混沌の果て

 人間という生物、あるいは人類はその社会的生活を営む上で、清濁を会わせ持った存在であると思う。何が清で何が濁かは誰にも判断できないであろう。なぜならその価値を決める基準自体が一人一人違うからである。

 人間社会自体が清濁両者を要求することは歴史が証明している。しかるに近年、特に日本では見かけ上のこぎれいさを街に求めすぎ、結果、そこから溢れた諾の部分が社会的弱者の部分に集中して吹き出すようになっているような気がしてならない。

 諾の部分が人間の本体である限り決してなくなることは無い。エネルギー不滅の法則と同様である。

 自分の身の回りから諾を一見見えないように掃除しまくってもあるものはあり続けるのであるから、必ずどこかから吹き出すのだ・・

 であればこそ、自らの諾の部分を真っ正面から見据え、その自分流の調教方法を学ぶこと、これこそが倫理のよって立つべきところでないかと思われる。

 人間は見方によってはくそ袋でもあり、しょん便袋であり、性欲の塊でもあり、自然を破壊しつくす地球にとっての癌細胞かもしれない。でもそれこそが人間というものなのだと理解してる。

 良いことも悪いことも、すべてが回る。アクションにはリアクションが必ずあり、因果は回り、輪廻も回る。すべての物質が変化しつつ決してなくならないように、エネルギーもまた不滅である。ただしくは物質とエネルギーの総和が一定であるというべきだとは思うのだが・・やったことには結果が必ず付きまとう・・

 自分の中の汚いこと、汚いもの、どろどろした欲望、エゴイズム、そして聖人ぶりたい欲などもすべてを直視しなくてはならない。

 物事見方はいろいろあると思うが、基本的に正面からいったんきっちり見て、後ろからも左右からも上下からもしっかり見て、そして意思力できっちりもう一度正面から見る必要があると思う。

 人間の感情にはいろいろあるが、一つはっきりしていることがある。笑いのみが意識的に作り出すことの出来るものであることだ。他の感情は否でも応でも出てくるものであり、それこそ感情のなせる技であるが、笑いのみは意思の力で生み出すことが出来る。つまりはきわめてポジティブ且つ、アクティブなものであるということだ。だから、すべてを笑い飛ばすのだ・・苦労も悲しみも自らの汚さも卑小さも、人生すらも・・

 まじめな面してまじめな服装で、まじめな態度でも仕事や信義においていいかげんな奴は腐るほど居る。ならふざけた態度でふざけた服装でふざけた面していても、仕事や信義においてきわめてまじめな方がまだまだ多くの人を幸せにするではないか・・難儀なことも辛い仕事もすべて笑い尽くした方が棺桶に入ったとき、自分にも他人にも納得がいくであろうさ・・

 笑い尽くしたら、また違うものが見えてくるのかもしれない。

因果?輪廻?

少年あるいは少女達のいらつき?

分析あるいは解析と呼ぶ宗教

東洋?西洋?二元論で間に合うか?

経済効率主義に対する疑義

コンピュータがどうした!

下ネタは無尽蔵・・


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