い浮かべる時、その心は仏と同じになるというのです。仏の正体は慈悲心です。苦しんでいる人たちを救おうという仏の姿が私たちの心に浮かぶ時、私たちの心にも仏心

すなわち慈悲心が宿るのです。今心の中に仏を想うことが念仏です。

 
「刹那」  今現在の瞬間のことを「刹那(せつな)」と言います。刹那は一秒間の何十分の一の瞬間のことだそうです。今この一瞬を大切に生きましょう、と教えています。今の自分は確かに生きています。生きていることの重要さをつくづくと考えると、感謝の念さえ湧いてくるかも知しれません。
 
苦しいことの多い人生の中で、大きく目を開けてよく見てみると、恵まれていることも限りなく多いことに気付くのでないでしょうか。自然の恵みもそのうちの一部でしょう。
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千部論師は天親菩薩を参照。

浄土真宗には「千無一失(せんむいっしつ)」という言葉があります。念仏を称えれば、称えた人が千人いたとすれば千人全員が、一人も欠けることなく浄土に往生することができるという意味です。自力で往生しようとすれば、人間の能力には一人一人違いがあるので、往生できる人もいればできない人もいます。念仏を称えて往

生するのであれば、念仏は仏が無限なる功徳を込められものですので、必ず往生するということです。自力ではなく他力であればこそ、極楽浄土では一番上位の蓮華の花の上に生まれることできるといわれます。 

 
「専心」 親鸞聖人の書かれた聖典である教行信証に「専心といえるは即(すなわ)ち一心なり」とあります。専心は純一なる心のことであり、心を専(もっぱ)ら一つのことに集中することです。親鸞聖人は「一心は即ちこれ真実信心なり」とも言っています。
 
浄土真宗は他力宗とも呼ばれていますが、仏さんを信ずる心さえ仏さんから頂いていることがその理由の一つのようです。自分の力で仏さんを信ずるのではなく、仏さんの力によって仏さんを信じさせていただくことができる、という教えが真宗だからです。

そもそも、私たちは何事も信じようとしても信じられるものではないでしょう。私たちが信じられる十分な根拠を感じればこそ何事も信じられるのでしょう。根拠を感じさせてくれるのは、自分ではなく信じる対象となるものでしょう。信じるのではなく信じさせてもらうのです。
 不浄の私たちの心では、純粋に何かを信ずることなどは至難の業(わざ)のようです。もちろん良い心も純粋な心もあるのでしょうが、煩悩に邪魔されることが多いのではないでしょうか。表面に出てくる機会はあまりないようです。

そこで仏さんは念仏に仏心を入れてくれたそうです。仏心は慈悲心です。一心です。真実信心です。
 
南無阿弥陀仏と称える時、私たちの心の奥底に眠っている仏心(ほとけごころ)が、念仏に込められている仏心に呼び覚まされるのではないでしょうか。私たちが自分で信じているかどうかは別にして唯(ただ)念仏を称えるだけで良いと親鸞聖人は言います。

親鸞自身疑いの心から逃れることはできなかったそうです。それでも仏さんにすべてお任せするより他に救われる方法がなかったので、唯念仏を称えることに全てを賭けたのでした。
 
自分の力ではどうにもならないし、どこでも救ってもらえない、誰にも救ってもらえない、こんな救いようのない私たちであればこそ、仏さんはどうにかしてあげたいと心をかけてくれるのではないでしょうか。

力のある人や強い人、賢い人や立派な人は自分で自分をどうにかできるのでしょうが、凡夫の私たちには無理なことです。ただ一心に仏さんにお任せするだけです。もちろん、やれることを懸命にやったうえでのことです。
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善人とは、自分が悪い人ではなく良い人であると思いこみ、反省することのない人のことです。正直に自分を見つめると、良いところも悪いところもあわせ持っているのが本当でしょう。   

「善巧方便」 仏法は私たち人間に説かれる時、いつも同じ方法で同じことを説かれることはありません。時と場所と場合とが考慮されて、その状態に応じた説かれ方をします。仏法は仏の教えとして説かれる時、説教とか法話と呼ばれます。法話は、時と場所と場合に応じて、その一人一人の人間にあわせて善く巧みに説かれるので「善巧方便」と言われます。方便は方法です。
 
浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、高僧和讃という文の中で「釈迦弥陀(しゃかみだ)は慈悲の父母、種種に善巧方便し」と謳(うた)っています。
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浄土(理想の世界)においては仏様と仏様が、いつもお互いの相(すがた)を心に思い浮か、お互いの幸せを念じ合っています。いつも相手の喜びを自分の喜びとし、相手の悲しみを自分の悲しみとし、一心同体のごとく過ごしています。 このことを「仏仏想念」(ぶつぶつそうねん)といいます。  
お釈迦様が亡くなられたとき、その周りに沙羅樹(さらじゅ)という木が、四方に各2本ずつ計8本ありました。この木を沙羅双樹(さらそうじゅ)といいます。お釈迦様がこの世を去られる時、この木々でさえ悲しみのあまりにその葉という葉をすべて白くしてしまいました。お葬式の時にお骨の両側に白い和紙のついた木を置くのは、沙羅双樹の深い悲しみを表しているのだそうです。  
 仏教に「佛佛想念(ぶつぶつそうねん)」という言葉があります。私たちが理想とする安養浄土(極楽浄土)では、仏と仏がお互いにお互いの幸せを願って、相手の姿や容姿(相)を心に想い浮かべて、幸せであるようにと願い、念じているそうです。浄土に住んでいるのは仏だけです。その仏たちが皆お互いにお互いの幸せを願っているのですから、浄土は「争(あらそ)」いが「@(みず)」に流されたように「浄(きよらか)」な国土になっているのです。  
「体」を参照

親鸞聖人の書かれた和讃に「智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく 光暁かむらぬものはなし 真実明に帰命せよ」とあります。「有量の諸相ことごとく」という言葉の意味は、迷いの世界で生活している私たち衆生は、それぞれが各人各様の生活をしており、一人一人異なる人生を送っていますが、そのような人間がすべて、という意味です。 人間は皆平等に、仏さんに光を当てられ照らし出されています。光を受けると本当の自分の姿が現れてきます。本当の姿は、煩悩が深く、ねたみ、そねみ、うらみ、いかり、腹立つあわれな人間の姿です。これが真実の姿です。この光が真実を照らし出してくれるので、「智慧の光明」と呼ばれます。
 私たちのあわれな姿を照らし出して、それで終わり、ではありません。あわれであるからこそ悲しみ慈しみ、なんとか救ってあげようと思うのが仏さんです。それで仏さんの光を慈悲光ともいいます。
 
末法濁世に生きている私たちは、自分の力で救われていくほど清く正しく行動することはできないそうです。私たちの心はどうしようもないほど欲望に支配されています。どうしようもないと認める時、なんとかしてほしいと他の力を頼りにする心が出てきます。仏さんは、私にまかせなさいと言います。頼むという心に応えてまかせなさいと言います。この時の仏さんの心と頼む心が音になって出てくると「南無阿弥陀仏」「ナマンダブー」となります。漢字で表すと「帰命・無量寿・如来」となります。
 
念仏を称える時、仏さんが私たちを救おうと慈悲の光で照らしていてくれることを、私たちは思い出すことができます。慈悲光に照らし出されている本当の姿の私たちは、白い色の人は白いなりに、赤い色の人は赤いなりに、青い色の人は青いなりに、それぞれがそれぞれの美しい光を放って輝いているそうです。このことは阿弥陀経というお経に書かれています。
 
人間の幸福は、他の人との比較によっては見つけることはできません。自分が一番ということはありえないからです。必ずその上があります。幸福の比較は、他人の不幸を願うようにさえなります。そんな幸福はありえません。
 
他の人はどうであっても、自分はどのように照らし出されているのかが大切です。誰でもその人なりの美しい光を放っているそうです。私たちは限界だらけのちっぽけな人間ですが、誰でもがそれぞれの相(すがた)を持っています。その相が美しい光に照らされていると言うのです。こんな自分でも、ありがたいと思われることがすでに与えられていることに気が付くことがあります。それが慈悲光のなせるわざでしょう。そのことに気が付いた時、感謝の気持ちが生じます。
 
念仏は、反省と感謝の気持ちの表現です。反省と感謝の無いところに幸福は築かれないようです。親鸞聖人が念仏をすすめる理由がここらへんにあるのではないでしょうか。
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「大乗1」  親鸞聖人の書かれた「高僧和讃」に「生死の苦海ほとりなし、ひさしくしずめる我等をば、弥陀弘誓の船のみぞ、のせてかならずわたしける」とあります。仏の願いの込められた弘誓の船だけが、私たちをこの世の苦しみから救ってくれるといっております。この船は人々を差別せず誰でも乗せてくれるので「乗」ともいわれます。

「大蔵」  お釈迦さんが説かれた仏さんの教えを、お釈迦さんの弟子達が本にしました。それがお経です。インドの言葉で書かれたお経は、中国で漢字に直されました。日本にあるたいていのお経はこの漢字のお経です。すべてのあらゆるお経を名付けて「大蔵経」とか「一切経」と言います。

本明寺には、この大蔵経があります。門を入って右手に見えるお経堂の中に、六千九百三十巻の経典が納められています。鉄眼の一切経として有名なものです。鉄眼禅師が苦労して作った木版による印刷本です。角館町の有形文化財に指定されています。
 
親鸞聖人はこの大蔵経を九歳から二十九歳の間に、何回も何回も読みました。もちろん厳しい修行もしましたが、どうしても悟りをひらくことができませんでした。煩悩の炎はますます盛んに燃え盛るばかりだったといいます。欲望の炎です。どうしようもありませんでした。それで聖人は自分に愚禿釋親鸞という名を付けました。愚はおろかなと言う意味です。禿は頭髪が無いという意味です。僧侶のように頭は剃()っているが、おろかな人間であり、僧にあらず俗にあらず、という謙遜の言葉です。

「大乗2」  昔は、私たち衆生が救われるためには、良い行いをして自分自身を高めなければいけない、と考えられていました。良い行いとは、寺に莫大な貢献をし、本堂を建築したり仏像を寄進したり、高価な衣や袈裟(けさ)を僧侶に買い与えたりすることでした。自分を高めるためには、座禅をしたり断食をしたり厳しい修行に耐え抜いたりしなければなりませんでした。
 
ところが、お寺に高額の寄付をすることができる人は、貴族や武士の高い位にある一握りの人たちだけでした。また、厳しい修行に耐えられる人というのも限られていました。第一に身体が丈夫でなければなりません。精神的にも強くなければやり抜くことはできません。もちろん頭も良くなければなりません。このように、あれやこれやと三拍子そろった人はそんなにいるわけがありませんでした。
 
そのような時代に、念仏一つで救われることができると説いたのが親鸞聖人でした。民衆の大部分を占める身分の低い人たちや、賀茂の河原で暮らしていたホームレスの人たちさえも、親鸞聖人の周りに集まってきました。どんな人たちでも救われる、むしろ貧しい人、弱い人をこそ救うのが仏さんだ、と親鸞聖人は説いたのでした。
 
特別の人だけを救うのではなく、どんな人でも救って極楽浄土へと連れて行ってくれる大きな船のようなものが念仏の教えである、というのです。仏さんの教えは、このような大きな乗り物にたとえられて「大乗仏教」と呼ばれてきました。

「大悲」 

 開祖である親鸞聖人は、お経の中に次のように書いています。
 
   煩(ぼん)悩(のう)障眼(しようげん)雖不見(すいふけん)      煩悩が眼の障(さわ)りとなって 物が見えずと雖(い                                         えど)も
   大悲(だいひ)無倦(むけん)常(じよう)照(しよう)我(が)     大悲は倦(う)むことなく 常に我を照らす
 
 この世の中に頼りになるものは何一つないように思われる時もあります。本当にひどい世の中だと見える時もあります。煩悩が私達の目を遮(さえぎ)って、本当の世界を見えなくしているからです。しかし表面だけではなく、よく目をこらして見てみると、私達を救おうとしている存在があると言います。

仏さんの大慈悲心の光が私達を常に照らし、私達の周りをも照らしながら、私達に本当の世界の姿を見せて、救い導こうとしていると親鸞聖人は言っています。大慈悲心は、今や仏さんとなった故人の心でもあります。
 仏さんの照らす世界を見ようとする心が生じた時、その心に真実の世界が映し出されてくるのではないでしょうか。
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 「」は、永久に変わらない真実なる道理のことです。真宗におきましては、真諦と言って仏に なっていく道のことをいいます。仏になるための道は、念仏にすがって生きていく生活です。煩悩欲望の強い要求に振り回される生活を(あきら)めて、大自然の大きな流れに身を任せて生きていく生活です。念仏を称えたと

き、自分が迷いの世界にいることを思いだし、仏が教えてくれている仏法の世界である嘘偽りのない本当の世界が心の中に広がってくると、迷いの道を抜け出し仏への道に戻ることができます。といいましても、私たち人間はなんでもすぐに忘れてしまう習性がありますので、朝に夕べに念仏を称えていないとすぐに迷いの世界に戻ってしまうようです。

「諦智」  仏さんにまかせるということは、私たちの心の中に渦巻く欲望の奴隷になることを止め、欲望の求めているものを諦めようとすることではないでしょうか。私たちが生きている限り煩悩は無くならないのですが、常に常に反省をし煩悩を諦め続けることがそのまま念仏の道へと続いて行くのでしょう。
   
 無碍光の利益より       威徳広大の信をえて   かならず煩悩のこおりとけ   すなわち菩提のみずとなる             
 罪障功徳の体となる      こおりとみずのごとくにて   こおりおおきにみずおおし   さわりおおきに徳おおし
 
欲望のままに生きることを諦めて念仏を称えるところには、欲望が消えるわけではありませんが、欲望がそのまま人生という畑の肥やしとなって、私たちが生きていくための意欲となり力になっていくということではないでしょうか。氷が温かさによって溶かされて少しずつ水になっていくように、煩悩も仏さんの温かい心によって溶かされていき、私たちが生きていく上で大切な味方となってくれるということなのでしょう。そのための念仏です。
 
念仏は、悩み苦しむ私たちをどうにかして救ってあげたいという仏さんの心であるとともに、仏さんの智慧でもあります。
  
  無明の闇を破するゆえ     智慧光仏と名づけたり
 
私たちは仏さんの光のような智慧によって救われて行くのではないでしょうか。

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「諦念」

「諦」は「真諦」というような熟語として使われ、真理のことです。永久に変わらぬ真実なる道理という意味です。私たちが何かを納得した時に「 なるほど どおり(道理)で 」と言ったりします。道理であれば、真理であれば、何事でも私たちは受け入れていかなければならないし、そうしなければ生きていくことが苦しみに満ちたものになってしまうのでしょう。

 「諦」は「諦める」(あきらめる)というようにも読みます。あきらめることは、必ずしも物事を投げ出してしまうことではありません。一生懸命努力してもできないことはあります。できないことはできないものですから、あきらめるしかありません。投げ出すのではなく、道理にしたがうだけのことです。道理におまかせするのです。道理は、「わたしにまかせなさい」と言っています。道理におまかせすると私たちはなぜか安心をし、ほっとするのではないでしょうか。

 「念」は「念仏」の「念」です。念ずるという意味です。念ずることはお願いをし頼むことです。頼りにすることはおまかせすることでもあります。頼りにしてすがりついた腕に導かれるにままについていくことです。大船に乗った気持ちでどっかりとおまかせすることです。

 だれにおまかせするのかというと、それは仏さんです。仏さんの教える法に身をまかせることです。私たちの身も心も、道理をはずれては道に迷い苦しむだけです。道理は自然です。自然は安心です。不自然は不安です。不安は苦しみを生みます。

 努力してもできないことは限りなくあるものです。やむをえないことです。自分の力でできないことは仏さんにおまかせしましょう、と親鸞聖人は教えています。

 仏さんにおまかせする時の言葉は「南無阿弥陀仏」です。ナマンダブでもいいです。自分の力でできなかったら、あとは仏さんにおまかせしてゆっくりしましょう、という教えが仏法です。

仏様はどんな人で、どんな姿をして、どんなことをするのかと疑問に思うことがあります。このような時、仏様を見る視点が三つあります。「体」と「相」と「用」です。体は正体、実体、本体のことです。相は相好、面相、真相など外見的な姿のことです。用は呉音で「ゆう」と読み、用事、用件、作用などと使い働きを表します。仏の体は慈悲心です。相は仏像や絵像に表現されているように優しい人間の姿をしています。用は悩める衆生の救済です。
 大
 仏さんのことを「大心海」と呼ぶことがあります。仏さんの心は大海のように広くてさらに深い智慧を持っているからです。世界中の山や平野に降った雨は、沢水となり、渓流となり、小川となり、湖となり、さらには細い川、短い川、広い川、長い川、浅い川、深い川など様々な川となり、流れて行く先々であらゆる流れを集めて大河をなって海へと吸い込まれていきます。濁流であれ清流であれすべてを飲み込んでいきます。

 仏さんの心も海のように広く深くて、あらゆることをどんなことでも受け入れてくれます。清濁併せのむ、ということでしょう。偉いとか卑しいとか、金持ちだとか貧乏だとかを区別しません。男であるとか女であるとか、老人と少年、罪の多少、修行の長さ、善悪、早い遅い、多念一念、などなど分別することがありません。

この世では分別は大切なことですが、あの世では分別は無用ということです。仏さんはどんな人でも救ってくれるということです。あなたでも、わたしでも、そのままで良いのです。
   
 大海に流れ込んだ水は、みんな塩味になります。「一味海水」と言います。海水はみな同じ塩味であるということです。海が荒れている時は、大波と大波がぶっつかって喧嘩しているように見えます。海が静かな時でさえ、小波と小波は争っているように見えます。表面とは異なり海面の下は静寂で穏やかな世界です。海水はどこでも皆仲間だからです。「一味海水」を気づかせてくれたのは、仏さんの智慧です。

 仏さんのこのような「大心海」を信ずる私たちの心を「大信海」と呼ぶことがあります。仏さんの心と私たちの心が同じくなるということです。仏さんの心は、どんな人でも救ってあげたいという慈悲の心です。私たちの心も慈悲の心になった時、「大信海」と呼ばれるのでしょう。

 しかしながら、信ずるということは難しいことです。心の中が汚れた煩悩だらけの私たちにとっては、純粋に信ずることなどできそうもありません。仏さんは、それでもいいと言います。ただ念仏を称えればよいといいます。念仏という型の中に、自然に信ずる心が芽生えてくると教えています。私たちは、ただ念仏を称えれば救われていくということです。

