その日、自分の〃涙つぼ〃はひび割れたのではないかと思えるほど、何度も何度も涙がこみ上げてきた。そばを歩く妻には、その涙が浮いては顔をそらした。涙声となってはたまらないと黙って、森の中を歩いた。売店の主人からも涙顔を見られまいと顔をそむけ、「これを下さい」と「高村光太郎」の詩集を買い求めた。高村光太郎が晩年に独居自炊した岩手県花巻市の「高村山荘」を訪れたのは20数年ぶりだった。高村山荘で、30代だったころの自分と、50代に入った今の自分との再会をした。20数年の時の流れは感情の起伏を激しくさせ、涙もろくさせた。山荘を囲んだ森を歩くと、はらはらと病葉(わくらば)が散った。その音にさえも涙がこぼれ落ちそうな自分だった。
悲しんでいるのではなく、光太郎の「言葉」の美しさに感動した〃喜び〃の涙だった。智恵子を愛し、智恵子に想いを注ぎ、智恵子の思い出と共に晩年を送った光太郎の「愛のコンチェルト」に泣けたのだった。
高村山荘を訪れたのは31日昼だった。その日は土曜日だったが、妻が仕事の関係で田沢湖町に行かなければならなかった。自分の車を買い求めて、もう3年以上にもなるのだが、週1回運転するかしないかの妻はいまだにハンドルを握るのに自信がなく、若葉マークを付けたままだ。そんな状態だから田沢湖という遠方へ一人で走る自信はないし、こちらも妻のそうした遠出には不安だった。
この春ごろから自分が、高村光太郎の山荘を訪ねてみたいと言っていたのを聞いていた妻は「今度の土曜日、田沢湖町に行かなければならないの。用事はすぐ終わるから、その足で花巻に行ってみない」と提案してきた。つまり運転を代行してもらいたいのだった。高村山荘のある花巻市へ向かうには横手市から自動車道に乗って北上に入り、そこから向かうのが近道のはずだった。しかし、仙岩峠を走るのも、盛岡から東北自動車道へ乗るのも本当に久しぶりのドライブとなる。喜んで賛成した。
自宅から走って約130キロ。高村山荘に着いた。駐車場そばには赤レンガで装った小さな食堂兼売店があった。「詩の森」という名の店だった。着いた時はちょうどお昼だった。店の名前にも引かれ、そこで食事してから高村山荘を見学することにした。メニューを見ると名物「光太郎そば」というのもあった。「名物にうまいものなし」の例えもあるが、せっかくだからとそのそばを注文した。
注文して少し経ってから、妻がそこの主人に「あのー。光太郎そばには納豆が入ってるんですか?」と聞いた。「ええ。入ってますよ。光太郎さんは納豆とそばが大好きな人でねー」。ご主人は納豆の入った「光太郎そば」を自慢そうに答えた。「えーっ!。そばに納豆!」。こちらもそのやりとりを聞いて、正直「ドキリ」とした。納豆の入ったそば。「大変だ!」と思った。
子どものころは納豆は大好きな食べ物だったが、いつのころからか食べれなくなった。独特の臭いと糸を引くあの粘りが苦手になってしまった。妻も同様で、我が家に来たころは抵抗もなく納豆を食していた。それがいつの間にか苦手になったようで、食卓から納豆は消えた。
「あのー。納豆の入らない光太郎そばにしてもらえません」。70代前後と思えるそこのご主人は妻の注文に「お客さんは納豆が嫌いか。納豆は栄養があるのにねー」。「いいですよ。納豆は入れないことにしましょう」。ご主人は残念そうな声で、厨房に納豆なしのそばを作るよう指示した。こちらも内心、ホッとした。光太郎は好きだが、納豆は食べれなかった。
ご主人も気持ちのいい人のようだ。納豆が入らない代わりにと思ったのだろう。テーブルに運ばれてきたそばには卵が入っていた。そしてワサビもタップリと盛りつけられてあった。「卵とワサビ、そしてそばをよくかき混ぜて下さい。混ぜれば混ぜるほどおいしく食べられます」。「ハイ。ハイ」。妻は調子よく相づちした。こちらは相手に聞こえないよう低い声で「何か、まずそう」と不満を漏らした。そば汁(つゆ)がほとんどないのがいかにもまずそうに見えた。しかし、出されてしまった。目をつむってでも食べるしかあるまい。
そばと卵とワサビを少ないそば汁にしみ込むようにと何度も何度もかき混ぜた。そして最初の一口だけは目をつむって、飲み込むように口にした。意外だった。見た目には素朴過ぎてまずそうだったが、意外とあっさりしたそばの味だった。やはりそばの名産地「岩手」である。納豆は頂けないが、そばはおいしいと思った。
