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民舞・ホット情報

舞踊家ミッシェル誕生物語

その8 研修終了発表会

2002年3月25日、一年間の総まとめとしての発表会がわらび座第4稽古場でやられました。
この日にむけてアメリカからはご両親が、東京からはミッシェルのお友達がわざわざ来てくださいました。
今回の物語はその発表会のプログラムと、その発表会でミッシェルが語ってくれたスピーチのみで構成したいと思います。
この発表会にむけては 1、プログラム構成は自分で全てを構成すること 2、民舞は一年間で習った曲目は全曲発表すること としました。
司会は全部以下の通り日本語で語ってくれました。その翻訳をしてくれたのは当日参加のお友達オン・アンサンブルのクリスです。
それではまず発表会の導入の司会から・・・。

(イントロダクション)
昔々のお話です。ある時アメリカで一つの出会いがありました。
一人は熊本から、そしてもう一人は広島から来た人たちです。
彼らはその新しい土地で家族を作り、75年もの年月を過ごして来ました。
一般的に彼らのように日本からアメリカに渡ってきた人々のことを日系アメリカ人と呼びます。
1974年、一人の女の子が産まれました。
その子は4世に当ります。
実は私、ミッシェルです。

今日皆さまにお伝えしたいのは、私のストーリー(物語)です。
アメリカでの経験や日本での大冒険、そしてこれからの私の夢について聞いていただきたいと思います。

私は「日本料理が好きですか?」と良く聞かれます。
「エエもちろん」
だってサンノゼでは私は日本料理を食べて大きくなりました。毎晩ご飯を食べていました。私のお気に入りご飯はトロロと玄米ですよ。
凄い大好き!でも一番はやっぱり林檎入りヨーグルトです。
去年の十二月から食堂で林檎を五箱も買ってきました。それも一杯蜜の入ったやつ。
本当に美味しいですよ。
ズン(ミッシェルの琴の先生)が私にこの絶妙なコンビネーションを教えてくれました。
私は良く彼女の家に行って、一緒にご飯を食べたり話したりしました。
私の日本語での会話は大変ですが、お互いに頑張って話しました。
彼女は何時も私のことを心配してくれ、気遣ってくれました。
彼女は私のお琴の先生であるというだけで無く、とても大切な友達です。彼女は今日ここには来ていません。彼女が赤ちゃんをつれて戻ってくる日をとても楽しみにしています。
彼女が居なくなる前に彼女の琴の先生である黒澤先生を紹介してくれました。
2月から私は盛岡でレッスンを受けています。
今日は2曲お届けします。
まず最初は六段です。
次は三つのパートからなる曲です。
どうぞお楽しみください。

(琴演奏)
1、六段
2の1、 キツツキ
2の2、 流れ
2の3、 鍛冶屋
(民舞)
3、津軽じょんから節

(司会)
ハイ!では次に踊りをお届けいたします。今日は七つの踊りを踊ります。
じょんからに続きまして次は越中おわら節、西馬音内盆踊り、そしてじゃんがらです。

(民舞)
4、越中おわら節
5、西馬音内盆踊り
6、じゃんがら

(司会)
次は民謡です。愛子さんは私の先生です。研究生に教えていてとても忙しかったのに、一週間に二度も私の為に個人レッスンをしてくれました。
私はそのレッスンを受けることの他に何時も楽しみにしていたことがあって、それは彼女が作ってくれる生姜と黒砂糖だけが入った温かい飲み物でした。
本当、美味しいよ。
これを定期的に飲み始めてからというもの、全然風邪をひいていません。

十二月に浅野先生に紹介されました。
私は研究生と一緒に民謡のレッスンを受けることが出きるようになりました。
今月から秋田で彼女のレッスンを受け始めました。
まず最初は秋田おばこです。

