アメリカ・ワークショップ・ツアー報告 3

Workshop Tour
July−August
2003

ポートランドへ、そしてパフォーマンス続きの14日間

 7月11日

午後3時30分のアラスカ航空便でポートランドへ向かう。途中機内からマウント・シャスタが見える。オン・アンサンブルのメンバー、ショージとマサトの故郷だ。5時過ぎポートランド着。アンとザック夫妻が出迎えてくれる。その足で夕食。何人かのメンバーと合流。夕食後スティさせてもらうヴァレリーの家へ。ヴァレリーと息子のケンジが迎えてくれる。その日はシャワーを使わせてもらって休ませてもらう。

 7月12日

朝食を簡単にすませてヴァレリーの車でポートランド太鼓のスタジオへ。9時30分着。間もなくサホミ・タチバナとフランクご夫妻がにこやかな笑顔で現れる。サホミはポートランドで長年日本舞踊を教えていらっしゃる方。6年前のわらび座アメリカ・ツアーの時に名刺をいただいた方だ。その名刺を頼りに今回ミッシェルからポートランド太鼓へ、そしてポートランド太鼓のアンとザックからサホミとフランクにコンタクトが取れてポートランドでのパフォーマンスが実現したのだ。お二人が主催してくださることになったのだ。懐かしい再会を喜び合っているうちに太鼓のメンバーが続々と集合。
10時からワークショップ開始。さんさ踊りの3拍子、太鼓のリズムから始まる。皆がリズムを呑み込むのに以外と時間がかかる。横打ちの叩き方は初めてなのだ。サホミとフランクが笑顔でずっと見守っている。サホミはずっとメモをとっている。それでも何とかリズムが入ったところで手踊りに入る。これが又一苦労であった。中には呑み込みの良い人もいるが大半は良くわからない感じ。この呑み込みの遅い人と早い人との差にその後も多いに悩まされつつも、やがて一応わかったかと思える段階で太鼓をつけてもう一度最初から。太鼓の台数が足りないので次々と替わりながら稽古をするので能率は上がらない。それでも4時間の稽古、皆最後まで文句も言わず良く頑張った。最後の方では皆疲れが目に見えて、顔の表情が動かなくなっている。無理も無い初めて体験する日本の民族舞踊、それも太鼓を叩きながら踊るのだから。
サホミとフランクは面白かったと言って帰っていかれた。
そして意外と皆も面白かったと口々に言ってくれた。ありがとう。こうして第1日目は終わり 夜はヴァレリーの家で鉄板焼きパーティー。裏庭で美味しくいただく。アメリカの家庭は裏庭でのバーベキューが大好き。皆広々とした前庭、裏庭を持っているのです。うらやましい。


その内に冷え込んできたので家の中に移動。楽しく語らいながら夜も更けていく。話の経過でミッシェルと二人で「ソーラン節」のパフォーマンス。喜んでもらう。

 7月13日

ポートランド太鼓、ワークショップ2日目。
皆さすがに気を引き締めて訓練開始。昨日の復習から。3拍子は何とか形がついてくる。そこで4拍子に進む。これが又時間がかかる。途中から小グループでリズム訓練。(これが良かったかもしれない)互いにわからない人に教えあったりしていいムード。出来たグループから私が踊りを踊って回りイメージをつかんでもらう。全体を何度も回り歩く間にリズムがぐんぐん良くなってきた。そこで4拍子の手踊りへ。手踊りから太鼓をつけてと昨日と同じ流れ。この頃から全体に思考能力が減退してきた感じで疲れが見え始める。それでもふんばって4拍子、3拍子とかわるがわる踊り続けることしばし。太鼓をつけて踊り続けるのはそろそろ限界と判断したので、その頃から手踊りのみに切り替える。(なにしろ昨日から6時間踊り続けているのだから)
最後の仕上げに全体で座って太鼓のリズムを打ちつづける。この時の太鼓は中々上出来で全体が気持ち良く一致している。全体に何とも言えない感動が走る。一人の脱落者もなく良くついてきたと思う。
多分皆の肉体もピークだったのではないか?
終わると皆充実した顔で感謝の言葉をのべてくれた。

 7月14日

ポートランド観光とパフォーマンスの日。
アンと文、マーク(この二人はスタンフォード大学の太鼓グループ。夏の期間研修にきているのです)と一緒に市内にある日系人の歴史を記したモニュメントを訪ねる。川に沿った公園にあった。1世の人たちが始めてアメリカに渡ってきた時から戦後の時代までのその時々に書き記した俳句や短歌が日本語で、あるいは英語で石に刻まれている。そして戦中、日系人たちがキャンプに収容されていた辛い時期の部分だけがポッカリと空白になって石が途絶えていた。


Sure, I go to school.
Same as you.
I'm an American.