 不思議なことです。考えることができないので、不可思議と言います。言葉で表せないので不可称と言います。説明できないので不可説と言います。           

不可思議不可称不可説の「信」です。
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「醍醐」  インドの国では牛は神様として扱われています。テレビなどでは、牛が道路の真ん中を堂々と歩いているインドの町が映し出されていることがよくあります。その牛の乳を徹底的に精製したものが「醍醐」という食べ物です。

インドでは昔、「醍醐」はすべての味のうちで最上の美味なるものとして珍重されていました。ここから醍醐味という言葉が出ているようです。

仏さんの教えは最もすぐれているし、悟りの境地は他に比べるものがないほどの極楽であるところから、インドでは、仏教や悟りは醍醐の味わいであると言われていました。

浄土真宗を開かれた私たちの親鸞聖人も「本願醍醐妙薬」と言い、仏さんが私たちを救いたいという願いは、醍醐のようなものであり、すばらしく効き目のある薬のようなものであると教えています。
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故人の名は「タガ」様ですが、「タガ」は漢字では「箍」と書きます。「竹」という漢字と「テヘン」(手)という漢字と「匝」(かこう)という漢字でできています。桶の箍のことのようですが、箍は竹でできていますが、何枚かの木の板を崩れないように、手で支えるように丸く囲っているので「箍」と書くのではないかと思われます。 
  
仏さんが私たち人間を、喧嘩しないように、仲良く助け合って生きるように、平和に生きるように、崩れてしまわないように、箍のように守ろうとして下さっているのではないでしょうか。箍は仏さんの慈悲心です。念仏の心です。私たちの心の底にあって私たちを支えてくれているものです。 

故人は生前、箍のように周囲の方々を支えて下さっていたことと思われますが、これからは仏さんとして私たちにいろんなことを教え導いてくださることでしょう。仏壇に向かって合掌し念仏を称える時、耳には聞こえない声で、目には見えない姿で語りかけ仏法を説いてくれるのかもしれません。
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「智」 智恵で無明の反対語です。事物の道理に明るく、善悪正邪得失を分別し、正しい方向へと導くものです。                       

「智恵光」は智恵の光です。煩悩の闇を晴らし、私たちの本当の姿を照らしてくれます。本当の姿は、欲望に満ちあふれ、怒り、ねたみ、そねみなどの邪念、妄念、妄想にとらわれ苦しんでいす。

この現実を反省し、仏の慈悲心をいただいて、仏のように優しく生きていくことを教えています。なかなか難しいことで、実行できそうもないのですが、すくなくとも仏のように生きようとする姿勢が大切です。その道が浄土へと続きます。

お釈迦様の家族はみんな浄土に住んでいます。浄土は争いが水に流されてしまったような国土です。平和な国です。住人はみんな仏です。仏は慈悲心そのものです。慈悲に満ちあふれているので平和な国なのです。

慈悲は他を思いやる心です。温かい思いやりの心がお互いにお互いを幸せにしています。仏は私たちに、慈悲心を持って生きなさい。そうすれば幸せになりますよ、と教えています。これが仏の「智慧」です。

私達人間は生きている限り、生老病死苦という苦に苦しみ悩み続けなければなりません。生きているということはそれだけで大変なことです。野生ではなくなった人間は服を着なければなりません。栄養をとるために食事をしなければなりません。

雨露をしのぐ家に住まなければなりません。それだけでも大事業です。それなのに、元気の源である若さは十代か二十代を過ぎるとどんどん減少していきます。つまり老いていくのです。身体が弱ければ病気にもなります。

弱くなくても怪我をすることもあります。そして、最後には死を迎えなければなりません。生きているということは、生老病死の苦からは逃れられないことであり、苦しみ続けなければならないということです。
 
苦しみに耐えられずに自ら命を絶つ方もおられます。麻薬や酒に溺れる方もおられます。逃げ出したくなるような苦しみの世界は、暗闇のようなものです。どこへ行けばよいのか、苦の無い場所はあるのかどうかさえ不明です。道が見えなければ不安になります。ますます迷うことになります。
 
このような苦悩の状態をすこしでもやわらげ、救ってあげたいと願う存在が仏さんです。願いが実現されるためには知恵が必要です。どのようにすれば苦から救済できるのかという知恵です。その知恵が仏の教えです。
 
開祖親鸞聖人は「智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく 光暁かぶらぬものはなし 真実明に帰命せよ」と言っています。仏さんの知恵は暗闇を照らす光のようなもので、あらゆる物を照らしてくれており、歩むべき道を教えてくれているのだから、その光の照らす道を歩きましょう、と導いています。

「智願」  人間がより幸(しあわ)せな生活を送るためには、幸せになるための知識がいくらあっても役に立つとはかぎりません。知識を利用するための智慧がなければなりません。知識は少なければ少ないなりに智慧が働けばどうにかなります。
 
たいていの人はお金が好きで、お金があれば幸せになれると思っています。たしかにお金があればかなり満足感を味わえるし、幸福感に浸(ひた)ることができます。しかし、欲望は満足しません。欲望は限りなくさらに上を目指します。限りがありません。

天皇陛下は地位も名誉もお金も持っていますが、幸福でしょうか?天皇陛下になりたいと思う人は、私たちの中に何人いるでしょうか。あまりいなのではないでしょうか。地位や名誉やお金がいっぱいあっても幸福であるとは限らないからです。今の天皇が自分を不幸だと思っている、という意味ではありません。
 
私たちが幸せになるためには、物ではなく智慧が必要なのではないでしょうか。智慧がなければ、物の間で右往左往しどちらに行けばよいのか道に迷ってしまうかもしれません。いくらお金があっても知識があっても、自分の目先の利益ばかり、自分のことばかりを考えていては、みんなに嫌われてしまいます。世間に嫌われるだけではなく、家族にも嫌われ、最後には自分にも嫌われることになってしまいます。

「智慧」 この世は本来極楽のようなものでなければならない、と私たちは思っているようです。人間には科学という万能の武器があるのだから、この世を極楽にすることもできるはずだ、と思っているかもしれません。
 
人間の歴史を振り返ってみると、寒い冬をどうにかして生き延びたいと願うと、誰かが火を発見し、火をおこす方法も考えだしました。火のおかげで食料の種類も多くなりました。多くの人間が生き延びることができました。

人間同士の間で意志を通じさせたいと願ったら、誰かが言葉を作り出しました。文字も作りました。他の動物よりも早く走りたいと願ったら、汽車や自動車を作りました。鳥のように空を飛びたいと願ったら飛行機を考え出しました。ロケットで月にさえ行くようになりました。
 
豪華な汽船で世界旅行をする人たちもいます。一年に何回も海外へ遊びに行く人たちもいます。国内にも、まったく働かなくても暮らしていける人たちもたくさんいます。お金の苦労など知らない人たちもいます。
 
自分だって豊かに暮らす権利があるはずだ。一部の人たちだけが極楽の生活を味わっているのはおかしいことだ。不公平だ。間違っている。・・・などと私たちは思っているところがあります。
 
この世が極楽のような世界であるはずだ、と思っていること自体がおかしいのではないでしょうか。私たちは誕生した瞬間から死へと向かって生きているのです。私たちの生には死という結末が待っています。

そのような一生が極楽であるはずがありません。生きるということは大変なことです。苦しいことです。仏さんはこの世は一切皆苦と言っています。どんなお金持ちにとっても同じことです。平等です。皆苦しみながら生きています。
 
悪いことをしたくなくても、そうしなくては生きていけない場面は数知れません。毎日のように口の中に入れて食べている肉や魚、野菜だって命です。他の命を私たちは食べなくては生きていけません。道を歩いていてもアリやミミズを踏んづけて歩いています。
 
自分が働いているということは、他の人を押しのけて職に就き、給料をもらっているということです。この世界の冨は限りがあります。誰かが得をすれば誰かが損をします。
 
私たちは気がつかないでいますが、自分が生きているということは、他の何かを犠牲にしているということでもあるのではないでしょうか。他の命の犠牲の上に私たちは生かさせていただいているということでしょう。
 
逆に、私たちも何かの犠牲になっていることも数知れずあることでしょう。そこには当然のこととして苦が生じます。
 
親鸞聖人は「 虚仮不実の我が身にて 清浄の心もさらに無し 」 と自分のことを嘆いています。自分は嘘(ウソ)とか偽(イツワ)りとかに満ちている人間で、心の中は汚いものだと反省しています。まったく正直な方です。

私たちの心だって同じでしょう。こんな私たちにでも、仏さんは今という時を与えてくれています。苦の多い人生ですが、苦の裏には楽も見え隠れしています。
 
人生は楽なものだという出発点に立てば苦が目立ちます。逆に苦という出発点に立てば楽が光って見えてくるのではないでしょうか。
 
私たちの命はあっという間に終わってしまいますが、それだからこそ今生きていられることを大事にしなくてはいけない、と仏さんは教えています。金があっても無くても、皆に平等に与えられている今という時を大切に生きなければ、それこそ罰が当たるというところでしょう。
 
一切皆苦のこの世の中で、反省と感謝が無ければ光は見えてきません。私たちが自分の生き様を省(カエリ)みて、自分が生かされていることに気付かなければ、救いはないようです。
 
私たちの本当の姿を見せてくれるのが仏さんの智慧です。智慧は光のように私たちの姿を照らし出してくれます。
 
 
























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智  「智眼」

親鸞聖人が書いた「和讃」の中に次のようにあります。
 
  智慧の念仏うることは             ものごとの道理にかなった念仏は
 
  無明長夜の燈炬(とうこ)なり        暗い長い夜に灯(とも)る光明である
 
  智眼くらしとかなしむな            暗くて心の眼が見えないと悲しむことはない
 
  生死大海の船(せん)筏(ばつ)なり      苦しみに満ちた人生における救いの船である
 
仏さんの智慧というのは、この世で迷い苦しんでいる者を救ってあげるための智慧です。仏さんの智慧によって救われるということはどういうことかというと、苦しんでいる人達をどうにかしてあげたいという仏さんと同じような温かい心を持つということです。
 
私たちが自分の苦を取り除こうとするなら、その前にまず自分のまわりの人達の苦を悲しみ 、どうにかしてあげられないものかという温かい心を持とうとすることです。一見すると効果のない矛盾する方法のようですが、そこに仏さんの智慧があるのです。不思議な現象です。自分以外の人達のことを心の中に置くと、自分の苦が気にならなくなるようです。

とは言っても、私たちの心は怒り、腹立ち、恨(うら)み、辛(つら)み、妬(ねた)み、嫉(そね)みなどの激しい煩悩に満ち満ちて汚れています。仏さんと同じような心を持つなんていうことはできそうもありません。仏さんの心は慈悲心です。温かい心です。私たちの心は欲望だらけです。仏心なんて入り込むところなんてないようです。

 仏さんは、それでいいのだ、と言います。仏さんと同じような心を持とうとしても、なかなか持ちきれない自分の心を反省しながら、どうにかして仏心を持とうとする姿勢が大切なのだ、と言います。仏さんの智慧に従って生きようとする姿勢が、私たちに楽をもたらしてくれるようです
 
H26
 
「地蔵菩薩」  あの世は極楽浄土ですが、この世は地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六つの世界から成っています。六道とも言います。この六つの世界のそれぞれに地蔵菩薩がおります。六地蔵とも呼ばれています。庶民に大変親しまれている菩薩で、よく村はずれの道ばたに六体の石の地蔵さんが立っていたりします。子供からも老人からも親しまれています。その土地その土地に根づき親しまれているので地蔵と言われるのかもしれません。 H22
菩薩の中に「聴光」菩薩という方がおられるそうです。「光」を「聴()」くとはどういうことか不思議ですが、観音菩薩という名前も音を観ると書きます。耳に聞こえないものを聴き、目に見えないものを観るということでしょうか。心の問題であり信心のもたらす結果のことではないでしょうか。

仏となられた故人は、浄土に落ち着いていつまでもいることはありません。仏は、悩み苦しみながら生きている私たちを救おうとつとめるのが仕事だからです。故人も仏としてこの世ですでに働いているものと思われます。目に見えなものを観、耳に聞こえないものを聴こうとするとき、その姿を感ずることができるかもしれません。

「聴観」 目に見えないものを観ようとすることや、耳に聞こえないものを聴こうとすることは、身体の目や耳ではなく心の目や耳を研ぎ澄ますということでしょう。
 
 私たちの限りある能力で見たり聞いたりしているだけでは、本当の真実はほんの少ししか姿を現してくれないのかもしれません。欲望が渦巻き喧噪の絶えることのないこの世の中で、たまには静かに真実の世界に耳を傾け、欲望の耳では聞こえないものを聴こうとしたり、観たりしようとすることが必要なのかもしれません。
 私たちの人生は同じではありません。一人一人それぞぞれ異なった人生を送っています。楽な人生も苦しい人生もいろいろあります。また、同じ一人の人生においても楽なときもあれば苦しい時もあります。簡単に人生の種類を区別することはできません。人生の深さにおいても同じです。一人の人生には、誰にも推し量れない広さと高さと深さがありはずです。肉体に備わっている耳や目では観ることも聴くこともできません。
 
 真実の世界を観ようとするときには、煩悩の束縛から離れ世間の束縛を離れ、心を無にして素直に事実を受け入れようとする姿勢が必要なのではないでしょうか。真実の世界は、私たちが今まで考えていたような世界とはだいぶ異なる世界なのかもしれません。










H21
仏さんの教えは、物事をよく聴いて、よく観て、よく行動しなさい、という教えでもあります。目に映ったものを欲望の視点で見たのでは、よく観たとは言えません。耳に聞こえる音を損得の観点で聞いていても、よく聴いているとは言えません。視覚や聴覚だけのことではないようです。視覚や聴覚を通して届いた映像や音が、私たちそれぞれの心にどのように受け取られるかということが問題のようです。

 白い杖を突いている目が見えない方が道に迷っている時に、そこを通りかかった誰かが目の見えない方に声をかけて、なにかお手伝いしましょうかと言い、道案内をしてあげている光景は本当に心温まるものです。混雑する電車の中でご老人に席をゆずるようなことはよくあることです。社会においては大切な行動であり無くてはならないものです。

 ところが、いざ自分がこのような善い行動をしようとする時、私たちは自然に行動することができるでしょうか。私自身に関して言えば、親切なことはしてあげたい気持ちはあるのですが、なぜか恥ずかしい、照れくさい、勇気がない、迷惑でないだろうか、などと臆病になってしまいます。時によってスムーズに行動できたとしても、私自身の心の中では、良いことをしてあげたぞ、感謝してくれるかな、有り難いと思うかな、まわりの人達はどう見ているのかな、などと考えなくてもよいようなことで悶々としてしまいます。

 親鸞聖人は、自分の外の世界だけではなく自分の内にある心をも厳しく観つめた方でした。自分の性格や性質は非常に悪く、心は冷血動物のヘビやトカゲのようなものだ、極重悪人で罪悪深重である、と嘆いていました。このような自分がどんなに良いことをしても良い結果にはならないから、地獄へ堕ちるのは決まったようなものだ、と悲しんでいました。

親鸞が選ぶべき道は、無心に何も考えずに、ただただ仏さんの教えに従って念仏を称えるという道でした。結果は仏さんにおまかせするということです。 私たちの人生も、善いと思われることは無心に行動にうつすことが必要なのかもしれません。結果は仏さんにおまかせして、南無阿弥陀仏です。物事を深く観て、深く聴いて、よく行動することが大事なのではないでしょうか。
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「超世希有之勝行」  この世は無常です。一瞬たりとも同じ時間はありません。常に時間は流れ続けています。時間は止まったりすることはありません。私たちがこの世に生まれてきた時は赤ん坊でしたが、日々に成長を重ね、幼児から童子になり少年になり青年になり、そして大人になります。

大人になるとそれで終わりかというとそうでもありません。今度は老人になります。どんどん老人になっていきます。成長の人生から衰えの人生になっていきます。死に至るまでこの流れは止まることはありません。 

夜寝て朝起きると、昨日とは同じではない自分がいるはずです。必ず変化している自分がいるはずです。それが成長なのか衰えなのかはわかりませんが、変化しているはずです。それが無常です。

一日とは言えません、一時間ともいえません、それは一瞬です。一瞬の間に私たちは変化しているのです。意識しないうちに、気が付かないうちに変化しています。「光陰矢のごとし」と言われます。月日の経つのが速いことのたとえです。月日どころではありません、一瞬です。アッという間も無いほど速いのです。

 私たちはのんびりゆっくり一日一日を生きています。一日単位で予定を立てたりしています。ところが、時の流れはそんな長い時間とは関係なく瞬間瞬間の連続で過ぎていきます。高速の流れです。

そのような速い時間の流れの中で、私たちは過去に生きることもできませんし、未来に生きることもできません。私たちが生きることのできる時間帯は、今この瞬間だけです。今この瞬間を一生懸命生きることしかできません。

過去を思い出したり、将来を夢見たり計画を立てたりすることも大事なことですが、今この一瞬をどのように生きるかを考えることも大事です。過去を生かすも未来を生かすもこの一瞬です。

この一瞬は、過去と未来を左右するような大変な一瞬でもあるので、おろそかにはできません。私たちは全力をこの一瞬に注がなければなりません。ところが一方では、私たちの全力は微力にすぎない、という問題があります。

どんなに努力をしても頑張っても、いつも良い結果を出せるとは限りません。むしろ、思い通りにいかないのが現実ではないでしょうか。

瞬間瞬間に変化し続ける無常のこの世にあって、十分に生き抜く強い力を持っていない私たち凡人は、昔の偉い坊さん達のように厳しい修行をして悟りをひらくもできません。厳しい修行に耐えられる体力も知力も財力もありません。

激しく変化し続ける時間の激流の中で、頼りになるものは何もありません。自分さえ頼りになりません。仏さんはこのような私たちに、このようにすればよいという行動を教えてくれました。厳しい修行ではありません。簡単な行いです。念仏を口で称えるという行いです。

これは行(ぎょう)でもあります。念仏はそんなに効果があるのか?頼りになるのか?嘘ではないのか?詐欺か?いろんな疑惑が涌いてくるでしょう。それが人間です。そのような人間を救おうとされる仏さんの苦労は並大抵ではありません。

人間は、説明や解説などの言葉で納得するものではありません。おいしい食べ物は食べてみなければわからないものです。仏さんの教えも食べてみるものです。

食べるという行為に信ずる心がついているのでしょう。ただ、この世には毒になるような食べ物もあるので注意が必要です。

親鸞聖人は念仏を「超世希有之勝行」と言っています。念仏は、この世の言葉を超えた、めったにない希(まれ)な、勝(すぐ)れた行である、と言っています。ただ信ずるだけです。

本明寺のお経堂には、念仏は間違いないものだという説明が書いてある本が何千冊もあります。ただし、私はほとんど読んだことはありません。
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超  「超光」
 