食べながら小声で「おい。なんでそばに納豆が入っているって分かったんだ」と妻に聞いた。「だって先に食べている人たちのを見たら納豆が入ってたもの。それにテレビで、光太郎そばには納豆が入っていると紹介されたのを前に観たような記憶があったの」と妻は答えた。「ああ。でも良かったよ。早く気づいて。納豆が入ったそばなんか目の前に出されたら、今ごろはここで卒倒していたよ」。こちらは箸を手に妻の機転をほめた。妻はそばをすすりながら、いたずらっぽい目で無言で笑った。
そばを食べ終え、山荘への道へ入ってから〃涙つぼ〃がおかしくなってきた。夏の名残のセミなのか、まだ弱々しく鳴いていた。左手は田んぼで、右手は鬱蒼とした樹木が生い茂る森だった。田んぼの畦道はつゆ草が咲き乱れ、インクで染めたような小さな花がとても可憐だった。山荘はクリや松、桜の木やコブシ、コナラ、ハンノキなど巨木、小木に囲まれていた。セミの声にも、つゆ草の可憐さにも涙がこぼれそうになった。
20数年前に来た時も山荘を保護するための木造の套屋(うわや)があったが、当時は山荘の姿をほぼ〃生の姿〃で観ることが出来た。しかし、いまではその套屋の上にさらに鉄骨の套屋が架けられ、ガラス越しでしか観ることができなかった。外からの反射が邪魔して中は見えにくかったが、少しでも光太郎の生活をかいま見ようと努力した。
ランプがつり下げられた粗末な土壁の小屋は広さわずか7.5坪しかないという。1945年(昭和20年)4月、東京のアトリエを空襲で失った光太郎は、宮沢賢治の弟・清六に招かれ、花巻に移り住むがその宮沢家も戦災で焼け落ちる。その年の秋に光太郎は鉱山にあった「飯場小屋」を移築して、山の中での自炊生活に入る。62歳の時だった。
ランプがつり下がった板の間の囲炉裏の周りにはお酒を愛したと言う光太郎が飲んだ一升瓶や南部鉄器の鉄瓶、七輪、そして壁の書棚には光太郎の蔵書が当時のままの姿で置かれていた。土間の壁には光太郎の愛用したステッキもつり下げられてあった。土間を隔てた流し台の粗末さが哀れだった。
光太郎がその山荘に移り住んでから書いた「案内」と言う詩がある。
三畳あれば寝られますね。
これが水屋。
これが井戸。
山の水は山の空気のように美味。
あの畑が三畝、いまはキャベツの全盛です。
ここの疎林がヤツカの並木で、小屋のまわりは栗と松。
坂を登るとここが見晴らし、展望二十里南にひらけて
左が北上山系、右が奥羽国境山脈、
まん中の平野を北上川が縦に流れて、
あの霞んでいる突きあたりの辺が金華山沖ということでしょう。
智恵さん気に入りましたか、好きですか。
うしろの山つづきが毒が森。
そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
智恵さん斯(こ)ういうところ好きでしょう。
最愛の妻・智恵子を失い、山小屋で独居自炊することになった光太郎は心の中の妻に呼びかける。「智恵さん気に入りましたか、好きですか」。山小屋での冬の生活は夜具の肩に雪が降り積もる状態だったという。それでさえも光太郎は妻・智恵子に山荘での生活をさりげなくこう呼びかけた。「智恵さん気に入りましたか、好きですか」と。光太郎は山の中での寂寥とした生活を理想とした。畑を耕し、山の中でのたった一人の生活を通じて智恵子と向き合い、語り合おうとした。詩を通じて光太郎は亡くなった智恵子に「自分のことは心配しなくていいんだよ」と呼びかけた。この詩にこそ光太郎の智恵子への愛の深さ、細やかさ、美しさが凝縮されていると思った。
光太郎年譜によると智恵子が発狂し、入院生活を送りながら、肺結核で亡くなったのは1938年(昭和13年)だった。52歳の逝去だった。光太郎は55歳だった。智恵子と出会い、二人の生活が始まったのは1914年(大正3年)だった。光太郎31歳の時だから、24年間の結婚生活だったことになる。しかし、二人の結婚生活の中で幸せは長くはなかった。