見ている間に何とも言えない気持ちが襲ってくる。
今まで会ったお年よりたちは口々にあの時代のことを語り伝えようとして私に何時までも話しかけてくれたものだがその思いがひしひしと身に迫ってくる。
昼食後有名な観光名所の一つの滝を見に連れて行ってくれるという。車で1時間くらいの所だ。私はそろそろ夜のパフォーマンスのことが気になりかけていた。何とかエネルギーを消耗しないように、と必死であった。
夜、サホミとフランクが主催してくれたパフォーマンス。会場は仏教会のチャーチ。会場一杯のお客さんでフランクの予定していた人数以上だったようで「ソウルド・アウトだ」と喜んでいた。反応はすこぶる良かった。今回は冷房もしっかりと利き、食事も適当にお腹につめていたので満足行く出来栄えと我ながら嬉しかった。
ポートランド太鼓の面々があちこちから真剣な眼差しで舞台を見据えている。皆目を見張って、時々目が合うとニコッと微笑んでくれたりしている。お客さんは大変興奮して、終演後しばらくいろいろな人に話し掛けられ対応。ポートランド太鼓の面々が一緒に食事をしたいと言うので片付け後同行。サホミとフランクも大変満足して私達を送り出してくれた。

 7月15日

ヴァレリーの車を借りてミッシェルの運転で憩の会でのパフォーマンスへ。
ミッシェルにとってポートランドの地理は知らない所。緊張しながらも思ったより早く間違いもせずに憩の会の施設に到着。憩の会は(アメリカでは良く見られるのですがお年寄り達の為にランチを安く提供し、また集える施設)ポートランドで暮す日系のお年寄りたちのための憩の場。アンとザックがミニ・コンポを持ってきてくれる。そのままザックはテープ操作係りを務めてくれる。サホミも現れ、昨夜のパフォーマンス評判が良かったと再度お礼を言われる。また会のメンバーには昨夜見てくださった方もおられ「良かったよ」としきりに声をかけてくれる。


そしていよいよパフォーマンス開始。中に大変賑やかなご婦人がおられて最初から乗っていて太鼓も積極的に叩いてくださり(最初下り山囃子で太鼓を叩きながら客席を回り、これぞと思う人に叩いてもらうのです)途中からは一緒に踊りだしたりしてくれました。終演後20ドル紙幣を2枚差しだし「以前サホミから踊りを習っていたのです。今は糖尿病を患い目が良く見えなくなっていて」という。
ありがたく頂き、皆と握手を交わしてお別れを惜しむ。皆さん口々にお礼を言って帰っていかれた。
ポートランド太鼓の事務を一手に引き受けているアニーが夜、中国の楽器ピパとヴァイオリンなどのコンサートへ連れて行ってくれた。
さてコンサートも終わり夜もふけてヴァレリーの家へ向けて再びミッシェルの運転。ところが散々迷ったあげくの帰宅となった。地図を指し示しながら全く違う方向へ走っていたのだとケンジが教えてくれた。ご苦労様でしたミッシェル。

 7月16日 朝食を頂きながら次男のラファエルと話す。彼は小さい頃から日本語学校で学んだので日本語を話すのだ。彼の作曲した曲をCDにしてプレゼントしてくれる。手書きの絵を添えて。
日本に帰っての楽しみが一つ増えた。
アンとザックが迎えにきてくれ、しばしヴァレリーを交えて歓談の後空港へ送ってくれる。1時16分のフライト。2時55分サンノゼ空港に着く。ミッシェルのお父さん、ヘンリーが迎えにきてくれる。本当にこのツアーは家族ぐるみでの応援であった。感謝感謝!!
以後の時間はお休み。
 7月17日