(民謡)
7、秋田おばこ
8、秋田大黒舞

(ビデオでのスピーチ)
皆さん今晩は。ここでちょっと一休みして、少し話をしようと思います。それは私の曾おばあちゃんの話です。
実際には私はあったことはないんですが、今当時のいろいろな話を聞いて、彼女の強さにとても心を打たれ、尊敬しています。
今から百年前、彼らは貧しかったので家族のためにもお金持ちになりたいという希望をもってアメリカに行きました。
でもやはりアメリカでも貧しさは変らず大変な時代をすごしました。
彼らは農業を営みながらアメリカでの生活を築いていきました。
1945年第二次世界大戦「パールハーバー襲撃後」アメリカ政府は狂っていきました。
アメリカに住んでいた日系アメリカ人全てをキャンプに入れることにしました。
約十二万人の日系アメリカ人が全部で十一箇所あるキャンプへ送られました。

(ここから大戦当時のニュースビデオがはじまります)
1)私の家族は住むところも家も身の回りのもの全てを失いました。皆がそれぞれの人生をたった一つの箱に詰め知らない土地へ移っていかなければなりませんでした。
2)そのキャンプ生活は大変なもので彼らは気候も環境もひどく悪い土地での生活を余儀なくされました。
2世にとっては、私の祖父の世代にですがそれから先の長い生活を考えていかなければならなかったのです。
しかし一世にとっては今まで頑張って作り上げてきたものを全部なくして、つらい思いを持ちながら生きてゆくことはとても悲しいことで打ちのめされたような気持ちでした。
3)でもその新しい生活の中に幸せを見いだそうと頑張りました。

私の曾おばあちゃんが三味線をひき始めたのはそのキャンプに行った時でした。音楽が彼女の生活に小さな喜びをもたらし、また彼女の心の支えになったと思います。
私は演奏する時や踊るとき特に三味線をひく時その強く生きた曾おばあちゃんの素晴らしさをとても感じます。
だからこそ私がパフォーマーになるという夢を決してあきらめたくないのです。
正直言って三味線は最初はすごく難しくていらいらしました。
三本の弦をいっぺんに弾いてしまったり、ひどい音色だったり、左手もうまく動かせませんでした。
もう今では思い出したくも無いけれど三味線はもう本当に大変で、何度もやめてしまいたいと思ったけれど、その曾おばあちゃんのことを自分に言い聞かせました。

こんちゃん(三味線の先生)はとても親切で我慢強い人です。長いこと私のひどい音に付き合って、一緒に弾いてくれました。
それがどんなにひどかったとしても、彼は何時も笑顔で私を励まし続けてくれました。
十二月に二時間半の長いドライブにもかかわらずこんちゃんは彼の先生の所に私を連れて行ってくれました。
私はその間ずっと寝ていました。
お出かけする時寝ちゃうのよ。
こんちゃんごめんね。
でもこんちゃんには本当に三味線のことをいろいろ教えてもらってすごく感謝しています。

(津軽三味線)
9、りんご節
10、津軽甚句
11、アドハダリ

(お客さん紹介・菊池 ミッシェルの着替えの時間を保証するために私がご両親、クリスやショージ、エミを紹介させていただきました)

(民舞)
12、さんさ踊り

(ビデオでのスピーチ)
私がわらび座に来たのは正平がいたからです。
彼は私を日本に呼んでここでの勉強を計画してくれた人です。
四年前の秋にあった、サンノゼ太鼓の25周年のコンサートで正平と出会いました。
私はちょうど大学を出たばかりでサンノゼ太鼓新メンバーでした。
彼はサンノゼ太鼓のために先ほど話した第二次世界大戦後の生活を表した踊りの振り付けをしてくれました。
その踊りは素晴らしかったけれど私はへたでした。
体中緊張して上手く動けなかったので私は踊りには向いていないと思いました。
でも正平と一緒に仕事をすることができて、本当に良かったです。
彼は私にとってあこがれのアーティストです。
ですから1999年の夏、私が始めて日本に来た時わらび座を訪ねてみようと思いました。
最初は日本に対してそれほどの思い入れは無かったのですがわらび座を訪ねたことによって私の人生ががらりと変りました。
わらび座は素晴らしく、美しく、みんなは親切でとても温かい雰囲気を感じました。
正平にいろいろとわらび座での生活や練習計画について聞いていったとき、突然私は此処に来てもいいですか?と聞いたら、正平はもし勉強したかったらいいですよ、と言ってくれました。
私がアメリカへ帰る前に東京にいる間、正平と話したことを考えて、これはすごいチャンスだと思い、わらび座に来ようと思いました。
日本に来る前の六ヶ月、四つの仕事をして出きるだけお金を貯めました。
私は一大決心をして将来のことがわからないままに、これが私の負うべき夢だと信じました。
正平について習うのは思った以上に素晴らしかったです。
彼は踊りだけじゃなくて、人生についてやパフォーマーとしての自覚なども教えてくれました。
私はほとんど毎日お稽古しました。
彼はずっと私が体が痛いとき、疲れたとき、自信をなくしたときも応援しつづけてくれました。
彼が私に教えてくれた沢山のことに対しての感謝の気持ちはとても言葉では言い尽くせません。
本当にありがとうございました。
正平は私の人生の先生です。