智恵子の実家の父・長沼朝吉が二人の結婚生活から4年後の1918年(大正7年)には亡くなり、9年後の1929年(昭和4年)にはその実家が破産し、一家は離散する。智恵子に暗い陰が射すようになり、精神に異常のきざしが現れたのはその2年後だった。そして1932年(昭和7年)には服毒自殺をはかる。
高村光太郎の詩と出会ったのは高校の教科書の中でだった。教科書には有名な「樹下の二人」が掲載されていた。
あれが阿多多羅山(あだたらやま)、
あの光るのが阿武隈川。
ここはあなたの生まれたふるさと、
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫(さかぐら)。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡った北国の木の香(か)に満ちた空気を吸はう。
この詩を初めて目にした時の鮮烈な思いは今だって忘れない。風景描写の本当に見事な美しさ。リズム感に満ちた美しい文体。そして「あなたと二人静かに燃えて手を組んでいるよろこびを」の平易な愛の言葉にまだ高校生だった自分は、胸を熱くして詩の中に存在する智恵子という女性に憧れた。詩の中の言葉の美に陶酔した。詩の中に刻まれた言葉のすべてに美の目覚めを受けた。以来、何度、「智恵子抄」を繰り返し、繰り返し読んだことか。
ともあれ光太郎がこの「樹下の二人」の詩を創作した時の1920年(大正9年)春はまだ、智恵子との生活に甘い幸せの光はあった。智恵子の父は亡くなったとはいえ、生家の造り酒屋は健在だったし、智恵子は東京にはない古里の「本当の空」を求めて里帰りしていた。その里帰りしていた智恵子を訪ね、智恵子の案内で福島県二本松市界隈を歩いた時にこの「愛の詩」は生まれた。
しかし、智恵子の精神に異常を来し、その心に安らぎを与えたいと智恵子の実家の墓参を兼ねて東北の温泉めぐりの旅に出た時に生まれた「山麓の二人」(詩の発表は1938年・昭和13年)の悲しみはどうだろう。「樹下の二人」とは対照的な「幸せ」と「悲しみ」の対立である。
二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
険しく八月の頭上の空に目をみはり
裾野とほく靡(なび)いて波うち
芒(すすき)ぼうぼうと人をうづめる
半ば狂へる妻は草を藉(し)いて坐し
わたくしの手に重くもたれて
泣きやまぬ童女のように慟哭(どうこく)する
── わたしもうぢき駄目になる
智恵子との旅の空の下で本当に「泣きたかった」のは光太郎ではなかったか─。精神が壊れていく妻。目の前で「もうじき駄目になる」と声を出して泣く妻を前に、光太郎はどんな思いで磐梯山を眺め、智恵子の背を見つめたことだろうか。慟哭する妻。きっと光太郎の〃涙つぼ〃は大きくひび割れ、そこから滝のように涙があふれ、流れ落ちたことだろう。
高村光太郎記念館には「きちがいといふおどしき言葉もて人は智恵子をよばんとするらん」の歌があった。光太郎には精神に異常を来した智恵子でも、愛する妻であり、愛しい人であった。それだけに他人から「きちがい」と呼ばれることにどんな悔しい思いをしたことか。心傷んだことか。光太郎の底知れぬ悲しみをその歌からくみ取った。
「智恵さん気に入りましたか、好きですか」。高村山荘で買い求めた「光太郎」=財団法人高村記念会発刊=に掲載された光太郎の「案内」の詩を読み、自分の〃涙つぼ〃はひび割れた。落ち葉の音にも、弱々しいセミの鳴き声にも、目が潤んだ。山道を歩く光太郎の後ろ姿が、涙で潤んだ目にぼんやりと浮かんだ。智恵子の美しい顔も浮かんだ。智恵子と光太郎の美しくも悲しい「愛のコンチェルト」が山道に静かに流れた。
光太郎はその山荘で7年間暮らし、詩文集「智恵子抄その後」なども刊行した。晴耕雨読の日々を送りながら、地元の農家の人たちとも交流を深めた。そして1952年(昭和27年)、青森県から依頼を受け「十和田湖」への裸婦像制作のため、帰京。その裸婦像をも妻・智恵子をモデルとし、渾身の力を込めて完成させる。それから3年後の1956年(昭和30年)、73歳の生涯を光太郎は閉じた。
8月最後の土曜日は光太郎と智恵子の愛の軌跡を求めたドライブとなった。岩手路はその日、ずーっと曇り空だった。