親鸞聖人は「正信念仏偈」というお経の中に次のように書いています。
 
  普放無量無辺光  仏さんは、あまねく時間と空間を超えた慈悲の光を放った
 
  無碍無対光炎王  障碍も無く、対するものも無い、煩悩を焼き尽くす炎の王 
 
  清浄歓喜智慧光  清浄であり、歓喜であり、智慧の光
 
  不断難思無称光  断絶せず、考えることも難しく、表現もできない光
 
  超日月光照塵刹  太陽や月光よりすぐれて、あらゆる国々を照らし
 
  一切群生蒙光照  一切の生きとし生けるものが光照を浴びる
 
どんな人も仏さんの救いの手の上にある、ということを言っています。そのことに気が付くかどうかということでしょう。安らぎの心を得るためには、すでに救われている自分に気が付く必要があります。煩悩の暗闇に目を遮られている限りは、光が照らしているものを見ることはできません。
 
一度煩悩をそちらに置いておいて、世界を見つめ直すことが大事ではないでしょうか。煩悩からは離れられませんが、煩悩を背負ったまま、仏さんにすべてをおまかせするという気持ちになれれば、慈悲の光も差し込んで、心も安らかになるのではないでしょうか。
                              合    掌
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 兆 「兆載」 

大経では念仏を称えて救われていく道を教えている、と親鸞聖人は言います。念仏は南無阿弥陀仏です。ナマンダブでもよいです。救われるということは、願いが実現するということではありません。私たちの望みがかなえられるということではありません。

お金持ちにしてくださいとお願いすると、お金持ちにしてもらえるというわけではありません。勝負に勝たせて下さいと言うと勝たせてもらえるということでもありません。病気を治してもらうことでもありません。
 
なんだ、なんにも役に立たないということか、と思う方もだいぶおられることでしょう。たしかに私たちの欲望を満足させてもらえることはありません。私たちみんなの欲望を満足させるとどうなるでしょうか。それはとても考えられないことです。みんなが勝負に勝つなんてことがあるでしょうか。みんなが金持ちになってみんなが働かなくてすむような世の中を作ることができるのでしょうか。とてもできないことでしょう。
 
仏さんが救うというのは、生きていることに苦しんでいる私たちに安らかな心を与えてくれるということです。お金が無くても、勝負に負けても、病気になっても、そのような状況を受け入れて生きていく力を与えてくれることです。人間生きている限り苦労は無くなりません。苦労が無くなるのはこの世を去る時です。苦労があっても心に安らぎを与えてくれるのが仏さんです。
 
仏さんは、念仏を称えると心に安らぎが出てくると教えています。念仏はただ口で「南無阿弥陀仏」と声に出すだけです。ただそれだけです。このように私が言うと、「嘘くさい、いかさまだ、ごまかしだ、子供だましだ、そんなことあるわげね、」と非難されそうですが、ほんとうのことです。

 日本古来の武道である柔道は、初心者にはまず柔道の基本の型を教えます。初心者は基本の型の意味も重要さもわかりませんが、先輩に教えられるとおりに基本の型をまねしてやってみます。基本の型を実際に身体を使ってやっているうちに、その型の意味や重要さがわかってきます。そして実際に相手を投げ倒すことができるようになります。

初心者が基本の型を信じていようがいまいがどうでもよいことです。ただ実践しているうちに信心が湧いてくるのです。基本の型の中にすでに信心が入っているとも言えるでしょう。それは基本の型を作った人の信心ですが、その信心が初心者の心の中にしみこんで、初心者の信心となるのではないでしょうか。
 
浄土真宗の宗教学者である金子大榮師が言っています。
 
       「 手を合わせるかたちが おがむ心を生みだした 」
 
 「大無量寿経」には次のように書かれています。                                 
        
       於不可思議  兆載永劫      不可思議の兆載(ちようさい)永劫(ようごう)において           
       積植菩薩   無量徳行      菩薩の無量の徳行を積(しやく)植(じき)した              
 
念仏が私たち衆生を救うことができるようにと、仏さんは無限という長い時間、無限の量の修行をして、念仏を実現性のあるものにしたと書かれております。
 
宗祖親鸞聖人は、インド国の龍樹と親、中国の曇鸞と道綽と善導、日本の源信と源空の七人の高僧を、浄土真宗の祖師として尊敬しておりました。この七高僧のうちの天親は、「千部論師(せんぶのろんし)」とも呼ばれており

ました。たくさんの論述をされたからです。論述の中で、煩悩に汚れた私たちを救いたいという仏の願いに私たちが会えば、私たちは必ず救われると天親は説いています。念仏を称えることが仏の願いに会うことです。親鸞は和讃の中で「本願力に会いぬれば、むなしく過ぐる人ぞなき、功徳の宝海みちみちて、煩悩の濁水へだてなし」と天親の教えを説いています。  

「天上天下唯我独尊」  お釈迦様はこの世に誕生した時に、東西南北に七歩あるいて「天上天下唯我独尊」と言ったそうです。この世の中で一番尊い人間は自分である、という意味のように見えますがそうではありません。

私は、この世に生まれただけで有り難いことだと思っている。すごいことだし、すばらしくうれしいことだ。今ここに生きている私という存在は、私にとって、この世で最も貴重なものである、と言っているのです。

他の人と比較して、お前は悪くて俺は良い、というようなせまい考えではありません。あなたも私もみんなが一人一人大事なありがたい存在だ、と言っています。子供が誕生するとみんなで祝福するのはそのためです。この子はおめでたくてこの子はおめでたくない、などという考えはしません。とんでもないことです。

 それなのに誕生から年月が経って成長してくると、私たちは欲望が強くなってきます。生きているだけでは満足できなくなってきます。十万円を手にするとその次は百万円が欲しくなります。百万円を手にすると今度は千万円が欲しくなります。果てしなく欲しがります。

果てしのない欲望は満たされることが無く、不満が出てきます。この世は思うとおりにならないからおもしろくない、つまらない、苦しいということになってきます。

 テレビを見ていると、アパートの一室で餓死した人のニュースを見ることがたまにあります。本当にかわいそうなことですが、食べ物だけについて考えると昔と違い、少しの努力でなんとかなりそうに思われるのですが、どうでしょうか。精神的な問題があるとすれば別ですが。

 生きるだけであれば、今の日本ではできないことはないように思われます。わがままを言わなければ。生きていさえすれば、生きていることに喜びを見出す機会にも出会えます。喜びを見出せる人は幸福になれます。

私たちには現実に大自然の恵みが与えられています。恵みがあるから生きていられます。おいしい食べ物だけではありません。美しい花や山、海や川などの自然にかこまれています。美しい心を持った人間もけっこういるものです。これは喜びです。










H21 
「転悪成善の益」を見てください H20
親鸞聖人の正像末法和讃に次のようにあります。
 
   無明長夜(むみょうじょうや)の燈炬(とうこ)なり
   智眼(ちげん)くらしとかなしむな
   生死大海(しょうじだいかい)の船筏(せんばつ)なり
   罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ
 
 人間が自分の力ではなかなか見ることのできない真実の世界を見せてくれるのが、仏の慈悲心であり智慧です。煩悩の深い私たちは欲望に目をさえぎられ、物事の本当の姿を見ることができません。そこで仏は、夜の闇を照らす大いなる光のように、人間の本性を照らし出し、この世の真実を見せてくれます。人間は煩

悩の奴隷のように生きています。生まれてから死ぬまで、生死の大海のようなこの世で、おぼれながら生活しています。このような私たちを救ってくれる船や筏のような存在が仏であり、慈悲心であり智慧です。人生につまずいても、失敗しても、まちがいをしたとしても、嘆き悲しまなくてもいいと仏は教えています。仏にま

かせなさいといいます。人間の力は弱くはかないものです。自分の力では救われないから、他力である仏の大自然の力にまかせなさい、といいます。
 すべてをおまかせしますという気持ちを表現する時に、「ナムアミダブツ」と念仏を称えます。
 仏教で用いる言葉に菩薩という言葉があります。菩薩は、仏さんになろうとして修行をしている者のことです。菩薩の位(くらい)にもいろいろありますが、仏さんに一番近い位にいる方が弥勒菩薩です。「弥」は「彌」とも書きます。南無阿弥陀仏の「弥」でもあります。「彌」という漢字には、「長く久しく」「いよいよ、ますます良くなる」という意味もあります。

 親鸞聖人は私たちに、念仏を称えなさい、と教えています。念仏を称えるということは、自分の力でどうこうしようともがき苦しむのではなく、仏さんにすべておまかせします、と心を決めることです。私たちが仏さんにおまかせしますと言うと、仏さんはまかせなさいと言います。そのおまかせしますという言葉と、まかせなさいという言葉の両方の意味が込められているのが念仏です。南無阿弥陀仏です。ナマンダブです。

 念仏の力は私たちの自分の力ではなく仏さんの力です。自力には限界があります。仏さんの力は無限です。念仏を称えて救われるのは、仏さんの力が無限だからです。親鸞聖人は「念仏成仏これ真宗」と言っています。念仏を称えて救われていくのが私たちの浄土真宗の教えである、と言っています。

仏さんの力で救われるのですから、念仏を称える者は、菩薩の中でも一番位の高い弥勒菩薩と等しい悟(さと)りを得て救われるのだそうです。弥勒菩薩の悟りは仏さんの悟りとほとんど等しいそうです。それで弥勒菩薩の悟りは「等正覚(とうしょうがく)」とも呼ばれています。「覚」も「悟」と同じ「さとり」の意味の言葉です。

 救われるということは、私たちの願いのとおりになるとか、わがままのとおりになるということではありません。むしろ、願いやわがままが無くなり、私利私欲から離れられるということではないでしょうか。私利私欲があるために生じてくる苦しみから離れられるということでしょう。
H23
私たちが旅行を楽しむ時に、目的地に着いてから楽しみが始まるのでしょうか。楽しみは旅行の計画を立てる時から始まっているのではないでしょうか。そのような意味では、旅行は目的地が決まった時、心の中ですでに始まっていると言えます。

 この世に生きているものはすべて、生まれてから命尽きるまでそれぞれの道を歩んでいます。人間は人生という道を歩きます。あの世へ向かっての旅をしているのです。道はたくさんにあります。仏教では、極楽が目的地です。理想の国です。親鸞聖人を開祖とする浄土真宗では、念仏を称えて救われていく道である念

仏道を歩いていきます。念仏を称えて救われようと思い立ったときから、極楽への旅は始まります。念仏は「ナムアミダブツ」です。ただ称えるだけです。地位も資格も名誉も金も不要です。なぜ念仏を称えると救われるのかというその理由を信じて称えるだけです。
 
救われるということは、理想の国に住む仏になることです。仏の正体は慈悲心です。慈悲心を持つことは仏と同じくなることです。しかし慈悲心は、煩悩に汚れている人間が持とうと思ってもなかなかもてるものではありません。そこで仏は、念仏にあらゆる功徳とともに慈悲心をも込めて下さいました。私たちが胸に手を当てて

自分の心を見つめてみると、仏の心のような慈悲心が見え隠れしているように思われます。ちょっとでも気を許すと仏心は消えてしまいます。そこで念仏を称えると、仏は「あなたには慈悲心がすでに与えられている」と気付かせてくれます。念仏が私たちに慈悲心を与えてくれるのです。
 
が、そうはいっても私たちは人間ですので煩悩も持っています。たとえ慈悲心を持っても、煩悩を消すことはできません。煩悩を背負った仏です。念仏道は、煩悩を背負った私たちが心に慈悲心を持ち、反省しながら感謝しながら極楽へと歩いていく道です。この歩いていく様子を「往相」といいます。救われて往生していく相(すがた)です。

親鸞聖人の「浄土和讃」に「道光明朗超絶せり」とあります。仏が念仏道を照らす光は明朗でたいへんに優れているので、その光に照らされるものは皆救われるといいます。生前も明るく元気な方であられた故人は、仏となっても明るく私たちを照らしてくれているものと信じます。

「歎異抄」に「念仏者は無碍の一道なり」とあります。

道樹の道は菩提という意味ですので、道樹は菩提樹のことです。菩提樹は道場樹とも言われ、阿弥陀仏の別号(よびな)としても用いられます。
 
親鸞聖人の開かれた浄土真宗におきましては、念仏を称えて救われていく道を歩いて行きます。極楽浄土へと続いている道なので、安心して歩いて行けます。道には菩提樹の姿をした仏様が立っていて、常に私たちを見守ってくれています。煩悩に汚れ悩み苦しんでいる私たちを導いてくれます。私たちは煩悩を背負って念仏の道を歩いて行きます。私たちが生きている限り煩悩を捨てることはできませんが、念仏の道では煩悩は重荷では無くなっていきます。煩悩はあるけれども救われていきます。
 
お葬式の時に、親鸞聖人の書かれたお経である「正信偈」が読まれますが、その中に「不断煩悩得涅槃」とあります。煩悩を断たずして涅槃を得ることができる、と言っています。煩悩があっても救われるということです。今現在生きている私たちが救われると言うのです。

親鸞聖人は、煩悩と菩提(さとり)は氷と水の関係のようなものだと言っています。氷が多ければ多いほど水も多くなると言っています。現代的に言えば欲望ですが、欲望が多くても嘆くことはない、心配するな、欲望は氷が溶けるように溶けて水になると言うのです。私たちは欲が深いために苦しんでいるのが現状でしょう。この欲をどうするのかを教えてくれるのが、仏さんの智慧です。

「道」  旅行は楽しいものです。旅行の計画を立てる時にはすでに楽しい旅が始まっています。それよりも前に、旅行をしようと思い立った時から楽しい旅は始まっていると言えるのではないでしょうか。

剣道、柔道、華道、茶道などの日本古来の武道や芸道には、達人とか名人と呼ばれる方々がおります。その道を究(きわ)めた方々です。道を究めなければ達人とは呼ばれないのですが、達人といえどもその道を一歩ずつ歩いて行ったはずです。最初の一歩がなければ最後の一歩もありません。その道に一歩踏み込んだ時点で、達人の世界のすみっこに立ったとも言えます。道そのものが武道や芸道の世界だからです。最初の一歩はすでに達人の世界です。

仏教の世界には念仏道という世界があります。念仏を称えて救われて行く道です。親鸞は、念仏のいわれを聞いて念仏を称えると救われると言っています。念仏を称えるだけで救われるなんてそんなことがあるのか、と疑いたくなるのですが、あるのです。

疑いが起こるのは自然です。念仏道の第一歩では、そんなに念仏の世界が見えるはずがないからです。達人ではないので先が見えないのは当然です。旅先に到着しないのにご当地が見えるはずがありません。見えなくても旅の喜びはあるはずです。まずは一歩を踏み出すことです。

私たちの日常生活を見てみますと、すこし視点を変えるだけで異なった世界が見えることがあります。
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真宗の開祖である親鸞聖人が「真実の教」と讃えている「大無量寿経」に、「自然の徳風起こりて、寒からず暑からず、温涼柔軟にして遅からず疾からず、無量微妙の法音を発す。また風、華を吹き散らして遍く仏土に満つ。」とあります。理想の国とされる浄土には、徳風が吹いているといいます。徳は功徳のことであり、良い結果を

導くための原因となるものです。この功徳が浄土には満ちているので、浄土は究極の理想の国となっているといいます。日常の良い行いが私たちを幸せへと導くことを教えているのですが、私たちの現実の世界は、邪念・妄念・妄想・怒り・ねたみ・そねみなどの煩悩に満ちあふれています。人間は煩悩の闇に苦しめら迷いの

世界をさまよっています。良い行いが簡単にできるような世の中ではありません。 自分の力ではどうしようもない私たちを憐れんだ仏様は、最高最良の功徳を私たちに与えてくださっております。それが念仏です。「南無阿弥陀仏」と称えるだけでいいのです。それが功徳になるというのです。ただ仏の力にすがっておまかせし、安らぎの心をもって生きていくことをすすめています。

「功徳」 善い行いをすることを功徳と言います。また功徳は、私たちに福利をもたらしてくれるものでもあります。福利とは幸福のことでもあります。善い行いは私たちを幸福にしてくれるということでしょう。

しかし、私たちは本当に善い行いなどできるのでしょうか。どんなに人助けをしても、慈善事業をしても、心の中ではどこかに恩に着せるようなところが残っているのではないでしょうか。そうでないにしても、どこかで自分の損得などを考えているところがないでしょうか。人間の心はなかなか純粋にはなれないようです。

 仏さんはこのような私たちの心をも察知して、念仏の中に功徳さえも入れてくれたとのことです。お経の中に「名号はこれ万徳の所帰なり」とあります。念仏の中にあらゆる徳が入っているということです。

親鸞聖人は、心が蛇(じゃかつ)のような自分がするどんな行も虚仮不実(こけふじつ)の行となってしまうので、念仏だけが真実の行である、と言っています。
 
だからといって、善い行いはする必要がないということではありません。どんどんするべきですが、常に反省の心を忘れないように、ということです。念仏を称えるということは、この反省の心を呼び起こすということでもあるようです。
















H20 
 徳  
真宗の開祖である親鸞聖人が「真実の教」と讃えている「大無量寿経」に次のように書かれています。
 
 自然の徳風起こりて、寒からず暑からず、
 温涼柔軟にして遅からず疾からず、無量微妙の法音を発す。
 また風、華を吹き散らして遍く仏土に満つ。
 
 理想の国とされる浄土には、徳風が吹いているといいます。徳は功徳のことであり、良い結果を導くための原因となるものです。この功徳が浄土には満ちているので、浄土は究極の理想の国となっているといいます。
 
日常の良い行いが私たちを幸せへと導くことを教えているのですが、私たちの現実の世界は、邪念・妄念・妄想・怒り・ねたみ・そねみなどの煩悩に満ちあふれています。人間は煩悩の闇に苦しめられ、迷いの世界をさまよっています。良い行いが簡単にできるような世の中ではありません。

自分の力ではどうしようもない私たちを憐れんだ仏さんは、最高最良の功徳を私たちに与えてくださっております。それが念仏です。「南無阿弥陀仏」と称えるだけでいいのです。それが功徳になるというのです。ただ仏の力にすがっておまかせし、安らぎの心をもって生きていくことをすすめています。
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念仏を称えると私達はその時その場ですぐに仏さんになるそうです。すぐにということは「頓」という漢字で表されます。「頓」は、ただちに速やかにという意味です。親鸞聖人は念仏の教えを「頓教」と呼んでいます。頓教中の頓教であると言っています。
 TOP へ  
無阿弥陀仏。念仏の(なむあみだぶつ)はインドの言葉で、その音を漢字で表すと「南無・阿弥陀・仏」、その意味を漢字で表すと「帰命・無量壽・如来」となります。

「帰命」は「すべてを仏にまかせなさい」という仏の心であり、「すべてを仏におまかせします」という私たちの心です。「無量壽」は無限なるもの、科学では推し量ることのできないもの、一面では大自然、大宇宙とも呼ばれるものです。「如来」は「真如(真実)より生じ来るもの」という意味です。 「(みょう)」は、この世で悩み苦しんでいる私たちを

どうしても救済しようとして下さる仏様の呼びかけであり、救いの手でもあります。この呼びかけを信じその手に身をゆだねた時の言葉が念仏です。

「人事を尽くして天命を待つ」ということばがありますが、浄土真宗においては「天命に従いて人事を尽くす」のであるから、間違うことはないともいわれます。すべて仏様にまかせて、あとは安心してがんばれということです。  

真宗の開祖である親鸞聖人が書かれたお経「正信偈」に「佛言広大勝解者」とあります。仏の教えを聞いて信ずるものはすばらしく勝(すぐ)れた理解力を持った者である、と説いています。念仏のいわれを聞いて信じ、念仏を称えると成仏するという教えが仏の教えです。仏の真の教えを明らかにした親鸞聖人の開いた真宗(一向宗)が、「念仏成仏これ真宗」と言われるのはこのためです。

仏様がまかせなさいと言うのに応じて、すべてを仏様のお力におまかせしますのでよろしくお願いします、という心が念仏です。もちろん自分では何も努力もしないで頼むというようなことではありません。

一生懸命やってもどうにもならないことだらけの世の中では、結果は仏様にまかせ、やるだけのことは一生懸命やろうということであり、その結果をとやかく言わないという心が大事であるということです。親鸞聖人はその著書「教行信証」の行巻において、南無の字を解釈して「帰命とは本願招喚の勅命なり」としています。

仏の願いは、私たち煩悩に苦しむ人間が救われることです。罪深く悩み多き我らをどうしてもすくい取ってやりたいという仏の願いで、我々真宗の聖典である大無量寿経の上巻に書かれてある四十八の願のことです。

仏はこの願いを成就させるために、無限の間、無量の修行をされ、我々のために徳を積まれ、願を成就なされました。願いは必ず達成されるということです。その願と行と徳のすべてが念仏、すなわち「南無阿弥陀仏」の六字に込められているのです。念仏を称えた者を必ず救い取って決して捨てることはない、と仏様は誓いました.