サンノゼの友愛会でのパフォーマンス。以前6年前のわらび座アメリカ・ツアーでパフォーマンスをやった懐かしい施設。3階のフロアーでやることに。期せずしてリン先生が取材にきてくれる。北米毎日の記者としてである。サンノゼ太鼓25周年記念コンサートで振り付けでコラボレーションをした時の記事を持ってお見えであった。(この記事は日米タイムスの記事)以前は日米タイムス記者、今は北米毎日の記者に移籍したのだそうだ。それにクリスティーのお母さんが「菊池さん・・・?」と声をかけてきてくれた。本当にビックリした。クリスティーもその記念コンサートの時はサンノゼ太鼓のメンバーとしてとても印象に残っている若者であった。大変親しくなりお家でパーティーを開いてくれたことがあったのだ。それをお母さんはしっかりと覚えていてくれたのですね。おばあちゃんも来ているのだという。そんなこんな懐かしいお顔を拝見している間にパフォーマンスの時間。
お客さんの間をぬって例のごとく下り山囃子から始まった。皆さん終始にこやかに見てくださった。概して日本のフォークダンスというとアメリカの盆踊りをイメージするのだと言う。その違いにビックリという感じで食い入るように見ている。ボランティアで図書やビデオを設置して貸し出しているご夫婦が、始まる前は余りたいした関心を見せていなかったが終わると大変喜んでくださった。「こんなだとは予想もしていなかった」と。
リン先生のアンコールの声で「ソーラン節」をサービス。あちこちで歌を口ずさむ人がいる。とても暖かい一時であった。そして最初からずっと手振りをして踊っている人がいた。にわかに思い出した。6年前のパフォーマンスの時もそうやって踊っておられた方だ。昔踊りのお師匠さんだったという人である。元気で再会というわけである。大変懐かしかった。
終演後2階の食堂で一緒に食事を頂く。
優しい味付けであった。

 7月18日

休日。
午後3時30分にサンフランシスコのトレーシーと会う約束で出かける。船に乗せてくれると言う。着くとトレーシーは2歳の女の子と昼寝の最中。起きて再会を懐かしむ。彼女は数年前秋田の大曲に住んでいてわらび座の研究生として踊りを勉強していたことがあったのです。彼女のお腹の中には2人目の赤ちゃんが。10月には男の赤ちゃんが産まれる予定だという。旦那さんは15歳の息子をつれて彼女と再婚。連れ立って港でジャズコンサートを聞きながらケンタッキー・フライドチキンで夕食。食後トレーシーとミッシェルと私3人が友だちのヨットに乗せてもらう。最初は波もおだやかだったが、サンフランシスコ湾、ゴールデン・ブリッジに近くなるにつれてものすごく冷たい風が吹き付けてくる。ヨットに備え付けのブランケットを借りて体に巻きつけてひたすら耐える。湾を一周して1時間程の寒い寒い夏のセーリングは終わった。貴重な体験であった。冷え切った体をトレーシーの家で熱いお茶をいただきながら暖める。思い出話しに花が咲く。夜10時半頃に再びサンノゼへ向けて車を走らせる。

 7月19日 午後1時30分から3時までジャネットに「じゃんがら」の稽古をつける。中々苦戦。
夜ケニー遠藤出演のジャズ・コンサートを聞きにゆく。ハワイで「よかったらどうぞ」とご招待を受けていたコンサートだ。ユミも一緒。会場で懐かしいリンダ、、メリーに会う。舞台はとてもエキサイティングであった。和太鼓、ドラム2人、キューバのパーカッション奏者と4人が中心になりピアノ、サックス、トランペットなどと次々と競いあって妙技を繰り広げていく。観客は興奮。初めて聞く生のジャズ・コンサートでした。ワォ。
 7月20日

サンノゼから車で1時間程南下した所にある町、ワトソンビルでのワークショップ。黒石よされ節、アメリカ初のワークショップ曲でした。午後1時半から5時までの3時間半。何とか流し踊り、回り踊りの2種類を覚えてもらう。最初中々大変でどうしたら良いかと考えながら進めていた。が途中からカウントを声を出して言ってもらい、開いてチョチョンガチョン・・・と大きな声を出してもらう中で少しずつ吹っ切れてきたよう。少しずつ乗ってくる。どんどんテンポアップしてみる。とにもかくにもついてこられるのでためしに音楽でやってみる。その頃から皆楽しみ始めたように思える。
休憩時間に「津軽じょんから節」「秋田おばこ」「ソーラン節」のショート・パフォーマンス。皆さんビックリ。戦後日本から渡米した80歳過ぎのおばあちゃんが後で言ってくれた言葉が嬉しかった。「綺麗に踊る人は何人もいるが今日は魂の踊りを見せてもらった、ありがとう」と。
休憩後皆多いに楽しんで踊っていた。終盤4人ずつの発表。見ている人たちからコメントを出してもらって評価しあう。それぞれのグループの頑張りに拍手。最後の最後に全員で踊りあげてお仕舞い。
主催してくれたイクヨさんは踊りつづけたいと言う。ありがとう。