(民舞)
13、花田植え
14、そーらん節

(最後のスピーチ)
今日は来てくれて本当にありがとうございました。
このコンサートは私がここで一年間勉強したことの全てです。
日常生活をおくるなかですごく大変だと感じたことも多々ありました。
私の外見は他の人と同じですけれど、皆にとって普通のことや簡単なこと、例えば看板を読んだり電話で話したりテレビを見たり、といったことが私にとっては非常に難しく疲れることでした。
もっと人といろいろ話せたらな、と良く思っていました。
だからこそ私は音楽や踊りで自分を表現するようになりました。
それは私の言葉となり、毎日の元気の元になりました。
そして今私はわらび座での一年間の勉強を終えようとしていますが、私はここで勉強したことをこれからもストップしません。
なぜなら私が勉強した全てを高いレベルにすると決めたからです。
また私のわらび座での経験は誰でもできるわけではありません。
ですから私が学んできたことをアメリカで多くの人に伝えていくことが私の責任だと思っています。
今から実際にパフォーマーになるという私の夢をスタートさせるのです。

いろいろな人に感謝いたします。
1)まずこれを翻訳してくれたクリスへ、ありがとう。ショージ・エミ東京から来てくれてありがとう。
2)そして両親に、いつもありがとう感謝しています、全てのコンサートを見に来てくれていて。今回もアメリカから来てくれています。
3)タスキを作ってくれた小沢さんありがとう。彼女は私のアメリカでのツアーのために格好いい衣装も作ってくれます。
4)私のコンサートの写真を取ってくれた成さん、ビデオを手伝ってくれた成さんとDAFのみんな、ありがとう。私はDAFでメールをチェックしていてその時みんなはいつも私に優しくしてくれます。
5)円ありがとう!沢山手伝ってくれました。いつも私の言おうとしていることを一生懸命理解しようとしてくれます。だからこそ彼と一緒に仕事をすることがとてもいい経験になります。アメリカのツアーのためのギターの曲の作曲も手伝ってくれています。
6)研究生のラギ、涼子、田郷ちゃん、てっちゃん、あおいありがとう。私は皆と一緒の時寂しいと感じたことはなかった。
7)私の先生たち、ズン、こんちゃん、愛子、正平、ありがとう。皆はいそがしいのに私のために時間をさいてくれました。彼らは私を信じてくれて上手くなるように一生懸命教えてくれました。
8)私を心良く迎えてくださったわらび座の皆さんありがとう。皆いつも私に親切にしてくれて本当に嬉しかった。
9)そして最後にありがとうと言いたい人は徹です。彼はわらび座での私のベストフレンドです。私のつらい時本当に心強くサポートしてくれました。彼は夢を追って生きる私の人生を信じてくれました。私は徹と結婚して人生を共に生きていきます。

これが私のストーリーの第1章です。これから私に第2章が始まります。これから先もまだまだわらび座の人たちとは長いお付き合いになると思いますのでこれからもどうかよろしくお願いいたします。

(アンコール)
ソーラン節(ミッシェルと徹のデュエット)

以上が当日のプログラムです。堂々T時間半におよぶ研修終了発表会となり、集まってくれた皆さんとともに感動の一時を過ごすことができました。当日は上にも書きましたようにわらび座研究生の徹君(現在演技者)との婚約発表というハプニングもあり(その結果は前回この物語でとりあげました結婚式特集です)多いに盛り上がって終わりました。
発表会後その場で一年間ご苦労さんのパーティが執り行われたのは言うまでもありません。