 
仏門に入った女性。  
仏語に「如実知見」という言葉があります。意味は「真実の理の如く、事理を明らかに知る見解」のことをいいます。予見や先入観やイデオロギーを持たず、物事をありのままに見ることであり、生きた仏教を身体で感ずることです。

「如来」  嘘(うそ)をついたり、誤魔化(ごまか)したり、騙(だま)したり、そんなことはしない本当のことだけの世界を真実の世界と言います。表面だけ、形式だけ、見せかけだけの世界ではありません。仏さんのことを如来とも言います。親鸞聖人は「弥陀如来は 如より来生して 報応化種々の身を示現す」と言っています。つまり、仏さんは如という真実の世界からこの世に来て、私たちのために本当の姿を見せたり、環境に応じて様々な人間の姿をしたり、時には人間以外のものの姿を借りて現れたりする、ということです。
 
桜の散るのを見て、私たちはこの世の無常を知ります。ようやく花が咲いたと思ったら、あっという間に散ってしまう桜の姿に、私たち人間のはかない人生を感じてしまいます。仏さんが桜の姿を借りて、私たちにこの世の無常を教えてくれているのかもしれません。
 
夏の暑い日に突然涼しい風が吹いてきて、しばし苦しい暑さを忘れてしまう瞬間があります。仏さんの慈悲の風かもしれません。
食べ物がおいしいと感ずるのはなぜでしょうか。つくづくと他人の親切が身にしみることもあります。道ばたの花が美しいと感ずることはしょっちゅうです。
 
子供がかわいいと感ずることがあります。なにか子供の喜ぶものをあげたいと思うことがあります。一緒に遊んであげて楽しませたいと思うこともあります。普段は欲望が渦巻いている私たちの心の中に、その時仏さんが入って来たのかもしれません。
 
真実の世界から来た仏さんは、本当の喜びを私たちに与えてあげたいと思っているのかもしれません。偽(いつわ)りのない素直な心を開いていると、仏さんが喜びを運んできてくれるのかもしれません。私たちの心の中にだって入って来てくれているかもしれません。
 
他の人を騙して自分の利益になることだけに努力しようとしている心では、感ずることのできない喜びがあります。損か得かの世界ではありません。数字の世界でもありません。形の世界でもありません。真実の世界の喜びです。
 
「この世の中は、きれいごとだけでは生きていけない」と言う人がいます。そのとおりです。本当です。私たちは煩悩から逃れることはできないからです。死ぬまで欲望と道連れです。それでもいいんです。素直に欲望まみれの自分を認めることです。悪い心もある本当の自分を自覚することです。仏さんの前に自分をさらけ出した時の言葉が「南無阿弥陀仏」であり「ナマンダブ」です。
 
念仏の心が仏さんになります。煩悩があろうが欲望があろうが仏さんの前ではすべてが功徳になると言います。功徳は良い結果を生む原因となります。親鸞聖人は「煩悩功徳の体となる」と言っています。
 


H19
 仏様の前で手を合わせて拝む時、仏の菩提を弔うだけでなく、私たち自身の幸せと、私たちの周りの人たちの幸せを願って拝み、さらには私たちのためにはたらいて下さっている仏様に感謝して拝むことが大事です。この時に拝むことばが念仏です。

 念仏の南無阿弥陀仏が仏となった故人に届きます。私たちの心を念仏が運んでくれるのです。 自分以外の人の幸せを願う姿勢が自分を幸せへと導いてくれるます。自分の周囲の人達の幸せがなければ、自分の幸せもありません。

 故人の幸せを願う心がその第一歩です。 念仏は、仏の願い・慈悲心(他力)も込められたことばです。口に称えることによって、願いがかなえられます。  

 有名な「歎異抄」に「念仏者は無碍の一道なり」とあります。念仏を称える者の前には障害物はなく、間違いなく浄土に至る道を歩む者である、と宗祖親鸞聖人は教えています。

念仏をよく称え、仏の心をいただき、皆が皆仏になったら、この世も極楽に近くなるのではないでしょうか。純粋な仏となられた故人も、生きている私たちが仏の心を持つことを願っていることと思われます。それが人間が幸せになるための唯一の方法だからです。
 
念仏を称えるとき、頭の中に仏の世界が広がってきます。心には慈悲心が浮かび出てきます。私たちが誰でも本来持っている仏心を思い出すのかもしれません。   

念仏を称える人は苦しみから救ってほしいと願っている人でしょう。苦しんでいる人です。苦しんでいる人は、他の人の苦しみもわかるはずです。他の人の苦しみがわかる人は、他の人をかわいそうだと思う心を持っています。その心が慈悲心で仏心です。仏と同じ心を持っている人は、仏と同じ世界に住むことができます。
「南」を参照
 
 「能行」は「能(よ)く行(ぎょう)ずる」という意味です。行は念仏のことですので、よく念仏を称えるという意味になります。仏は、念仏のなかに仏心である慈悲心を込めて私たちに与えてくれました。私たちはそれを信じて慈悲心をいただくだけです。念仏を称えると慈悲心が心の中に宿るといいます。救われるということは、この仏の心を持つということです。仏心を持つと、この世の苦しみが和(やわ)らぎ、苦が苦でなくなるということです。
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 八
 
私たちが今までこの世で生活をしてきた経験から言うと、この世は苦で満ちています。この世が苦でいっぱいであるのは、私たちの欲望があまりに多く、あまりに強いからだと仏さんは教えています。私たちの欲望が少なくなれば、なにかを求める心も少なくなり弱くなります。そうするとこの世の苦も少なくなります。欲望がゼロということは困ることでもあるので、必要な欲望はなければなりません。食欲などはあり過ぎてもいけませんが、無ければ困る欲望です。どんな欲望でもある程度は必要でしょう。
 強すぎる欲望を弱くするためには修行が必要です。このための修行を八正道(八聖道)と言います。八正道とは次の八つの修行方法のことです。この修行方法は悟りをひらくための修行方法でもあります。
 
  1 正見       正しいものの見方をする
  2 正思惟      正見にもとづいた正しい考えをもつ
  3 正語       正見にもとづいた正しい言葉を語る
  4 正業       正見にもとづいた正しい行いをする
  5 正命       正見にもとづいた正しい生活をする
  6 正精進      正見にもとづいた正しい努力をする
  7 正念       正見にもとづいた正しい自覚をする
  8 正定       正見にもとづいた正しい瞑想をする
 
 八正道の底を流れているのは正見です。この世の正しいものの見方です。この世の本当の姿はどうなのかということです。この世の本当の姿はこれです。
 
    諸行無常    すべてのものは常に変化していく。生じては滅びるのがも
              のごとのさだめである。
    諸法無我    すべてのものにおいて、「私」とか「私のもの」という実体
             は存在しない。
    一切皆苦    すべてのものはみな思いどおりにならない。この世で生きる
             ことは本質的に苦だ。
    涅槃寂静    この世の本当の姿を理解すれば、真の安らぎ、絶対平安の境
             地を得られる。

 仏さんの仕事は、私たちにこの世の本当の姿を教えて、心の安らぎを与えてくれることです。
 親鸞は、ひたすら仏さんを頼りにする心が大事だと教えています。念仏の心です。
 
 南無 阿弥陀 仏 = 帰命 無量寿 如来 = 頼む 無限なる 真世界の方
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 畢   「畢竟」                                     
      
親鸞の「正像末和讃」に次のようにあります。  

  念仏往生の願により、等正覚にいたるひと、すなわち弥勒におなじくて、大般涅槃をさとるべし

お経の中に次のような言葉があります。
  
  畢竟         究極において
   畢竟依(え)     最終のたよりになるなるところ、つまり仏さんのこと
   畢竟成仏道路   最終には必ず仏となるべき道のことで、阿弥陀仏の浄土へと続いている。 
              他力(仏さんの力)によるから 間違いが無い。念仏の道でもある。  
   
   等正覚       どこをとっても例外なく平等で絶対間違いの無い正しい真理を覚知した方のこと、
              すなわち仏さんのこと。この世の本当の姿を覚った方。         
仏教において仏さんになるということは、私たち人間が理想として求めている姿になるということです。地位が欲しい、名誉が欲しい、権力もお金も家も土地も財産もみんな欲しいというようなレベルのことではありません。自分中心の欲望を離れた、みんなが幸福になれるような世界でのことです。
 
みんなが幸福になれる世界を目指して生きていく姿が仏さんの姿です。仏さんの願いは、仏さん自身もふくめてみんなが幸福になることです。

 人間がこの世に出現してから現在までずっと、人間みんなが幸福になったなどということはまったくなかったようです。幸福の数は不幸の数に比べたら無いに等しいくらいのものだったでしょう。たまたま幸福を見つけた人がいたとしてもこの世の無常には勝てません。次から次と誕生してくる幸福を見つけることのできない人間のために、仏さんの仕事は絶えることがありませんでした。
 
私たちがこの世を去るということは、欲望に満ちた俗世間を離れて仏さんの立場に立つということです。仏さんとしての仕事をするようになるということです。
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 布
 
「布施」という仏教の言葉があります。「布施」は、慈悲の心を持ってひろく他に施しをなすこと、という意味です。だから本来は仏さんが、または僧侶が一般の人たちにたいして施すことを「布施」と言ったようです。

「法施」という布施もありますが、僧侶が仏さんの教えを学んで勉強をし、習得したものを一般の人々に伝えるという施しです。「財施」という布施もあります。これは、食べ物やお金や物品を困っている人々や必要としている人々に与えるという布施です。

僧侶は仏教を勉強するのに一生懸命だから(?)働かなくてもいいですよ、一般の私たちが「財施」で僧侶の生活を支えてあげますよ、という布施が一般に知られている布施です。僧侶は食事をする「鉢」を人々に「托」するので托鉢の行をすることになります。

慈悲の心を持って他に施すことが布施ですので、和やかな顔で安心を与えることも布施であるということで「和願施」という言葉もあります。
 
私たちの心は煩悩でいっぱいですので、生きている間に仏さんになることはとうてい無理なようですが、少なくとも心にやさしさや温かさを持って和やかな顔をすることがあれば、その時は仏さんと同じことをしていることになり、仏さんに近くなっているのではないでしょうか。

顔だけではなく、日常の動作、立ち居、振る舞い、言葉遣いなども布施になることができます。すぐれた美術作品や感動的な音楽はもちろん心に大きな安らぎを与えてくれますが、同じように私たち凡人でも少しは布施の行ができるのではないでしょうか。
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 「退」は、仏道修行の退転することなき位で、不退の地位といい、再び迷いの世界に 入らぬ地位です。菩薩はいづれもその修行によってこの地位を獲得しようとする者のことです。悪業煩悩の罪深い私たちでも、他力念仏の信者は、この世において未来に必ず仏となることに定まった地位、すなわち不退の位である正定聚に住する者として生活できるといいます。

浄土真宗においては、念仏を称えるとすぐさま「不退」の位になり、未来に必ず仏になることに定まります。自分の力ではなく他力だからです。親鸞聖人の浄土和讃に「真実信心得る人は、すなわち定聚のかずにいる。不退の位にいりぬれば、かならず滅土にいたらしむ」とあります。この世の縁が尽きたとき、かならず浄土に仏として生まれると言っています。

 
仏(ぶつ)はインドのことばです。仏陀(ブッドハー)の音を略したものです。日本のことばでは仏(ほとけ)といい、覚者、覚めたる人という意味です。一切の迷いを離れて真理を覚り、衆生を導いて覚りの道に入れてくれる人のことです。

仏陀は、科学的な面から見ますと大自然とか無限とか言われます。大自然の道理・規則のことです。たとえば水が高きより低きに流れるごとき当然のことを「水が去る」と書き「法」と言いますが、仏の説かれることを「仏法」というのはこのためです。

仏法は自然の法であり他力です。

仏陀は、宗教的な面から見ますと「大慈悲心」です。「大」は有限な人間を越えているという意味です。仏の説く仏法は、苦しんでいる人間を救うための法則です。人間を救うための法則は「慈悲」にあります。

仏教は、仏の教えです。仏は仏法を教えています。仏法は仏の説く法ですが、大自然の法でもあります。また科学の追究する真理でもあり、文学や芸術の求める善や美でもあります。私たち煩悩多く迷いの多い人間は、この法から離れ、法に気がつかず生きていることが多いのかもしれません。

ことしは台風が多い年でした。日本海側では塩害で相当なダメージをうけた田んぼが広範囲にわたりました。去年か一昨年は内陸側が冷害でひどい被害を受けました。科学の力で相応の対策はとられてはいたのでしょうが、それでも人間の力は自然の前では無力に等しいような感じさえ受けます。
 
科学に助けられていることはたくさんありますが、科学は万能ではありません。台風という自然の力を止めることはできません。大自然の法則をかえることはできません。私たち人間もこの法則に従って生きていかなければなりません。そして死んでいかなければなりません。とくに弱い人間は自然に逆らうことはできません。自然を受け入れなければ生きていくことも死んでいくこともできません。
 
大自然の法則を、人間がそれに従って生きていくべき生き方として説いたものが仏法です。お釈迦様が勝手に考え出したものではありません。仏法は仏さんが教える原因結果の法則であり、因果応報の法則です。自然の法則であり真実の法則です。
 
自然に逆らわず、自然の法則である仏の教える法を受け入れることが智慧の心である、と親鸞聖人は教えています。智慧は生きるための力です。自分の力ではないので他力と言います。他力は仏の願う心です。悩みの中にいる衆生を救いたいという心です。願力とも言います。
 
科学も文化も発達していなかった昔、自然の力や法則を説いて教えることのできるのは仏さんだけでした。教育も十分でなかった人々に納得できるように教えるには仏教という形をとるしかありませんでした。近代文明の現代でさえ、科学や文化が不完全である限りは、仏教という形の教えが必要とされます。
 
煩悩が無限であり、苦悩が無限である限り、無量寿如来である仏さんに頼るしかありません。
 
「発心」は本来(ほっしん)と読みますが、漢音では(はつしん)と読みます。「発心」は「発菩提心」という意味で、仏になろうという願心をおこすことです。すなはち、出家して仏門に入ることをいいます。  
 「範衛」は、真如に則(のっと)り真如を護(まもる)るという意味です。真如は真理・真実のことです。仏は嘘や偽りを嫌います。この世の真理・真実を私たちに教えてくれているのが仏教です。宗教は、科学とは反対の立場にあるように思われているかもしれませんが、もしかすると科学以上に科学的かもしれません。科学の

ように理論的に証明したりすることはすることはないようですが、人間の心に証明を求めます。形式や理論にとらわれることなく、自由に広々と真実を求め、感情や気持ちに問いかけます。そこに信心が生ずるかどうかが大切なことなのです。
私たちはこの世で、自分が持っているものを他の人の持っているものと比較して、自分のほうが大きいとか高価だとか、上だとか下だとか決めてしまいます。そこで幸せだとか不幸せだとかも決めてしまうようです。この世で何かを比較する時、最高とか最上とかいうことはありえないのではないでしょうか。必ずその上があります。オリンピックで優勝しても、その時だけで次回はどうなるかはわかりません。無常だからです。自分が最高だと思った時には、その瞬間に最高でなくなっているのかもしれません。他と比較している限りは、本当の幸せを手に入れることはできないようです。
 
宗祖親鸞聖人は、自分のことを「愚禿釈親鸞」と自称しています。自分は愚かな人間だと言っています。ところが仏様はその愚かな人間をこそ救おうとしてくださるのだ、と断定しています。愚かな人間こそ救ってやらなければいけないのだ、と仏様は考えているのだそうです。愚かな人間とは、自分はどうしようもない愚かな人間だと自分自身が思っている人間です。他の人が言っていることではありません。
 
自分の幸せを他の人の幸せと比較ばかりしている愚かな私たちにさえ、仏様は幸せの光を当てて下さっているそうです。他と比較していても見えない光です。自分独自の光です。「朝には紅顔あって、夕べには白骨となれる身」である私たちは、いつどうなるかわからない毎日を送っています。それなのに今生きています。生きているだけでなく、他と比較できない何か自分にしか与えられていない恵みがあるということです。煩悩の心をしばし脇に寄せて、じっくり自分を見つめてみると見えるかもしれません。他からはどんなに不幸そうに見えても、当人は幸福を感じているということもあります。
 
