第七回 ピットイン

車 「早く起きろよ、遅刻するぞ」
「うん、でも、体が重いのよ」

「何だよ、昨日の晩、明日は絶対行くんだって言っていたぞ」
「そうなのよ、でも起きる気がしない」
「休むのか?」
「ううーん、休めない」
「じゃ、ひと思いに起きろよ、そうすれば体は動くさ」
 でも・・・・
と真紀は歯切れが悪かった。このところ、だるい日が続くのだ。

 家事と仕事で疲れていることは確かだった。和也は家事ができないといっても責めない。少々汚くても死にやしないというのが和也の常套句だった。その通りなのだが、真紀はわりきれなかった。自分でも疲れているとは思う。でもこの気だるさとやる気のなさは何が原因かわからないからだ。

 いつもなら一緒に出勤するのに、その日は和也が先に家を出た。少し遅れていくわ、そう決めると、気が楽になるからと真紀は和也に告げた。
 オフィスに遅れて入ると先輩の植村が待っていた。
「ねぇ、顔色悪いわよ、体調悪いの」
と心配気にきいてきた。
「すみません、別にどことわからないのですが・・」
「あんまり無理しないでね。仕事の手をぬきなさいとはいえないけれど、お互いに長距離走っているんだから、気をつけてよね、頼りにしているんだし」
と額にシワをよせて言った。近くを通りかかった島田が
「シワ寄せると3歳は一気に年とるんですよ」
と言いながら通りすぎ、植村ににらまれた.「すみません」と島田の分まで真紀は謝りながら席についた。

「三浦君、ちょっと」とチーフによばれて、立ち上がった時、たちくらみがした。おかしいと思いながら、それでも自分を激励してチーフの席までいった。「会議室まできてくれないか」とチーフは小さい声でいう。

会議室にいくと
「三浦君、出張して貰いたい。君に家庭があることはよく分かっている。植村君は今、二つほどはずれることはできない担当がある。島田君では荷が重すぎる仕事だ。実はバンコックまで行ってほしいんだ」
「えっ、私が,ですか」
「そうだ、来春の企画で、アジアの女性達ってやつやるんだ。アジアで活躍している女性が今まで無理といわれていた仕事を逞しくやっている現場を取材してまとめあげていくんだ、これからアジアは今までとは違うブームだから」
「はい」
「どうかね、S社は署名入りの記事とイラストと写真っていってる。記事の骨子を書けば僕も植村君もみていいものにして君のデビューにしていこうと昨夜盛り上がってねぇ、写真はご主人の会社の関連の男がくるさ」

「記事も書かせて頂けるのですか・・・」
嬉しい気持ちと一緒に不安がよぎっていく。チャンスだと思いながら、このチャンスを活かそうという意欲が出てこない。自分はどうしたのだろう?と自分にといかける。
「余り嬉しそうじゃないね、何か不都合でもある?」
「いいえ、ありません.とにかく急なことで驚いています」
「準備のこともあるから、詳細は植村君とつめてくれ。時間のさしくりは十分にやるよ」
この日の午後は真紀の担当の記事が大幅変更になり、四苦八苦しながらまとめ、チーフを説得し、割り付けを変更して締め切り間際の時間に版下を作り、印刷所にかけこんだ.

 終わった時は夜の8時をまわっていた。気がついてみると昼の食事もパスしたままだと気がついた。あわてて和也に電話する。
「朝、具合悪そうだったけれど、大丈夫か」
「ええ,忙しくて、わすれちゃった」
「そうか、それは良かったね、ところで用事は?」
「お夕飯まだ?、まだだったら、一緒にどうかって」
「ああ、それはいい、そっちにいこうか」
「いいえ、出先なのよ、たまにはホテルのレストランで、はりこまない?」
「いいねぇ、君のチーフから電話があったよ、チャンスだね、おめでとう」
「ありがとう、これから30分くらいでホテルDまで行けるわ、あなたは?」
「いいよ、僕は15分で着く」
 和也はすぐにオフィスを出て約束のレストランで真紀を待ったが真紀は1時間たっても現れなかった。携帯電話をいれても通じない。和也の心配は大きく膨らんだ。

