すべては回る

 抹香臭いことを言えば、因果応報とか輪廻とかまぁいろいろ出てくるであろうが、自分の中で実感していることの一つに、アクションにはリアクションがあるということだ。この言葉であれば物理学的に考えることが出来る出会あろう。

 人を叩けば短いスパンでは自分の手が痛い。長いスパンではいつかは叩かれるといことだ・・人を切れば切られるし、すべて生きざまが自分に返ってくる。

 物理法則の大きな定理の一つに、エネルギー不滅の法則というものがある。平易に言うとエネルギーとは形を変えこそすれ、決して無くなることは無い。これは言い換えると無いところから出てくることはないという意味でもある。しかしながら、原子エネルギーに関しては微妙な見方が紛れ込む。これ以外の大概のエネルギーというのは可逆性があるか拡散によって改修出来難くなるかということはあるが、原子エネルギーに関しては発生から消費しか無い。(もちろん熱エネルギーとしては拡散するのだが・・決して原子エネルギーとしては戻らない)妙ではないか・・

 原子エネルギーの実用へのキーポイントとなったアインシュタインの示したE=MC^2と言う式は、変数がEとMしかない。ということは、通常の関数式の形式を取るとE=C^2Mとなる。このうちC^2はC=光速度と言うことから思い入れが入って、特殊な意味を持つと思われがちであるが、何のことはない、単なる定数である。いや、係数と言うべきか?とすると、E=M×係数ということであり、つまりは物質はエネルギーであるということになる。これはまた逆も言え、エネルギーは物質でもあるということになる。数学的には簡単に逆が取れる。

 さて、そこで問題になるのはエネルギーとは何ぞや?と言うことになるであろう。エネルギーの定義としては何事か仕事を成しうるもの・・と言うことになるが、ずいぶん哲学的定義である。仕事は確かに物理的定義として定義されるものであるが、成しうるとはなんだ?

 もし、物質=エネルギーとすると光の粒子性と波動性の問題というのは、最初からナンセンスということになる。がしかしその境界というのは何処にあるのか。エネルギー保存の法則もエントロピーの法則も、物質とエネルギーの総和として語られるべきではないか?という疑問を持ってしまう。

 こうして見方が成立するとすれば(あくまで仮定であるが)、何事かを成しうる力としての意思力というものも、ある程度のエネルギーと見ることが出来るのではないか。であれば、霊魂あるいは単に魂と呼ばれるものもある程度存在しうると思われる。また意思はエネルギーとするとエネルギーは意思とも言える。変化への意思、成長への意思、進化への意思、これらがエネルギーの本態として持っているとすればなかなかに世の中も面白くなるではないか。

 エネルギーの行使ということは見方を変えるとアクションを起こしたということである。エネルギー不滅の法則からいっても起こしたアクションは形を変えても決して無くなることは無い・・そして短期的にであるのか長期的にであるのか必ず行使したエネルギーは帳じりを会わせるために戻ってくる。これがリアクションといい得る。


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