「青色青光 黄色黄光 ・・・」はあの世の浄土の光ですが、仏さんはこの世にも光を照らしていてくれます。仏さん自身は色の光を放っていますが、私たちの上では青であったり、黄であったりします。青は青なりに、黄は黄なりに美しく輝いています。仏さんは、法事のたびに私たちが仏さんの前に座ると、自分が照らされている光に気が付くようにと教えておられます。自分を照らす光に気が付いた時、いつも不平不満でいる自分を反省し、そのような自分を照らしていてくれる慈悲光に感謝できるのでしょう。
ロウソクの灯明は、仏さんの慈悲光に思いをいたすようにと輝いているのです。
[不退転」 たとえ仏さんの救済が見えなくとも聞こえなくとも、念仏を称えれば必ず救われて極楽浄土に往生するという位が「不退転」です。親鸞聖人は浄土和讃に「真実信心うるひとは、すなはち定(じょうじゅ)のかずにいる、不退のくらいにいりぬれば、かならず 滅度(めつど)にいたらしむ」と謳(うた)い、念仏を称えて信心をいただけば、不退の位について必ず浄土に往生できる、と教えてくれました。
 私たちの現実の世界においても、注意して人生を見つめますと、苦の世界ばかりではなく、楽の世界もあり、苦楽紙一重または苦楽同体とも言える状況ではないでしょうか。禍福(かふく)はあざなえる縄のごとし、とも言います。視点を転じますと、今まで苦労と思っていたことが幸いとなったり、楽しみであったことが苦痛になったりすることもあります。

私たちの苦の世界の裏には楽の世界も準備されているようにも感じられます。正直に心を観察しますと、自分の心は鬼のようだと思っていても、ふとしたはずみに仏さんのような温かい心が顔を出す時もあるのではないでしょうか。念仏は、このような楽の世界を心に思い浮かべるキーワードとも言えます。

「不退」 人生は長い旅にたとえられることがよくありますが、私たちが旅行をする時、これは人生の縮図だと考えたりすることがあるのではないでしょうか。
 
どこかの観光地や温泉などに旅行する時のことを考えてみましょう。旅行先をどこにするのかを考えたり相談したりしている時からすでに旅の楽しさは始まっているのではないでしょうか。否、旅をしようと思い立った時から旅の楽しさは始まっています。旅の目的地に着きさえすればそれでよしというものでもありません。

新幹線に乗ったりバスに乗ったり歩いたりして、景色を眺め、各駅の雰囲気を楽しみ、村の生活や都会の生活を流れる風景の中に観察したりして、目的地に着くまでの過程を思う存分に楽しむのではないでしょうか。目で楽しむだけではありません。おいしい弁当を食べたり、仲間とおしゃべりをしたり、あの人の悪口を言ったり、この人の優れていることを驚いたり、人生について語り合ったり、と楽しみは止まることを知りません。そのうちに、どこへ旅をしようとしているのかを忘れて駅を乗り過ごしたりすることもあるでしょう。
 
旅の目的は、目的地に到着して目的の楽しみを享受するだけだとしたら、旅はきっとつまらないものになるでしょう。目的地に着く前に予期せぬ出来事があったり、困難なことに出くわしてそれを乗り越えたりするところに旅のおもしろさがあるのではないでしょうか。目的地に着くまでの過程の中にこそ、本当の旅の味わいがあるとも言えます。
 
人生という旅における目的が、理想の世界すなわち極楽浄土に到達することだとしても、人生の本当の醍醐味やおもしろさは、旅行中である今この時にこそあるのではないでしょうか。
 
旅をしようと思い立った時から旅が始まるとすれば、それはいつでしょうか。仏教においては、浄土へと続く道を歩き始めた時から旅は始まると言えます。具体的に言いますと、それは私たちが念仏を称えてみようという心の生ずる時でしょう。念仏を称えた時から浄土への旅が始まります。一度称えると、浄土へと続く道を歩き続け、迷うことも退くこともないそうです。法名の「不退」ということばここから来ています。
 
「不断煩悩得涅槃」  私たちが生きている限り煩悩を捨てることはできませんが、念仏の道では煩悩は重荷では無くなっていきます。煩悩はあるけれども救われていきます。お葬式の時に、親鸞聖人の書かれたお経である「正信偈」が読まれますが、その中に「不断煩悩得涅槃」とあります。煩悩を断たずして涅槃を得ることができる、と言っています。煩悩があっても救われるということです。今現在生きている私たちが救われると言うのです。仏さんの力だからです。
 
親鸞聖人は、煩悩と涅槃(さとり)は氷と水の関係のようなものだと言っています。氷が多ければ多いほど水も多くなると言っています。現代的に言えば欲望ですが、欲望が多くても嘆くことはない、心配するな、欲望は氷が溶けるように溶けて水になると言うのです。私たちは欲が深いために苦しんでいるのが現状でしょう。この欲をどうするのかを教えてくれるのが、仏さんの智慧です。
 
私たちが自分の心の中を正直に見た時、やっぱり煩悩で汚れていると素直に認め、常々そのことを反省し、そのような自分でも救われていく道を歩いて行けることを感謝し、あとは仏さんにすべてをおまかせしてただ念仏を称えるだけ、という仏さんの教えであり仏さんが教える生きていく智慧です。念仏の中には、反省と感謝と、「仏さん、頼みます」という意味が込められています。
















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「福智蔵」という言葉があります。「福」はあらゆる善い行いのことを言います。善い行いとは、善い結果を生み出す行いのことです。この善い結果をも「福」と言います。「智」は智慧のことです。智慧はこの世のあらゆる法則を正しく見る眼のことです。科学でも推し量ることのできない、知識や数式を超えた法則を見る眼です。

「福智」は無限なる修行によって得られるものです。無限なる修行はこの世では完成されるものではありませんが、時空を超越したあの世では、仏さんによってすでに完成されているそうです。仏さんは無限なる修行を完成したので「福智」を得ることができたというのです。そうして仏さんになることができたのです。

 この世に生きている私たちには、無限なる修行などできません。短期間の修行でさえできるものではありません。修行にたえられるようなりっぱな人もいるのかもしれませんが、人間の心や身体はなかなか自由になるものではないようです。

私自身の心の中を見てみても、純粋に美しい心の状態になれるものかどうか、とてもなれそうもありません。 そんな弱い汚れた心の私たちのために、仏さんは南無阿弥陀仏という六字の念仏の中に「福智」をすべて入れて下さったということです。

無限の修行によって得られてものが、たった六字の文字の中に入っているということは、とても信じられないようなことです。あまりにも法外な突飛なことのようで、嘘のような話でもあります。科学の世界では理解できません。理論も言葉も超えた世界のことです。つまりは、四次元以上の超高度な世界のことでしょう。

 親鸞聖人が尊敬している高僧が七人おります。インドの国の龍樹、天親、中国の曇鸞、導綽、善導、日本の国の源信、源空の七人の僧です。この七人は、親鸞だけではなく仏教界においても高僧として信頼されている方々です。この高僧達が皆、念仏には「福智」が円満していると太鼓判を押しています。「円満」は完全に満ち満ちているという意味です。

 念仏の教えをいただいた私たちは、ただ念仏を称えるだけでいいのです。よけいなことを考えないで七高僧を信じ、親鸞を信じ、お寺を信じ、ただ念仏するだけです。

心が純白な子供達は、朝は「おはよう」、昼は「こんにちは」、晩は「こんばんは」、ご飯を食べる前は「いただきます」、食べた後は「ごちそうさま」と言うものだと教えられると、信じている親の言うとおりに言います。

このような言葉は無駄な言葉だと思う人はあまりいないでしょう。意味など考えなくても、生活の中では大切な必要な言葉として認められているのではないでしょうか。

 苦しい時、楽しい時、悲しい時、うれしい時、感謝する時、反省する時、いつでも念仏は私たちの味方になってくれるはずです。まず、称えてみることです。合掌して念仏するという型が生活の一部になった時、生活にうるおいが出てくると思われます。心の余裕というものかもしれません。

 二千五百年も昔から伝えられてきた人間の生きる智慧は、嘘やごまかしであるはずがありません。必要のないものであれば、時の流れに選ばれて、捨てられていたはずです。念仏の教えは、今でも受け継がれ、脈々と息づいています。
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「仏」
仏さんって何だ?という疑問は誰にでもあることだと思いますが、仏さんの正体は慈悲心です。苦しんでいる人をなんとかして救ってあげたい、苦を和(やわ)らげてあげたい、そして楽を与えてあげたいという心が慈悲心です。

慈悲心だけでは姿は見えないし声も聞こえない存在なので、私たち人間に理解できるようにこの世に姿を現したのが仏像であり、絵像であります。さらに、菩薩としてこの世に姿を見せているのが観音菩薩とか地蔵菩薩など無数の菩薩がいて、仏さんの教えを広める仕事をしています。

現実のこの世に誕生した仏さんがお釈迦さんです。仏さんが人間の身体を借りて姿を現したのがお釈迦さんなのか、お釈迦さんが修行をして仏さんになったのかはわかりませんが、どちらにしても慈悲心が仏さんであるとするなら、お釈迦さんも仏さんに違いありません。

私たち人間も仏さんになる可能性を持っています。私たちの心の中にも少しは仏心があるかもしれないからです。
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 仏教に「佛佛想念(ぶつぶつそうねん)」という言葉があります。私たちが理想とする安養浄土(極楽浄土)では、仏さんと仏さんがお互いにお互いの幸せを願って、相手の姿や容姿(相)を心に想い浮かべて、幸せであるようにと願い、念じているそうです。

浄土に住んでいるのは仏さんです。その仏さんたちが皆お互いにお互いの幸せを願っているのですから、浄土は「争(あらそ)」いが「B(みず)」に流されたように「浄(きよらか)」な国土になっているのです。
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文明は、人間が火を使うようになった頃に起源があると言われています。文明はなぜ発展していったのでしょうか。人間はなぜ火を使ったのでしょうか。
 火は暖かいので、寒い地方で生きていくのに欠かせません。また、火は食べ物を柔らかくし、消毒もしてくれます。
 
野生に生きている動物や植物にとって、火は必要ではありません。動物はりっぱで丈夫な皮膚や毛皮を身につけています。胃腸だって生のものをどんどん食べられるようにできています。植物だって強いです。雑草は決して絶滅しません。どこにでも生えてきます。 人間だって原始的な人間は野生に生きていました。

しかし、現代社会に生きている人間はほとんど野生の環境では生きてはいけないのではないでしょうか。本来自然の中では生きていけないような弱い人間は、火のおかげで生き延びることが可能になったようです。 文明が火に象徴されるように、文明というものは弱い人間である私たちを生かしてくれるものであります。弱い者を生かしてくれないようなものは文明ではありません。
 
医学は身体の弱い人間をお客さんとします。宗教は心が弱い人、心を良くすることの難しい人をお客さんとします。悪いことをしたくないけれどもやってしまった。反省しても反省しても心が良くならない。強く生きようとしてもすぐにくじけてしまう。優しくしようとしても優しくできない。笑顔でいようとしても笑えない。本当に自分がいやになってしまう。このような人間であればあるほど仏さんは温かく受け入れてくれます。そのままでいいんだよ、と。
 
仏さんは、本当の自分の姿を見つめるようにと教えてくれています。嘘をつかないでごまかさないで正直に自分を見つめるようにです。これが私たちの宗教である浄土真宗の出発点です。
「法」は「水が去る」と書き、水は高いところから低いところに流れるものだというような自然の法則のことをいいます。自然の法則は真理です。仏は、この世の衆生が悩み苦しむのを憐れみ真理の世界より現れ、仏法を説きました。仏法が私たちの心の闇を照らしてくれので「法燈」ともいわれます。

仏前にロウソクを立て灯をともすのは、心の闇を照らしていただきたいという私たちの願いからなのです。法燈の光が煩悩の闇を晴らし、私たちの本当の姿を照らしてくれます。

「法爾」  仏陀は、科学的な面から見ますと大自然とか無限とか言われます。「爾」はそのようにしからしむとういう意味です。「法爾」は、大自然の法則に従ってその通りに存在するということです。

親鸞聖人の「正像末和讃」に「法爾というは、如来の御ちかいなるがゆえに、しからしむるを法爾という。この法爾は、御ちかいなりけるゆえに、すべての行者のはからいなきをもちて、このゆえに、他力には義なきを義とすとしるべきなり。」とあります。仏法は自然の法であり他力であります。

仏陀は、宗教的な面から見ますと「大慈悲心」です。「大」は有限な人間を越えているという意味です。仏の説く仏法は、苦しんでいる人間を救うための法則です。人間を救うための法則は「慈悲」にあります。

「法楽」  仏さんが教えてくれるものを仏教と言います。仏さんは、この世がどのような仕組みでできているのか、この世がどのようなものであるのかを教えています。

この世は無常であることを、仏さんは第一に教えています。この世の第一の法則が無常であると教えてくれています。無常というのは、どんなものでも、どんなことでも、どんどん変化しているということです。

どんなに美しい花でもいつかは枯れるように、どんな生き物もいつかは枯れ果てなければなりません。どんなに健康でも病気にならないということはありません。どんなに若くとも、刻々と年老いていかなければなりません。幸福がいつまでも続くとは限りません。変化しているのです。同じということはありません。それがこの世の法則です。仏さんの教える法です。

良いことがいつまでも続かないように、悪いことがいつまでも続くとは限りません。必ず変化します。この世の地獄を見たと言う人がいます。そのような人は、今地獄にはおりません。生活のどん底にいる人は、それ以上落ちることはありません。より良くなるだけです。希望があります。不幸のまっただ中にいる人は、幸福へと向かっているに違いありません。それがこの世の法則だからです。

この世の法則は仏法でもあります。つらく厳しい面もありますが、どうしようもありません。自然の法則でもあるからです。冬は厳しいと言っても冬は無くなりません。地震も雷も嵐も嫌いだと言ってもどうしようもありません。来る時には来るのです。自然です。私たちは来るものを拒むことはできません。受け入れるしかありません。

受け入れる心ができた時、心は落ち着くのではないでしょうか。自然の流れに逆らおうとすると苦しみが伴って来ます。楽になろうとすれば、自然の流れに身をまかせるしかないのでしょう。

自然は一面私たちを苦しめているようですが、反面私たちを生かしてくれてもいるのです。恵みを与えてくれています。太陽だって雨だって、空気だって風だって私たちに恵みを与えてくれています。山にも川にも海にも大地にも、それぞれ幸があります。自然は私たちに豊富な恵みや幸を与えてくれています。

仏さんは、このような大きな命とも言える大自然に、または仏さんの教えてくれる大自然の法則にすべてをお任せしなさい、とすすめています。すべてをお任せします、という言葉が「南無阿弥陀仏」または「ナマンダブ」です。

「法印」  地球が太陽の周りを回り、月が地球の周りを回るというような法則です。これは人間の力でどうこうできるような法則ではありません。私たち人間はただこの法則に従って生きるしかありません。

 仏さんはこの世の法則の中の、1諸行無常、2諸法無我、3涅槃寂静という三つの法則を特に教えています。これは、仏教の特徴を表す旗印として「三法印」と呼ばれています。

「法界」  この世の中に存在するあらゆるものは、形あるものも形のないものも何かの法則にもとづいて存在しています。機械でも生物でもどこかが狂うとこわれてしまいます。ある規則からはずれると動かなくなってしまいます。

自動車であれば人間が運転して高速で走れるように、いろんな規則にもとづいて作られています。飛行機であれば空を飛べるような法則にもとづいて作られています。犬は犬になるような法則によって生まれてきます。猫は魚になったりしません。

猫は猫になるように作られています。リンゴはリンゴに、トマトはトマトになるような法則にもとづいて作られています。どこかが、なにかが法則からはずれてしまうと、飛行機は墜落し、犬は病気になり、トマトは枯れてしまいます。

宇宙全体のことを法界とも言います。一如法界とも言います。一如は唯一絶対にして不変なる宇宙の真理のことです。真理は宇宙の法則です。誰にも変えられないものです。すでに宇宙全体がこの真理によって存在しているからです。

人工衛星が地球を回っていられるのは、この法則にしたがっているからです。人間がこの世に生きていられるのもこの法則にしたがっているからです。

人間が幸福に生活できるのは、幸福に生活できるような法則にしたがっているからです。不幸な生活を送っている人は、不幸な生活を送るような法則にもとづいているからでしょう。

人間が皆が皆同じような幸福な生活をすることができる、と言っているのではありません。一人一人それぞれ異なった生活でも、それぞれ幸福のあり方があるはずです。その人その人の幸福のあり方を見つける手助けをしてくれるのが仏さんです。



















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「法輪」

仏教に「初転法輪」という言葉があります。お釈迦さんが初めて仏さんの教えを布教したことを意味しています。車輪が地面のあらゆるものを打ち砕いて進むように、仏さんの教えが私たちの煩悩をことごとく打ち砕き始めたことを表現しています。
 
仏教用語に「法(ほつ)性(しよう)常楽(じようらく)」という言葉があります。親鸞聖人の「高僧和讃」に次のように書かれています。
 
   煩悩具足と信知して    「私は心を煩わせ悩ませるような欲望を持っている、そのような人間である」と信じ自覚を
して
                            
  本願力に乗ずれば、    「煩悩を持っている人間をなんとかして救ってあげたい」
               ............と願う仏さんの、私たちを救おうとするその力に身をまかせれば、
 
  すなわ穢身(えしん)すてはてて   すぐにそのまま穢(けが)れた身はすっかり消えてしまい
 
  法性常楽證(しよう)せしむ    あらゆる迷いの法に災いされることなく、常に真理の世界の落ち着いた安らぎを楽し ........................................................................むことができる
 
 「本願力に乗ずる」ということは、念仏を称えるということです。念仏は「私にまかせなさい」という仏さんの言葉であり、「仏さんにすべておまかせします」という私たち救われていく者の言葉でもあるからです。

 私たち迷いの多い人間には厳しい修行は耐え難く、効果のあるものとはなりません。そこで仏さんは慈悲心をもって、あらゆる修行の成果(功徳)が込められている行を私たちに与えてくれました。それが「南無阿弥陀仏」という行です。南無阿弥陀仏と口に称えることを念仏といいますが、この念仏が行となるのです。

人間が自分で修める行(自力)には限界があり、人によって成果は異なります。しかし、念仏行は仏さんが修めた行ですのでその成果は無限です。私たちの浄土真宗を開いた親鸞聖人が書いた「教行信証」 の行巻には、「その行は即ち是諸の善法を摂し、諸の徳本を具して極速円満す。

真如一実の功徳法海なり、かるが故に大行と名くる」とあります。「南無阿弥陀仏」と称えることが大行であり真実の行であると書いています。私たちは念仏を称えることによって救われていくのです。どのような厳しい修行にも耐えられるようなりっぱな強い人間は、自分の力で仏になっていくことができます。

しかし、私たち凡夫はそうはいきません。凡夫である自分のことを常々反省し、仏様の力に頼って生きていかなければなりません。
 
 念仏を称えて生きる姿勢が大切なのではないでしょうか。謙虚に自分を省みて生きていく生活にこそ安らぎの心が宿るのではないでしょうか。
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「宝」