  


ちょうどその日はワトソンビルの盆踊りの日であった。サンノゼの盆踊りを見逃していたので盆踊りを見て帰ることに決める。出店で夕食を買い屋外のテントで食べていると日本人のビジネスマンが話し掛けて来た。英語があまり得意ではなく中々日本語が通じない中で日本語で会話できる人を探していたと言う。仕事の関係上いろいろなビジネスマン(彼は技術者らしい)がいるんだなぁとその大変さに思いをはせる。
いよいよ盆踊りが始まった。緩やかに踊りだす踊りの輪。綺麗に着飾った女の子、男の子。白人も結構多い。ハッピ姿の人。それぞれが工夫を凝らしている。なつかしい。何だか今の日本では見られない姿のような気がした。
曲目はほとんどが私の知らない曲。
3曲ほど見て帰路。

 7月21日

サンフランシスコでのパフォーマンス。中国系のコミュニティー、SELF−HELP FOR THE ELDERLY(安老自助處)でのパフォーマンスであった。したがって日本語は全く通じず英語も独特のニュアンスでミッシェルにも難解だったようだ。食堂兼集会所のような会場に入ると折りたたみの壁に仕切られた隣室では中国の歌を練習しているコーラス部。今までとはちょっと雰囲気が違う。そこで向こうの方がまとめて最初に紹介、司会をしてくれた。どうなることかと心配がよぎるが始まってみると本当に熱心に見てくれた。下り山囃子や黒石よされ節で会場を回り、目が合うとニコッと大変愛想がいい。受け入れの3人の女性たちがとても喜んでくれた。


サンフランシスコは坂の町である。何段もの急な坂を上がったり降りたり。良くぞ車でと思うような坂が次から次と続くのだ。パフォーマンスが終わって海岸通りの観光客が行ったり来たりしている商店街で簡単な昼食。近くに私が欲しかった「雨の木」を売っている楽器屋さんがあったからだ。念願の「雨の木」を購入。帰りの荷物の邪魔にならないようにできるだけ小さな物を買う。
6年前に観光で連れて行ってもらった有名な観光名所の坂を通過。
サンノゼに帰ってくると、急遽その足でサクラメントに移動することになる。明日のサクラメントのパフォーマンスも朝10時から。それに間に合うようにサンノゼを出るためには朝7時頃に出発しなければならないからだ。それではミッシェルがきつい。そこで今日のうちに移動しておこうと言うわけ。サクラメントはトゥリッシュの実家があるところ。そこで彼女の家に泊めてもらうことになったのである。
トゥリッシュと合流して2時間かけてサクラメントへ。

 7月22日

サクラメントでのパフォーマンス。日本でいえば特別養護老人ホームのような施設。見てくれる人たちは皆車椅子の人たち。あまり表情がない。万踊衆を立ち上げて初めてやったパフォーマンス、清眺苑でのパフォーマンスを思い出した。最初太鼓で回り始めると近くに寄った人の表情が変ってゆく。安心。何時も通りバチを渡すと小さな音だが叩いてくれる。なかなかいい雰囲気。あまり表情には表さないが喜んで見てくれていることはわかる。黒石よされ節で再度会場を踊りながら回ると、やはり表情を変えて笑い返してくれる。この人たちはもう一生日本の踊りなど目にすることなどないかもしれない、そんな思いにかられる日でした。終わった時にもう一人車椅子のご婦人が入場してきた。残念、もう終わり。でもその人の為にもう一度だけ下り山囃子をやった。その人の前で。少しでもなぐさめになってくれたら。日本もアメリカも人の心は変らないんだ、としきりに思わせられる心に残るパフォーマンスであった。

  

 7月23日 完全休み。
一日笛を吹いて過ごす。唇の感覚がいい感じになったかな?
 7月24日 午前中笛の稽古。
ミッシェルの旦那さん、徹君が休暇がとれたので日本から到着。ミッッシェルのおじさん、おばさんも訪ねてきて家族の歓迎昼食会。私も同伴する。

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