大地と宇宙の間の音

 ドラムを叩くようになって、どうにか自由度を得始めた頃、パワーを出すために毎回スティックを折り、しばしばヘッドを破ったものだ。初学のうちから効率よくパワーを引き出すためリムショットをも多用するスタイルを作ってしまってもいた。

 そうしてドラム本体には相当なストレスを掛けたであろう日々を過ごすうちにヘッド以外の部分の鳴り方がなんとは無しに感じれるようになってきた。そして、少しずつドラム自体が私に語りかけてくるように感じられるようになった。こうなると、単にひっぱたくということではドラムが痛いといっているのではないかという気がするようになってきた。

 そんなはずは無い!無いのだが・・そうこうしているうちに、インパクトの瞬間、スティックの扱い次第でヘッドのミュートの掛かり具合が変化するようになった。ここら辺りがスレッショルドだったのだろう。ドラムの音色コントロールの幅は大幅に増えたのである。それまでがちがちにミュートを要求していたものが、それほど必要なくなり、神経質にチューニングしていたものがそのままでも結構いけるようになった。

 私はほとんどテクニックを駆使しない太鼓たたきである。もともとドラマーに憧れたことは無かったし、今でもドラムソロは大嫌いである。ただ、その響きと空間を切り裂いて進む音に惹かれたのである。

 で、相当なパワーヒッター的な演奏スタイルと相成った。もともとがフロイド小僧で、ゼップやヒープで育ったため、パープル的な前ノリ型の演奏が苦手である。自分にドラマーであるという自覚がないためかどんな曲でも演奏しようなどとは思ったことが無い。

 ただ、太鼓と語り、その音をすべてを切り裂いて進めとばかりに放ち続けたというのが正解か・・

 さて、太鼓の言うことが聞けるようになると同じ音量を出すのにまったく力は無用であることを確信した。

 体の合理的な使い方でその太鼓の最大限の音まではすんなり出すことが出来、また、実に気持ちの良い音がすることに気がついた。この頃から気や東洋医学に関する興味が強くなったこともあり、自分のからだの中のエネルギーの流れに神経を使うようになった。

 私の本来のビート感は呼吸のビートであるようだ・・そのゆったりとしたビートを刻むうち呼吸につれある種の流れが足もとからスティックに向かって流れることに気がついた。小節の頭で踏み込んだバスドラの音と共に足先から腰を経由し、胸、肩、肘、そして手首、指先を経由してその流れは確かにスティックの先端に向かう。そしてスネアを響かせ、音と共にどこか知れない遥かな上空に向かっていく・・

 この流れが確かに物理的なものなのか、自分の感覚だけのものなのかまったく検証する術はない。

 が、確かに実感される。まるで、大地が私とドラムというインターフェースを通して宇宙へ語りかける様に・・

 だからといって、私がしっかりしたテクニックを持っているなどと勘違いはしないでもらいたい。あくまで下手な太鼓たたきではあるのだが、自分の与えた(あるいはもらった)エネルギーの寄る辺を見ることが出来るだけに過ぎない。

 何処にもぶつけようのない言葉にさえならない叫び声を、一人吐き続ける人のように私の太鼓は私の屈託を吐き続けるのだ。


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