私たちが心から欣(よろこ)んで求(ねがいもと)める極楽浄土は、七つの寶石(ほうせき)で飾り立てられているとお経に書かれています。金(こん)、銀(ごん)、瑠璃(るり)、玻璃(はり)??(しゃきょ)、赤珠(しゃくしゅ)、瑪瑙(めのう)の七種類の宝石です。これらの宝石は、どのくらいの価値があるのだろうかとか、円に換算すると何円だろうかとか値踏みをするようなものではありません。

ただただ美しく、それぞれの宝石がそれぞれの色の輝きの光を放っており、見る目を楽しませてくれ、見る人の心を美しくし、十分に満足感を与えてくれる石です。見物料の額しだいではもっと美しく見せるなどということはありません。この世の基準を超えている世界のことです。


 目が見える私たちにとって、毎日の生活で見ている世界が真実の世界であり、他に世界は無いように思われます。ところが、見ている物は同じでも、心で感じていることは見る人によって異なることはしょっちゅうあります。物の大きさ、美しさ、味わい、匂いなどの感覚、価値が有るとか無いとかの価値基準などは個人によりそれぞれでしょう。私たちの肉眼に写っている物の像は、あくまでも形と色の像であって、その物がもっている性質や特徴、働きなどは目に映りません。

 目に映った像が心に届いた時に、その像が心の中にどのように写し出されるのかが問題です。人の心は様々です。みんな異なります。その人の経験や知識や教養、地位、身分、環境などにより、心に写し出される像の意味合いが異なってきます。自分にとって都合の良い像だけを写し出しているかもしれません。このように見る人によって異なる世界は真実の世界ではありません。

 仏さんの智慧が照らして私たちに見せてくれる世界は、諸行無常の世界であり、一切皆苦の世界です。常なるものは一つもなく、生滅の繰り返しです。生まれた喜びもつかの間、この世を去らなければならない人生です。生老病死苦の世界です。どんなに努力しても成功するとは限りません。成功しても、いつまで続くかもわかりません。無常です。無常は非情です。神も仏もあったもんじゃない、とさえ思われます。これも真実の世界です。

 この世は無常だけれども、この無常が「安養」の世界をも作り出していると仏さんは言います。「安」は心を安らかにし、「養」は身を養うという意味です。この世はあの世と同じく、安養の世界でもあるというのです。どこにあの安養浄土があるというのか、この世のどこを見てもそんなものはあるようには見えません。

しかし、 浄土真宗の開祖親鸞聖人も、インドや中国の高僧も、この世に浄土を見ているのです。耳を傾け、目を向けると私たちにも浄土が見えてくるかもしれません。苦の裏に楽があり、楽の裏に苦がということかもしれません。
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発 
仏さんが、私たち衆生がこの世で苦しみ難儀しているのを見て、なんとかしてあげたいものだと願ったことを「発願」と言います。欠けたところのない満月のように、完全なものであり不自然なところなど何も無く、そのままで何も問題など無い自然の世界に、ある時突然にゆがみが生じてきました。完全な世界にゆがみが生ずると、完全なるものはそのゆがみをどうにかして元の完全な状態に戻そうとします。

 自然界のゆがみというのは人間の心のことです。特に欲望のことです。欲望は欲しい欲しいという心であり、あれも望むしこれも望むという限りなく果てしの無い心です。この欲望をもった者どうしは当然にぶつかりあいます。さらにこの欲望は自然を必要以上に破壊し尽くします。他の人と喧嘩したり自然を破壊する行為は、ついには私たち自身が困る状態を引き寄せることとなってしまいます。それで、欲望は私たちの心を煩(わずら)わせ悩ませるので煩悩と呼ばれています。

 自然界の完全なるものは、ゆがみを元の状態に戻そうという願いを持ちました。自然界のものが願いを実現するため人間界に姿を現す時に、「仏(仏陀)」という名前を持ちました。仏(ぶっだ)はインドの言葉です。漢字で表すと「如来」となります。

「如」は「真理」という意味です。「如来」は真理の世界から来た者という意味になります。如来である仏さんが、私たちの煩悩をなんとかしてあげたいという願いを持ちました。願いを実現するための修行もしました。そして修行の結果を私たちにふり向けてくれました。

  親鸞聖人は「教行信證」という本の中でこのように言っています。
 
    一事として          (どんなことでもすべてが)
 
    阿弥陀如来清浄願心の     (仏さんが私たちを救いたいと願う心から)
 
    回向成就したまえるに    (私たちに届けて実現しているもの)
 
    非ざること有ることなし    (でないものはないのです)
 
 私たちの知らないうちに、仏さんはこんなことをしてくれていたのです。私たちはすでに、仏さんの救いの手の上にいるということです。私たちが気づいていないだけなのです。私たちは、ただ念仏を称えるだけでよいと言うのです。仏さんを信じて念仏を称えるのですが、その信ずる心さえ念仏の中に入っていると言うのです。

 念仏を称えて生きるという姿勢の中に、自然に心の安らぎが浮かび上がってくるということでしょうか。 
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親鸞聖人は、煩悩と菩提(さとり)は氷と水の関係のようなものだと言っています。氷が多ければ多いほど水も多くなると言っています。現代的に言えば欲望ですが、欲望が多くても嘆くことはない、心配するな、欲望は氷が溶けるように溶けて水になると言うのです。私たちは欲が深いために苦しんでいるのが現状でしょう。この欲をどうするのかを教えてくれるのが、仏さんの智慧です。

私達の日常生活は、毎日が楽しくて幸せなことばかりとは限りません。むしろ、つらいことや苦しいこと、いやなことが連続している日々ではないでしょうか。なぜこのような状況になるのでしょうか。
 
仏さんは、その原因を私達の心の中に見つけました。煩悩です。煩悩は熱い太陽に照らされた乾いた砂のようなもので、いくら水を注いでもすぐに乾燥してしまいます。満足するということがありません。私達はどんなに恵まれていてもそのことに気付くことがありません。煩悩という色眼鏡を通して世界を見ているからです。
 
ごまかしのない、うそいつわりのない、本当の姿が見える世界を浄土と言いますが、現代の言葉で言えば真実の世界とか、科学の世界とかいうのかもしれません。仏さんはこの真実の世界から悩み苦しむ私達を見て憐れみ、本当の世界を知らせるためにこの世に人間の姿をして現れました。

現実生活の中では、何が正しく何が本当でどのようにあるべきか、ということは頭の中では理解できている人が大部分ではないでしょうか。わかっているけど、どうしようもない現実があります。煩悩から逃れることはできないからです。

人間である限り、自分の力ではどうしようもない私達は、他に頼るしか方法はありません。他とは仏であり仏の力です。仏にすべておまかせする時の言葉が南無阿弥陀仏です。欲望を満足させてください、というお願いではありません。結果はどうあれ、おまかせするということです。

「不断煩悩得涅槃」   親鸞聖人の開かれた浄土真宗におきましては、私たちは念仏を称えて救われていく道を歩いて行きます。極楽浄土へと続いている道なので、安心して歩いて行けます。

道には菩提樹の姿をした仏様が立っていて、常に私たちを見守ってくれています。煩悩に汚れ悩み苦しんでいる私たちを導いてくれます。私たちは煩悩を背負って念仏の道を歩いて行きます。

私たちが生きている限り煩悩を捨てることはできませんが、念仏の道では煩悩は重荷ではなくなっていきます。煩悩はあるけれども救われていきます。お葬式の時に、親鸞聖人の書かれたお経である「正信偈」が読まれますが、その中に「不断煩悩得涅槃」とあります。

煩悩を断たずして涅槃を得ることができる、と言っています。煩悩があっても救われるということです。今現在生きている私たちがそのまま救われると言うのです。仏さんの力だからです。






























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親鸞聖人の母が、若松の枝を持てる観音の像を夢見て、その後聖人を産んだので、聖人の御幼名を松若麿(マツワカマル)とされたと伝えられています。  
 仏教に末法思想というものの考え方があります。お釈迦様の滅後五百年間を正法といい、仏教の教えが正しえられ、教えが守られ、教えに従って悟りを得る人もいるという時代です。その後千年間を像法といい、仏教の教えはあるが像(かたち)だけしか残っていなくて、教えが像だけしか守られないような時代です。末法は、お釈迦様の滅後千五百年から後の一万年間をいいます。

 正確な年代はわかりませんが、親鸞聖人の時代にはすでに末法の時代に入っていたと考えられます。末法では仏の教えは廃れ、守ろうとする人もいなくなり、この世も末だ、と言われるような時代になります。いくら自分の力で功徳を積もうとしても、修行をしようとしても効果がなく、自力のはかなさを知らされることになります。

 親鸞聖人はその著書「教行信證」の後序において、「ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行證久しく廃れ、浄土の真宗は證道今盛んなり」と言っている。自分の力ではとても及ばない時代だから、ひたすら仏の力にすがろう、仏のすすめる念仏を称えるだけでいいのだから、だれでも救われるのだ、末法の世であればこそ他力の念仏がいよいよその本領を発揮できるのだ、と教えている。

 病人の多い町や村でこそ医者が必要であるように、悩み多き人間の多い末法の世でこそ他力の念仏が必要なのです。自力で救われなければ、仏力に頼るしかありません。今の時代にふさわしい教えが浄土真宗の教えであるといえます。

 親鸞聖人の手紙を集めたもので「末燈鈔」という書があります。「末燈鈔」の書名は、末法の世を照らす燈火のごとき書という意味です。

救われる道がまったく無いような末法の世の中において、暗闇を照らして私達が歩いていくべき道を明らかにしてくれるローソクの灯のように、この世を照らしてくれるのが念仏です。親鸞聖人の生きた鎌倉時代に、待っていましたとばかりに念仏の教えが広まったのは、まさにこの時代が求めていたものだったからでしょう。これが「念仏往生さかりなり」と聖人が言われた理由です。念仏は末法の世を照らす仏法の灯火だったのです。現在でも照らし続けています。
 
親鸞が一番重視しているお経である大無量寿経の中に次のような言葉があります。
 「自然の徳風起こりて、万種温雅の徳香を流布す。それを聞(か)ぐことあれば、塵労垢習、自然に起こらず。風その身に触るるに、みな快楽を得(う)。」
 極楽浄土の中では、私たちの五感である視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を楽しませ満足させるような種々のもので満ちあふれているそうです。そのうちの嗅覚を楽しませてくれるものについての説明がここでなされています。

「極楽では、私たちの心や身体の健康にとって良い影響のある風が自然に吹いて、あらゆる種類のやさしくおだやかで、洗練されて上品な良い香りを一面に吹き散らしている。この香りをかぐと、世の中におけるわずらわしい苦労や苦しみ悩みが起こらなくなる。身体がこの風に触れると、誰でもが皆快楽を感ずる。」
 この世において私たちが目で見て楽しみ感動するものはたくさんあります。桜などの季節の花々。自然の景色。美しい人。動物。絵画。無数にあります。耳で楽しめるものも限りなくあります。音楽でしょう。鳥の声でしょう。渓流の音、自然の音、街の音、いろいろあります。鼻で楽しめる花の香り、海や山の香り、好きな食べ物のにおい、多種多様です。味覚でも触覚でも楽しめるものの数は知れません。

 極楽浄土は極楽ですが、この世も捨てたものでもありません。苦も多いですが、楽もけっこう多いです。仏さんが極楽浄土をつくって、極楽はこんなにも良いところですよ、と私たちにさかんに教えてくれるのはなぜでしょうか。この世は暗くて悲しくて苦しいところですが、死んであの世にいけば、明るい楽しい世界が開けますよ、と仏さんが教えているのだとしたらどうでしょう。

あまりにも残酷ではないでしょうか。私たちが今住んでいる世界は、救いようのない地獄だと仏さんが教えているのだとしたら、私たちはみじめになり早く死にたくなるのではないでしょうか。仏さんは私たちに早く死ぬように教えるわけがありません。

 私たち人間はなんでもわかっているような顔をして生きていますが、意外とわからないことだらけではないでしょうか。苦しみについてはそれなりにわかっているかもしれませんが、楽しみについてはよくわかっていないように思われます。楽しみをわからなければこの世は地獄でしかありません。

そこで仏さんは、楽しみとはこのようなものですよ、と教えてあげたくて極楽を創造して、この世の楽しみの見本とするようにと考えたのではないでしょうか。

 目の前に美しいものがあっても美しいと思えない、すてきな音楽が聞こえてきてもすてきと思えない、おいしいものを食べても感じない、というような状況では、心がどこかに離れているとしか考えられません。

 極楽は目の前にありますよ、よ〜く目を開いて見てください。極端な表現ですがそういうことではないでしょうか。
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 曼
 「曼陀羅華」
 浄土真宗におけるお経というと「三部経」と呼ばれる三つのお経のことをいいます。その一つである「仏説阿弥陀経」というお経の中に、極楽浄土について次のように述べられているところがあります。
  
   池中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光 微妙香潔        
                         池の中の蓮華、大きさ車輪のごとし、青き色には青き光、黄なる色には黄なる光、  
                         赤き色には赤き光、白き色には白き光あり。それぞれが品良く高潔に輝いている。
 
   常作天楽 黄金為地 晝夜六時 而雨曼陀羅華  
                          常に天の楽を作す 黄金を地とす 昼夜六時に 天の曼陀羅華を雨(ふ)る
 
 「曼陀羅」は「さとりの境地」または「極楽浄土」のことを意味します。極楽浄土の仏さんたちは、この曼荼羅華をいっぱいに持って他国の仏さんたちを供養するそうです。曼陀羅華が雨のようにふる極楽浄土では、あらゆるものが比較されることなく、平等で、善し悪しを超えていて、差別されることなく、分別もなく、それぞれがそれぞれの色や形を持ち、皆が皆生き生きと輝いているそうです。
 
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阿彌陀佛の彌。親鸞聖人の書かれた「教行信證」の信の巻に、「彌勒大士は等覚金剛心を窮む」とあり、彌勒(みろく)菩薩 は佛の證(さとり)とほとんど同じ地位にいる、といっております。また同じく親鸞聖人の書かれた「正像末和讃」には、「念仏往生の

願により等正覚にいたるひと、すなわち彌勒におなじくて、大般涅槃をさとるべし」とあります。念仏をとなえて往生したひとは、すなわち彌勒菩薩と同じく、すべての煩悩の束縛より脱し、迷いの生死を超越して、佛の悟りの境地に入っていく、という意味です。(「彌」という漢字には、「長く久しく」「いよいよ、ますます良くなる」という意味もあります) 

 
「微風」  

浄土真宗において「真実の教」と言われる「仏説大無量寿経」に「得深法忍、微風徐動」という言葉が出ています。「仏説大無量寿経」には、仏さんの住んでいる極楽浄土について書かれています。

 極楽浄土には菩提樹という大木があります。あまりに巨木で大きさを測ることもできないほどです。極楽浄土に微風が吹くと、菩提樹の枝と枝についている葉という葉がすべてゆれ動いて、すばらしい音を出すそうです。この音はいろいろな仏さんたちの国々に響き渡ります。この音を聞いた者は悩みや煩いが無くなり悟りを得ることができるそうです。

悟りを得た者は、目には美しい光が見え、耳にはすばらしい音が聞こえ、舌には深い味わいを感じ、鼻には妙なる香りを嗅ぎ、心には仏さんの教える法を得ることができるそうです。

 本明寺の門の掲示板に今月の言葉として

     幸せ者とは  小さな喜びを  十分に 味わえる人

                      という言葉を掲示しました。

 「微風」は「そよ風」とも読みます。「そよ風」は強い風ではありません。わずかな風です。「そよ風」はわずかの風ですが心地の良い風です。私たちを幸せにしてくれる風です。このわずかの風にしあわせを感ずることのできる人は、身体全体の五感で幸せを感じているはずです。仏さんの教える仏法というのは、このようなことではないでしょうか。

 この世には苦しいことや悩み事が尽きることなくありますが、喜びも無いわけではありません。ややもすると私たちは苦しいことばかりに目を向けていることがあります。もしかして、苦しいことばかり探しているようにも思われます。楽しいことを探してみることも必要です。意外なところに意外な楽しみや喜びがあるかもしれません。小さな喜びかもしれませんが、身体全体で幸せを感ずることもできるはずです。

 「仏説大無量寿経」に出てくる「微風」は、私たちにこのようなことを教えてくれているように思われるのです。
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「妙」  言われぬほど美しく、奥深いと言う意味です。妙果とか妙覚というように使い、真実の殊妙なる結果とか仏の覚りなどを表現する時に使用されます。浄土真宗を開いた親鸞の著書「教行信證」に「然るに常没の凡愚、流転の群生、無常妙果の成じ難きにはあらず、真実の信楽実に獲難し」とあります。

「妙覚」  仏さんの覚(さと)りは一切の迷いを離れ、智慧円満にして殊妙なる覚りなので、妙覚と言われています。妙覚を得た者は極楽浄土に遊ぶことができます。

「妙高山」  世界の中心にある山で、七つの海と七つの山に囲まれており、太陽や月でさえこの山を中心に回っていると言われる高い山が須弥山(シュミセン)です。須弥はインドの言葉ではスメールと言い、須弥山を漢字で表すと妙高山と言います。ヒマラヤ山がイメージされているそうです。ヒマラヤ山は万年雪をいただいていることから雪山(セッセン)とも呼ばれています。

この山には四天王や諸天が住み、頂上には帝釈天が住むと言われております。仏さんは帝釈天のさらに上部に住んでいます。本堂の阿弥陀さんがいるところの宮殿の下は、須弥壇(しゅみだん)と呼ばれています。
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「命(みょう)」は、この世で悩み苦しんでいる私たちをどうしても救済しようとして下さる仏様の呼びかけであり、救いの手でもあります。この呼びかけを信じその手に身をゆだねた時の言葉が念仏です。「人事を尽くして天命を待つ」ということばがありますが、浄土真宗においては「天命に従いて人事を尽くす」のであるから、間違うことはないともいわれます。すべて仏さんにまかせて、あとは安心してがんばれということです。   H20

「無常」

常なることが何一つ無いこの無常の世の中では、起こり得ないことなどありません。なにが起こるか全くわからないと言っても過言ではありません。無常は、時には情け容赦なく襲ってきます。非情でもあり信じられず、受け入れることなど到底できないような現実を突きつけてきます。仏は、この現実からのがれるこ

となく全て受け入れるように教えています。私たちにとっては突然のことでも、自然の法に順(したが)って起こったことだからです。

今日しあわせでも明日はどうなるかわかりません。いつまでも若く健康であることもできません。いつ病気になるか、いつこの世の縁が切れるかまったくわからないのがこの世です。このことを無常といいます。どんなにつらくとも正面から向き合い、受け入れなくてなりません。逃げることはできません。