 真紀は駅のベンチに座ったきり、動けなかった。激しい嘔吐とめまいが襲っていた。駅の職員が真紀の変調に気づき声をかけてくれた時、青白い顔で衰弱していた。駅の医務室に寝かされ、和也のいるレストランに連絡が入ったのは和也が到着した時間から2時間以上も経過していた。

 和也がタクシーを拾い、真紀の倒れた駅についた時は、血の気を失い横たわっていた。とにかく病院へと無我夢中でつれていき検査をうけた.最近、具合が悪そうだった、もっと早くに気がついて診察をうけるように言えばよかったと後悔ばかり和也はしていた。
 医者によばれて診察室に入るとほほに赤みがもどっている真紀がいた。
「ご主人ですか、おめでとうございます、ご懐妊です」

   1週間オフィスには妊娠したとはいわず休暇をとった。和也には自分から言うから黙っていてと釘をさした。真紀の頭の中は仕事のことでいっぱいだった(安定期に入ったら動けるようになるかもしれない)(この気持ちの悪さも消えていくかもしれない)(せっかくのチャンス、仕事しない手はない)

 焦れば焦るほど食べるものが喉を通らず、立ちくらみはひどくなった。和也は真紀の母親に電話した。母親はとんできた。
「ごめんなさい、来てもらって」
「よかったね、お父さんと喜んだよ。お父さんは男の子がいいって」
「私は女の子がいいな」
「お母さんは真紀と赤ちゃんが元気ならどっちでもいい」
そういいながら、部屋を片付けもってきた果物をむいてくれた。

 1週間の休みを終えて会社にいった。植村にうちあけた。
「おめでとう、赤ちゃんかなって思っていたのよ」と植村はいった.そして
「バンコック出張、とりやめにします」と言った。
「待って下さい。すぐ安定期に入ります.いかせて下さい」
「とんでもない、何かあったらどうするの、ダメです。代わりをたてます」
「だってチーフは植村さんは担当が他にあるって」
「ええ、その通りよ」
「・・・・はずされるんですか、妊娠したら」
「そうです」
「どうして?どうしてですか」
「差別だとか言いたいの!」
「・・・・」

「真紀さん いい意味の差別です」「いい意味の?」「ええ」

「女が働き続ける時、大きいハードルがあるわ、一つは結婚、勤務地の問題があったり相手が働くことを理解しない場合。次が一人目の子の妊娠、初めての経験でどうなるか予想がつかないのよ。その次がその子が小学校に入る時。子供は0歳児で預かってくれる保育所もあるし、自分のお母さんに頼むこともできるわ、でも小学校に入った時は帰宅時間も早く目が離せない半年くらいがどうしてもあるの、学童保育もあるけれど、保育園のようではないわ。
 小さいハードルは毎日ね、熱だした、怪我したってね.保育園にいれてもいくのがイヤだと言われ、やむなく会社を休むこともでるわ。
 そんな時、どうしてこうなの!女ばかり困るだけなの!と嘆くのよ。でもね私は女の人生はサーキットレースだと思っているの」

車

「サーキットってあのカーレース?」

「そうよ。カーレースってよくできているじゃない。必ずピットインしないといけないのね、そしてマシンの調整をするわけよ。サーキットで最高の走りをしていないとピットインした時スタッフは全力あげて調整や修理はしてくれないわ。レーサーはネジ一本しめられないでしょ。みんなお任せで。真紀はレーサーよ。そして今が真紀のピットインのタイミング」

「・・・・」

「私達がスタッフよ。真紀マシンがまたレースに復帰できるように、頑張っておくわ。真紀は周囲の人が皆、言っているわ、今日までよく仕事してきたと。弱音は決してはかず、ひたむきにやってきたこと、皆が知っているわ。おめでとう真紀、また、働ける時がくるから、その時まで、元気な赤ちゃん産んで育てなさいよ、
 また走りはじめたら今度はゴールでチェッカーフラッグふって貰えるわ、その時、私、約束するわよ、和也さんが好きな“にしき郷”たくさん用意してかけてあげる」
 真紀の目は涙で一杯だった。

       【ようこそ 我が家へ】

  小さいこぶしを握って眠っているあなたは
  いったいどこからやってきたの?
  言葉はわからないはずなのに
  にっこり笑うのはなぜ?
   ようこそ 我が家へ
   あなたが大きくなるとき
   あなたのパパはナイスミドル
   あなたのママは・・・

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