無常は、苦しみを持ってくるだけではありません。私たちに、しあわせや楽しいことも与えてくれます。どんなに貧乏でも、どんなに苦しくても、どん底であればあるほど必ず状況を変化させてくれるのが無常です。無常であればこそ私たちに希望を与えてくれるのです。
 
この世は無常であるがゆえに空(むな)しい世です。 「空」は「有にあらず、無にあらず」とお経に書かれています。どんな苦労でも苦と思えば苦ですが、ちょっとしたきっかけで楽になることもあるかもしれません。もちろん、どんなにしあわせでもいつ不幸になるかわからないのがこの世です。だから「有にあらず、無にあらず」なのです。どんな状況でも油断はなりません。また、希望をもたなければなりません。

「無碍の一道」 

 冬の雪が溶けたと思ったら桜が咲きました。その桜もあっという間に散ってしまい、あふれんばかりの緑の葉桜となりました。田んぼでは田植えが終わったそうです。大地が稲を育ててくれるのを待つばかりです。毎年同じ光景ですが、今年には今年の景色があります。今年しか見られない光景もあります。今年の桜は今年だけの桜です。二度と見られない桜です。
 
毎年同じことの繰り返しのようですが、過去は過ぎ去って戻ってきません。未来はまだ来ていません。あるのは現在だけです。その現在もどんどん過ぎ去って行きます。私たちの思いを無視するかのように時間は過ぎていきます。それでも自然の流れは自然の法則に従って流れているだけです。
 
畑の作物はお百姓さんが作っているのですが、作物の種は自然が自然の法則に基づいて生み出した物です。種が芽を出すのは、大地と太陽と空気などの自然の恵みのおかげです。葉っぱができるのも実が成るのも自然の恵みのおかげです。人間はちょっと手を貸すだけです。すべてが自然の法則に従って動いているだけです。葉っぱの努力は、太陽のいる方向に葉っぱの顔を向けることくらいです。
 
私たちの思い通りになることはこの世にほとんどありません。私たちの希望や要望が完全に満たされることもまずありません。与えられた結果を受け入れるだけです。
 
畑の作物に意志があるかどうかはわかりませんが、意志があっても無くても、その意志とは関係なく太陽は照り、雨はふり、大地は栄養分を与え、自然は作物を育てようとしています。恵みを与えています。時には台風が作物を襲い作物をなぎ倒すこともありますが、それも自然の流れであり法則に従ったものであります。この世に生きる物の無力さを感じさせられることでもあります。
 
この世に生み出されたものは自然に育てられ、自然に病み、自然に恵まれ、自然に老いて自然にこの世を去って行くことになる、という法則の下に生かされています。今生きている私たちも例外ではありません。仏さんが教えてくれていることは、自然のままに生きましょうということです。無理をしないでそのままに生き、後のことは仏さんにおまかせしましょう、ということです。

 「一道」は極楽浄土へ通じているたった1つの道のことです。この世の唯一絶対の法則である真理に従って生きていく道です。歎異抄という書に「念仏者は無碍の一道なり」と書かれています。念仏を称える人は、極楽浄土へと通じているたった一つの道を歩くことになる、という意味です。念仏は南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏は、自然の大きな命にすべてをおまかせします、という気持ちを表現したものです。水が高いところから低いところへと流れる時、その流れに逆らわず身をまかせるということです。
   
 























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「無量」

 「無量」は、量が無いという意味ではありません。量が多すぎて量(はか)る方法が無いという意味です。何キログラムとか何トンとか何立方キロとかの数字や言葉では表現できないということです。表現できないので不可思議と言ったりします。 量だけのことではありません。長さや距離のことであり、深さや高さのことでもあります。空間的なことだけではなく時間的なことでもあります。

 仏さんはもともと色も形もない方であり、その大きさも数字や言葉で表すことができないような方であるので、無量寿如来とか不可思議光如来と呼ばれたりしています。

 こんなことばかり言っていると、仏さんってどんな人かさっぱりわからないということになってしまいます。仏さんは人であるのではないし、人でないのでもないような方ですのでそれもやむをえないのですが、もし形に表すと仏像のような形になるのだろうし、もし絵に描くとすると絵像のような色や形になるだろう、ということです。文字にすると南無阿弥陀仏というように表現されるということです。

 南無阿弥陀仏はインドの言葉ですが、南無阿弥陀仏を漢字で表すと「帰命無量寿如来」となります。親鸞聖人の書いたお経「正信偈」の一番最初の言葉です。南無阿弥陀仏という念仏の意味が「帰命無量寿如来」ということです。「南無」は「帰命」という意味です。「阿弥陀」の意味が「無量寿」です。「仏」の意味が「如来」です。

 「帰命」は、「私にまかせなさい」という仏さんの心であり、「おまかせします」という私たちの心を表現するものです。「無量寿」は「時間と空間を超越した」という意味です。「如来」は「真理の世界からこの世に来たお方」という意味です。

 この世においてはあらゆるものが苦です。お金はあればあるほど便利ですが苦の種でもあります。家族は多ければ多いほど良いのですが、これも苦のもととなります。私たちは欲望を持っている限りは満足をするということは無いようです。思いどおりにならなければ不満であり、苦痛となります。

それで仏さんは、この世は一切皆苦と言っています。思い通りにならないことを思い通りにしようとするからである、と教えています。
 
思い通りになることはそれで良いのですが、思い通りにならないことは仏さんにおまかせするよりほかに方法はありません。仏さんにおまかせすると心が安らかになります。苦から離れられます。だから念仏を称えましょう、と親鸞聖人はすすめています。
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南無を参照  
光を参照
妙  「妙好華」

お経の中に「妙好華(け)」という言葉が出てきます。「妙好華」は白蓮華のことで、蓮華の中で最もすぐれたものと言われています。
 
極楽に生まれるのにもいろんな種類の生まれ方があるそうです。自分の力で極楽に行った人は、最高の生まれ方をすることはできません。仏さんにおまかせできない人は、極楽に生まれたとしても、極楽の片隅に生まれたりするそうです。また、自分が極楽に生まれたことに何百年もの間気が付かないでいたりするそうです。
 
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親鸞聖人が真実の経と言われ最も大切にしておられる大無量寿経というお経の中に「聞其名号信心歓喜」とあります。南無阿弥陀仏という名号(名前)を聞いて、なぜこの名号を称えれば救われるのかというそのいわれを聞いて(聞法)疑いなく信じ、浄土往生をよろこぶこと。これが真宗の教えの根本となっています。念仏成仏これ真宗とも言われるゆえんです。

浄土和讃に、「聞光力のゆえなれば、心不断にて往生す」とあります。

浄土真宗において大切にしているお経が三つあります。大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三部経です。親鸞聖人は、三部経の中には念仏を称えて救われていく方法が説かれている、と考えました。念仏を称えて救われると言いますが、念仏を称えるとなぜ救われるのかという理由を知らなければ効果は得られないようです。その理由を聞くことを聞法と言います。

聞法は一回だけで大丈夫というわけにはいきません。法を説く側も聞く側も完全ではないからです。ましてや煩悩まみれの私たちは、数回の聞法で悟りを得られるものではありません。煩悩のある限り、多分生きているかぎり聞法は必要なようです。

人間は、水をいくら注いでも注ぐそばから漏れてしまうザルのようなものだと言われています。それでは、聞法はいくらしても無駄かとも思われます。しかし親鸞聖人は、水がザルから漏れない方法を三部経の中に発見しました。その方法とは、ザルを水の中に浸けておくという方法です。つまり、生きているかぎり聞法の中に身を浸けておく、ということです。

そうは言っても、仕事もしなければならないし遊びもしなければならない人生です。時間も余裕も限りがあります。親鸞聖人は念仏を称えなさい、と教えています。念仏は立っていても横になっていても歩いていても簡単に称えられます。何時でも何処でも称えられます。

念仏を称えた時、聞法によって聴き開かれた世界が観じられるというのです。仏法の世界が心の中に広がります。昔の人は、仏になって仏の世界に住むことを最高の幸福と考えていました。お年寄りがなにかにつけて念仏を称えていたような時代もありました。

仏さんの見せてくれる世界は無常の世界です。無常の世界がどんな世界かということを聞くことが聞法ではないでしょうか。聞法によって仏さんの世界を観ずることができます。

 現代社会においては職業の技術を習得するための職業訓練校や専門学校などがありますが、昔はこのような学校はありませんでした。ある仕事の技術などを習得しようとすれば、徒弟制度などと呼ばれる方法にしたがって、丁稚奉公などをしなければなりませんでした。

大工さんなどは弟子奉公といったものをつとめなければなりませんでした。弟子として何年間かの期間は、親方の大工さんのもとでひたすら精進して働かなければ、一人前の大工としての技術を習得したものとは認められませんでした。
 日本古来の技(わざ)の習得方法は言葉や文字や理屈ではありませんでした。茶道、剣道、柔道、弓道などのほとんどの道においては、理屈無しの型から入って学んでいくという方法が主流でした。大工さんの仕事においても同じことであったようです。ある弟子が親方に質問したそうです。
 「親方はなぜカンナの刃の研ぎ方を教えてくれないのですか?」

親方はこのように答えたそうです。
 「他の人のカンナの研ぎ方を見て、それでもわからないような者には、言葉で教えてもわかるわけがない。」
 
見て覚えろということです。理屈ではありませんでした。型をまねしてやっているうちに覚えるということでした。
 
日本古来の武道である柔道は、初心者にはまず柔道の基本の型を教えます。初心者は基本の型の意味も重要さもわかりませんが、先輩に教えられるとおりに基本の型をまねしてやってみます。基本の型を実際に身体を使ってやっているうちに、その型の意味や重要さがわかってきます。そして実際に相手を投げ倒すことができるようになります。

初心者が基本の型を信じていようがいまいがどうでもよいことです。ただ実践しているうちに信心が湧いてくるのです。基本の型の中にすでに信心が入っているとも言えるでしょう。それは基本の型を作った人の信心ですが、その信心が初心者の心の中にしみこんで、初心者の信心となるのではないでしょうか。

仏さんの教えに「聞光」という言葉があります。「光」に「聞」くという意味です。「光」が言葉を話すわけではありませんが、その光景を見て光景の中から教えを学び、教えを「聞」くと言う意味です。光景を学ぶということは光景の中の型を学ぶことでもあります。大工さんであれば、兄弟子のカンナを研ぐ型を学ぶということでしょう。

念仏も同じことでしょう。親鸞聖人も「唯称念仏」という言葉を使って、ただ念仏を称えることをすすめています。浄土真宗の宗教学者である金子大榮師が言っています。
 
    「 手を合わせるかたちが おがむ心を生みだした 」
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「唯信」  教行信證の信巻に「涅槃の眞因は唯信心をもって能入となす」と書いています。涅槃という悟りの境地に入っていくための唯一の原因は信心であると言っています。悩み苦しむ私たちを救ってあげたいという仏様の大慈悲の心を信ずることが大事だということです。親鸞聖人が作られたお経である「正信偈」の中にも「正定之因唯信心」と、信心の大切さが強調されております。「正信偈」はお葬式で読まれるお経です。

人間は理屈では動きません。方程式がいくら正しくても、納得がいかなければ信ずることができません。理屈や理論を超越したところに信ずる心があるからです。親鸞聖人は、「唯称念仏」と言っています。ただ念仏を称えるところに、浄土への道が開けてくると言うのです。浄土への道は、浄土の一部です。道はすでに浄土です。私たちの生きているこの世界に浄土が開けているということです。そこに目を向けさせてくれるのが念仏です。

「唯称」 自分の力では救われない身であること知った親鸞聖人はいったんあきらめ、地獄へ堕ちることを覚悟しました。それで修行の場である比叡山を下りました。そして、世俗の世界である京都の町で出会ったのが法然上人の教えでした。その教えは、罪深い私たちが自分の力で救われていくことは無理なので、仏さんの力にすがって救っていただくより他に道は無い、というものでした。

仏さんの力にすがるというのは、仏さんがあらゆる功徳を込めてくれた念仏を唯称えるだけで救いにあづかれるという道でした。お葬式であげる「正信偈」というお経の中で親鸞聖人は「極重悪人唯称仏」と言い、自分のような煩悩の深い悪人は、唯念仏を称えるより他に救われる道は無い、と自分のことを深く反省しています。
 
念仏は「ナムアミダブツ」または「ナマンダブ」ですが、魔法の言葉でも呪文でもありません。自分自身を深く省(かえり)みる言葉です。自分を省みた時、その欲望の深さに気づき、今まで見ていたこの世の中さえも異なるものに見えてくる、ということではないでしょうか。あれが悪いこれが悪いと外の世界に問題を見ていたのが、自分自身の中に問題を見い出していく姿勢が言葉となって表れた時に、ナムアミダブツという声になるのではないでしょうか。
 
今、故人は仏さんとなって私たちに仏さんの道を教えてくれる立場になりました。故人の法名「大蔵院釋唯称居士」を目にした時、お経は無数に多いけれども、私たちが救われて行く道は念仏一つに集約されている、というようなことを仏さんは教えているのだと思い浮かべていただければ大変に有り難いことと存じます。
 
 
 












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「唯称念仏」

浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、数多くあるお経の中から「大無量寿経」というお経を一番大事なお経として選びました。このお経のことを親鸞聖人は「真実の教」と言っています。真実のことが書かれている仏さんの教えであるということです。「大無量寿経」は簡単に大経とも呼ばれています。

 大経では念仏を称えて救われていく道を教えている、と親鸞聖人は言います。念仏は南無阿弥陀仏です。ナマンダブでもよいです。救われるということは、願いが実現するということではありません。私たちの望みがかなえられるということではありません。お金持ちにしてくださいとお願いすると、お金持ちにしてもらえるというわけではありません。勝負に勝たせて下さいと言うと勝たせてもらえるということでもありません。病気を治してもらうことでもありません。

 なんだ、なんにも役に立たないということか、と思う方もだいぶおられることでしょう。たしかに私たちの欲望を満足させてもらえることはありません。私たちみんなの欲望を満足させるとどうなるでしょうか。それはとても考えられないことです。みんなが勝負に勝つなんてことがあるでしょうか。みんなが金持ちになってみんなが働かなくてすむような世の中を作ることができるのでしょうか。とてもできないことでしょう。

  仏さんが救うというのは、生きていることに苦しんでいる私たちに安らかな心を与えてくれるということです。お金が無くても、勝負に負けても、病気になっても、そのような状況を受け入れて生きていく力を与えてくれることです。人間生きている限り苦労は無くなりません。苦労が無くなるのはこの世を去る時です。苦労があっても心に安らぎを与えてくれるのが仏さんです。

 仏さんは、念仏を称えると心に安らぎが出てくると教えています。念仏はただ口で南無阿弥陀仏と声に出すだけです。ただそれだけです。このように私が言うと、「嘘くさい、いかさまだ、ごまかしだ、子供だましだ、そんなことあるわげね、」と非難されそうですが、ほんとうのことです。
 日本古来の武道である柔道は、初心者にはまず柔道の基本の型を教えます。初心者は基本の型の意味も重要さもわかりませんが、先輩に教えられるとおりに基本の型をまねしてやってみます。基本の型を実際に身体を使ってやっているうちに、その型の意味や重要さがわかってきます。そして実際に相手を投げ倒すことができるようになります。

初心者が基本の型を信じていようがいまいがどうでもよいことです。ただ実践しているうちに信心が湧いてくるのです。基本の型の中にすでに信心が入っているとも言えるでしょう。それは基本の型を作った人の信心ですが、その信心が初心者の心の中にしみこんで、初心者の信心となるのではないでしょうか。

 念仏も同じことでしょう。親鸞聖人も「唯称念仏」という言葉を使って、ただ念仏を称えることをすすめています。浄土真宗の宗教学者である金子大榮師が言っています。

    「 手を合わせるかたちが おがむ心を生みだした 」
「体」を参照
影現(ようげん)。浄土和讃に「安養界に影現する」等とあり、仏がこの世に姿形を現すこと。  
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 「来」は、仏や菩薩が、命終わらんとする行者の前に来現して、浄土に迎えるという意味です。私たちの宗教である浄土真宗(一向宗)は、浄土三部経といわれる三つのお経を大切なお経としていますが、この三部経のどのお経にも「来迎」の語が出ています。

 今は春のお彼岸の真っ最中です。彼岸の浄土が、此岸のこの世に一年で一番近くなる、と考えられている時期です。まるで故人を浄土の仏たちが迎えているかのようです。

 しかしながら親鸞聖人は、念仏を称える行者は、念仏を称えた時すぐさま往生し仏になり、それから娑婆の苦しんでいる人間たちを救うためこの世にすぐ戻ってくるといいます。この仏の心をもって生きているのが私たちの姿であり、こうありたいという姿です。だから命が終わった時、浄土真宗の私たちは間違いなく往生し仏になるのです。

「念仏成仏これ真宗」と言われるゆえんです。

 来 「来生」 

親鸞聖人は
 
   弥陀如来は 如より来生して 報応化種々の身を示現す
 
 と言っています。つまり、仏さんは如という真実の世界からこの世に来て、私たちのために本当の姿を見せたり、環境に応じて様々な人間の姿をしたり、時には人間以外のものの姿を借りて現れたりする、ということです。
 
桜の散るのを見て、私たちはこの世の無常を知ります。ようやく花が咲いたと思ったら、あっという間に散ってしまう桜の姿に、私たち人間のはかない人生を感じてしまいます。仏さんが桜の姿を借りて、私たちにこの世の無常を教えてくれているのかもしれません。

夏の暑い日に突然涼しい風が吹いてきて、しばし苦しい暑さを忘れてしまう瞬間があります。仏さんの慈悲の風かもしれません。
 
食べ物がおいしいと感ずるのはなぜでしょうか。つくづくと他人の親切が身にしみることもあります。道ばたの花が美しいと感ずることはしょっちゅうです。

子供がかわいいと感ずることがあります。なにか子供の喜ぶものをあげたいと思うことがあります。一緒に遊んであげて楽しませたいと思うこともあります。普段は欲望が渦巻いている私たちの心の中に、その時仏さんが入って来たのかもしれません。
 
真実の世界から来た仏さんは、本当の喜びを私たちに与えてあげたいと思っているのかもしれません。偽(いつわ)りのない素直な心を開いていると、仏さんが喜びを運んできてくれるのかもしれません。私たちの心の中にだって入って来てくれているかもしれません。
 
他の人を騙して自分の利益になることだけに努力しようとしている心では、感ずることのできない喜びがあります。損か得かの世界ではありません。数字の世界でもありません。形の世界でもありません。真実の世界の喜びです。

「この世の中は、きれいごとだけでは生きていけない」と言う人がいます。そのとおりです。本当です。私たちは煩悩から逃れることはできないからです。死ぬまで欲望と道連れです。それでもいいんです。素直に欲望まみれの自分を認めることです。悪い心もある本当の自分を自覚することです。

仏さんの前に自分をさらけ出した時の言葉が「南無阿弥陀仏」であり「ナマンダブ」です。
念仏の心が仏さんになります。煩悩があろうが欲望があろうが仏さんの前ではすべてが功徳になると言います。功徳は良い結果を生む原因となります。

親鸞聖人は    「煩悩功徳の体となる」   と言っています。
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「利行」 太陽の光があるので、植物は生長し、動物は凍(こご)えることなく生活をし、食べ物にも困ることがありません。地球上のあらゆる生物が太陽から利益を受けています。利益を受けているのに、太陽に向かってありがとうと言う人はあまりいないようです。私たちが立っているこの大地も、私たちの生活を支えてくれています。まさに生活の基盤です。目には見えませんが、空気だって絶対に必要な物です。空だって、風だって、夜も月も星も無くてはならないものです。
 
私たちがお願いもしないのに、私たちの利益になるようにと自然は働いています。私たちはこの利益を当然のこと、自然のこととして受け取っています。ありがたいことだとか、感謝しなければ、などとは思いもよらないかもしれません。
 
あらゆる生物を生かしてくれている大自然は、それだからといって私たちに恩を着せることはありません。生かしてあげているんだとか、恵みを与えてやっているんだから感謝しろ、などとは決して言いません。ただ黙々と、自然の法則にしたがって私たちを照らし続けていてくれるだけです。
 
自然の法則に心があるとすれば、それは慈悲心ではないでしょうか。もちろん自然には厳しく過酷なところもたくさんあります。あらゆる生物はこの世に誕生させてもらっても、生きている間に傷ついたり病気になったり、長生きしても弱っていきます。年老いていきます。そして必ずいつかは死ななければなしません。

私たちにとっては、とても受け入れたくないことだらけですが、大自然にとってはまったく自然のことなのかもしれません。自然で無理の無いことなのでしょう。私たちが死ぬことは、生きることと同じように大事なことで必要なことかもしれません。私たちは、自然におまかせするより他はありません。
 
仏さんは本来、姿や形をもっていませんが、私たちが見やすいように、理解しやすいように人間の姿をもってこの世に現れました。絵や彫刻にその姿が表されています。この世に現れて、苦しんでいる私たちをなんとかしてあげたいと働いています。この仏さんの行為を「利行」と言います。利他の行とも言います。

自分の利益になることは後まわしにして、他の人の利益になることを一所懸命行う行為のことです。仏さんは極楽浄土の住人ですので、極楽にいれば難儀をしなくても安楽に暮らせるのに、わざわざこの世に来て、私たちのために苦労されているということです。

「利他」   仏さんの力は、やさしい心の力です。慈悲の心です。苦しみを取り除いて楽にしてあげたいという心です。温かい穏やかな心です。この世において慈悲心など役にも立たないし金にもならないから価値も力も何も無い、と思われているとすれば大きな間違いです。

やさしさや温かさの無い世界は地獄です。欲望に満ち満ちて汚れきっている私たちの心の中にも、仏心が心の隅に与えられているから私たちは救われるのでしょう。仏心は慈悲心です。力です。

仏教の言葉に自利利他という言葉があります。私たちの家庭においては、子供が幸福な状態であれば親も満足であるし幸福な状態であると思われます。もちろん親の幸福と子供の幸福を混同していることもあるようですが、普通は子供の幸福は親の幸福でしょう。

また、親の幸福は子供の幸福でもあるはずです。このような意味において、自分の本当の利益になることは他人の利益になることであるはずですし、他人に本当に利益になることは自分の利益にもなるはずです。

人間関係が家庭内の理想的な親子関係のようであればということになるのかもしれませんが、大事なことです。仏さんはこのことを自利利他と言います。自利はそのまま利他であるし、利他は自利であると言います。

本当に自分のためになることをしようと思うなら、他人のためになることをしましょうということです。このような行為は菩薩行とも呼ばれています。

親鸞聖人の著書「教行信證」に「利他教化」という言葉が出てきます。これは純粋な利他の行為のことです。まもなく仏さんになろうという菩薩は、私たち衆生を教え導くことによって救済しようとしています。

このはたらきは仏さんの慈悲心のはたらきでもあります。仏さんのはたらきが「利他教化」のはたらきです。
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「龍眼」  インドには多くの民族がおりますが、その中に釈迦族という民族がおります。お釈迦様は釈迦族の王様の子として誕生しました。お釈迦様が誕生した時、龍族という民族の二大竜王である難陀と跋難陀という王様が現れ、お釈迦様の産湯を使ったと言われております。龍族は古来仏教徒の民族であり、王の難陀と跋難陀の名前はお経の中によく出てきます。
 
神話的な話ですが、龍宮は龍族の王の居住する宮殿と言われています。この世が乱れた末法の時代になると、仏教は龍宮に移るということが経典に書かれているそうです。

 本明寺の宗派は浄土真宗(一向宗)ですが、大乗教でもあります。宗祖である親鸞上人は、大乗教を伝えてくれた高僧として七人の高僧をあげて讃(たた)えています。最初の高僧がインドの国の龍樹という僧でした。同じくインドの天親、中国の曇鸞、道綽、善導、日本の源信、源空と続きます。浄土七高僧と呼ばれる方々です。
 
七高僧は、どんな人でも誰でも仏さんに救われていくんだという教えを伝えてくれました。念仏を称えると救われるという簡単な教えです。それでこの教えは大きな乗り物にたとえられて、大乗教と呼ばれております。大乗仏教とも呼ばれます。
 
極楽浄土へと連れて行ってくれる大きな乗り物に乗るとどうなるのかということですが、私たちがこの世の中を見る眼が変わるということです。煩悩という色メガネでこの世を見ている私たちには、物を見る時、食べられる物か食べられない物か、おいしい物かおいしくない物か、お金にすると何円か、いい男かいい女か、偉い人か偉くない人か、捨ててもいい物か捨てられない物か、私にとって価値があるのか価値がないのか、などという目でこの世を見ているようです。
 
仏さんにとっては、この世で不要な物、価値のない物、捨ててもいい物などありません。自然の世界に自然に存在しているものはそのままで存在価値があるのです。煩悩や欲望だってこの世に存在している限りはそれなりの存在価値があると言います。溺(おぼ)れることがいけないのです。煩悩や欲望に溺れないように、色メガネをはずしてこの世を見てみる眼が必要なのです。この眼を仏さんの眼つまり仏眼と言います。また仏さんの教えるこの世の法則を見る眼という意味で法眼とも言います。この世の法則とは真理のことです。だから真理を観る眼でもあります。
 
仏眼や法眼をもってこの世を観るとどのような世界が見えてくるのか、ということを教えるのが仏教です。念仏を称えた時に、仏さんの教える世界が心の中に広がってくるようであれば、極楽浄土行きの大きな乗り物に乗っていることを感ずることができる、と言えるのではないでしょうか。
 
故人の法名「釋龍眼」が、私たちにこの世の真理を見つめる眼を持たせてくれるきっかけとなることであれば、大変有り難いことと存じます。
「立行」 「起」を参照
 「瑠璃」は、紫色を帯びた濃い青色の宝石で、極楽浄土を飾っている七種類の宝石の中の一つです。浄土は、金色、銀色、青色、黄色、赤色、白色など多種多様な色で飾り立てられ、どの色もどの色もそれぞれの美しさをもって輝いています。金色は金色なりに、青色は青色なりに、赤色は赤色なりに、他とは比較できない美しさを持って光っています。
 
仏の慈悲の光は、私たちを差別することなく平等に照らしてくれています。寿命が長ければ長いなりに、短ければ短いなりに恵みの光を照らしてくれているはずです。お金のある人にはある人なりに、お金のない人にはない人なりに、そのような立場でなければ味わえない幸せをプレゼントしてくれているはずです。親鸞聖人が選ばれた大切な三つのお経の中の一つである阿弥陀経に、このことが書かれています。
「淨」を参照

故人は正直な方で嘘偽りのない方でした。純粋な心で生活をしておられました。毎月のお経の日には、仏教の話に真剣に耳を傾けてくださいました。仏壇に向かっては手を合わせ、一心に念仏を称えておられました。このような方こそ仏の手にすくい取られ、浄土では最高の生まれ方と言われる蓮華化生(レンゲケショウ)するに違いありません。

「蓮華化生1」 は蓮華の花の上に生まれることです。自分の力ではなく仏の力による誕生なので最高の生まれ方をするのです。浄土に生まれたからには必ず仏になりしあわせになります。そして、この世に還って仏の仕事をします。

浄土真宗が真実の経と言い大切にしている「大無量寿経」と言うお経があります。この中で、極楽浄土の蓮華の花は光り輝いており、その光明からは無数の仏さん達が放たれて、広く世界に飛び回りこの世の苦しみ悩んでいる人々を救おうとしている、と説かれています。

開祖親鸞聖人は、「一々のはなのなかよりは、三十六百千億の、光明てらしてほがらかに、いたらぬところはさらになし」と浄土和讃で謳っております。

「蓮華」  「大無量寿経」の中に「華光出仏」という言葉が出てきます。私たちがこの世での生を終えてから行くところである極楽浄土には、無数の蓮華が咲いているそうです。その蓮華のひとつひとつの華からは三十六百千億の光が出ています。

さらにそのひとつひとつの光の中から三十六百千億の仏さんが出ています。これらの仏さんの身体の色は紫金で、すばらしく美しい色だそうです。一人一人の仏さんがまた百千の光明を放って私たちを照らしているそうです。
     
 無数の仏さん達は、私たち衆生を照らし出して何をするのかというと、もちろん仏さんの仕事である衆生救済です。欲望の沼に沈み、足を取られ、身動きできないでいる私たち凡人に、私たちの本当の姿を見せてあげようと光で照らし出してくれています。
 私たち人間は毎日悩んで苦しんで生きています。他の人からはそのように見えなくても、誰でも苦しみながら生きているはずです。生きるということはそれだけで大変なことだからです。

生きている限りはどうしても切り離すことのできない欲望が身体にまとわりついているからです。欲望の与えてくれるエネルギーのおかげで生き生きと生かさせていただいているという面もあるのですが、同時に、欲望がなければどんなに楽だろうと思うことも無数にあります。
 病気になって食欲が無くなれば衰弱してしまいます。食欲は生きていく上で大切な欲望です。そうなのですが、あれも食いたいこれも食いたい、もっと食いたいと食い続けるとメタボになります。病気になってしまいます。また、お金が無くて食えなければ不満になります。この世を恨みさえします。
 空腹が満たされた時点で満足し感謝できればよいのですが、欲望は果てしがありません。そのような自分の本当の姿を見て反省し続けなければ歩いていく道を踏み外すことになってしまいます。欲望は生きている限り無くならないので、反省というブレーキがなければ道に迷ってしまいます。
 蓮華の光の中から出てきた仏さん達は、仏さん自身の光明で私たちを照らして私たちの本当の姿に気付かせて、反省をしながら、また感謝をしながら生きていく道を示し教えてくれています。
 
「蓮華化生2」   浄土真宗の教えでは、この世を去ってあの世に生まれる時、自分の力でどうこうするのではなく、仏さんに導かれて、仏さんの力であの世に生まれるのですから、あの世は極楽に違いありません。

極楽に生まれるのにもいろんな種類の生まれ方があるそうです。自分の力で極楽に行った人は、最高の生まれ方をすることはできません。仏さんにおまかせできない人は、極楽に生まれたとしても、極楽の片隅に生まれたりするそうです。また、自分が極楽に生まれたことに何百年もの間気が付かないでいたりするそうです。

 仏さんのすすめる念仏を称えて救われて行く人達は、仏さんの力で救われるのですから、仏さんと同じ生まれ方をするそうです。親鸞聖人は「如来淨華の聖衆は 正覚のはなより化生して」と言っています。仏さんの教えに従って往生する人は、正しい覚りの華である蓮華の上に生まれると教えています。正覚は仏さんの覚りです。

皆さんのお家の仏壇の仏さんは蓮華の花の上に立っているはずです。仏さんは蓮華の花から極楽浄土に生まれ出たことを表しています。蓮華はどこから出てきて咲いているでしょうか。美しいきれいな雲の上に咲いているのではありません。

泥の中に根を張って、泥の中から咲き出しているでしょう。美しい覚りの華は、苦労や悩みやドロドロした欲望の満ちたこの世に根っこを張って、この世を土台としてあの世に咲き出ています。

この世の苦が多ければ多いほど、仏さんは大きい美しい蓮華を準備してくれます。苦を転じて蓮華を育てる養分にしてくれます。苦が多い人、弱い人をこそ仏さんは正しく観察をしていてくれます。見逃すことなく必ずすくい取ってくれます。

泥が深ければ深いほど、その中に立派に大きく育つ蓮華の種が育まれているはずです。その種を大事に守り育てていくことが、仏さんのすすめる念仏の道ではないでしょうか。
私たちの欲望は悪いだけではありません。覚りの元ともなっています。親鸞は「煩悩即菩提」と言っています。欲望も反省して見つめていけば覚りともなると言っています。
「六道輪廻1」 人間の住む世界は、下から順番に地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天と高くなっていますが、どうあがいてもしょせんこの六つの道である六道を輪廻しているのが人間の姿である、という考えが仏教です。

天といえども苦しみの世界です。満たされた欲望が、次に何が欲しいのかわからずに苦しむ世界です。また、必ず出なければならない無常の世界でもあるので、大きな楽をした後に直面する大きな苦に大いに苦しむことになります。

この六道を脱出するためには、人間の力では無理なようです。他力に頼らなければなりません。親鸞聖人は「念仏成仏これ真宗」と言っています。仏にすがり、念仏を称えなさい、と言っています。

「六道輪廻2」 仏教には六道輪廻という言葉があります。私たち人間は死んで生まれ変わるたびに、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、の六つの人生を迷い続ける、という考え方です。救われない限り迷い続けると考えられてきました。

最近では、私たちが生きているこの世に六道があると考えるようになってきました。天国も地獄もこの世にあるというのです。たしかに天国のような生活をしている人もいるし、地獄のような生活をしている人も見受けられるようです。

人生において一時は天国のようなすばらしい生活をした人でも、地獄のような生活をしなければならなくなったり、逆にどん底からはい上がって来て天国のような生活をしている人もいるようです。
 
天国も無常のこの世のものである限り迷いの世界の一つです。必ず終わりが来る世界です。天国を去らなければならなくなった時の苦しみは死の苦しみをも超えると言われています。

地獄も無常のこの世のものであるとすると、必ず終わりがあります。地獄の終わりは希望にもなります。天国も地獄も良いような悪いような世界であり、繰り返し繰り返しやってくる迷いの世界です。
 「和」  救われるということは、この世の苦しみが「和(やわ)」らぎ、苦が苦でなくなることです。

「和顔愛語」  「大無量壽経」というお経の中に、「和顔愛語(わげんあいご)」という言葉があります。仏の心を持った者は、和やかな顔つきになり言葉づかいがやさしくなるという意味です。

「和光同塵」  本願寺の第八世門主である蓮如聖人が書かれた御文(おふみ)に「和光同塵は結縁の始」とあります。この意味は、仏さんが私たちを救うために、本来の光、すなわち姿をかくして、塵のような存在である私たち衆生と同じ位置まで降りてきて、いささかの縁を結んで、ついには本来の使命を果たすという意味です。
 
仏さんが私たちと同じ位置まで降りて来てくれたということは、私たちの心の中に仏心として入って来てくれたということではないでしょうか。仏さんは純粋な汚れのない姿でありながら、煩悩に汚れたゴミのような私達の心の中に同一のものとして入り込み、和合してくださったということでしょう。

私達の仏心が、仏の心、つまり慈悲心として表面に現れ行動に現れる時、私達は和やかな気持ちになり、周囲の人々をも和やかにするのでしょう。心が和やかになり安らかになる時、なぜか救われたような気持ちになります。
 
私達が非常に困っている時、誰かに大変に世話になったり、親切にしてもらったりした時、「あの人の顔が仏さんに見えた」というようなことがあります。そのような時は、仏さんに見えたのではなく、仏さんが親切な行いをした人を通して出現したということではないでしょうか。この仏さんのことを化身とか化仏と言います。
 
私達のような煩悩深き人間でも、短時間であれば化身になることがあるかもしれません。もしかしたら、家族が仏さんの顔に見えることもあるかもしれません。また、隣に座っている人がそうなるかもしれません。どんな人でも仏心を持っているはずです。深い煩悩に隠されて外に出にくいということはあるでしょうが、可能性が無いということはありません。
 
身近な人が化身になることを期待するのではなく、私達自身が自分の仏心を大切にし外に出すようにしなければなりません。それは他人のためではなく、自分自身のためにです。私が仏心を持つということは、私が仏に成ることです。古来人間は、仏に成ることが救われることであり、幸福なことと考えていました。
「脇士」  お釈迦様の絵像や彫像を見ると、両脇にはたいてい家来か弟子のような方々が控えています。この方々を脇士(わきじ)と言い、これから仏さんになろうという菩薩です。菩薩は仏さんになる一歩手前の方々です。

お釈迦様の脇士は、普賢という名前の菩薩と文殊という名前の菩薩です。文殊という名は皆様もどこかで聞いたことのある名前ではないでしょうか。よく文殊の智慧などと言われます。文殊菩薩は仏さんの智慧の部門の担当者です。智慧は、私たち凡夫がこのつらく苦しみの多い世の中を生き抜くための智慧です。普賢菩薩は仏さんの慈悲の部門の担当者です。慈悲は優しい心です。この世の中のすみずみまで普(あまね)く優しい心を届けてくださいます。

阿弥陀仏の脇士は、観音菩薩と勢至菩薩です。観音菩薩の名前はよく耳にする名前ではないでしょうか。観音菩薩は普賢菩薩と同じく慈悲の担当です。この世の色々な姿に身を変えて私たちを救ってくれます。「あの人は観音様のようにやさしい人だ」「観音様の化身のようだ」などと言ったりします。
H22

   私たち人間は、煩悩の闇に苦しめられ迷いの世界をさまよっています。しかし念仏「南無阿弥陀仏」を称えることにより救われます。救われるということは、仏と同じ心を持つということです。人間であるかぎり煩悩からのがれることはできませんが、仏の心を持つことにより、安養浄土へと確実に続く道を歩んで行くことができるのです。煩悩を背負ったままですが、安心して生きていくことができるのです。この世の縁が尽きた時、煩悩の重荷を解き放たれて仏の境地に入って行き、浄土に往生します。往生して仏になった人は、もはや煩悩に汚れた人間ではなく、純粋の仏になります。仏は自分だけ浄土での理想の生活を楽しむということはありません。必ずこの世に還ってきて、仏様として自由に衆生を救うはたらきをします。

仏の心は「慈悲心」です。優しい心です。私たちがこの仏心を持つことを仏は願っています。念仏にこの心が込められています。

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