・コンセプト

 「石黒家」は、明暦二年(1656年)角館所預として入部した角館佐竹北家初代義隣(よしちか)に召抱えられ越中(富山県)から角館に移り住みました。
 はじまりは、采女正(うねめのかみ(しょう))直之が父の権正(ごん(けん)のかみ(しょう))直政と別れて加賀越中国の浪人として出羽国上院内に入ったことに由来しています。後に采女正直之は、父の名から権兵衛と名乗りました。
 角館石黒の初代は、直之の息子の勘左衛門直起(幼名は勘太郎)としています。直起は、明暦二年(1656年)角館所預として入部した角館佐竹家初代義隣(よしちか)に召抱えられ、住居を現在地より西側の川原町に構え、役職は、財政を担当する勘定役でした。
 二代目は、直起の二男である形右衛門宗次(幼名は友之助)です。宗次は、佐竹北家ニ代義明(よしはる)が江戸・京都へ登る際、三度(天和元年(1682年)、貞京四年(1687年)、元禄ニ年(1689年))供を務めています。直起の嫡男として生まれた長男の権兵衛宗周(幼名は幸哉)は、病気のため直起の跡を継ぎませんでした。しかし、兄宗周も病気ながら勘定に用立てられ友之助を立てました。この時期、石黒家は、角館において二流に分かれました。また、宗周の家系は、万延元年(1860年)の町割図に記載されている石黒早太家の元になりました。
 三代形右衛門宗勇は、元文ニ年(1737年)に角館佐竹義拠(よしずみ)から自筆の證文を拝領しております。
 五代形右衛門直之は、明和元年(1764年)に佐竹義邦の供として江戸へ行き、また「馬呑」と号し佐竹義躬公らと俳諧に興じています。
 七代直愿は、一ノ関で和算を学んだり暦学も修めています。また、佐竹北家の代参として高野山、四国まで旅をし教養を深め「温故集」(直愿一代記)と直愿日記を書き残しています。
 八代隼人祐直信(織紀)は、嘉永四年(1851年)に同じく江戸への供を務めています。また、住居を嘉永六年(1853年)に蓮沼七左衛門から買い受け現在地へ移しています。この住居の薬医門には、文化六年(1809年)四月廿七日の矢板があり、今となっては角館に現存する武家屋敷の中で最も古いものです。さらに幕末から明治にかけての変動期に世の中の流れを良くつかみ家塾「紅翠亭」を開いて学問の普及に努めました。漢詩「毅堂詩集」を残すとともに明治十四年(1881年)には長崎県の大村を訪れています。
 また、直愿の次男福蔵は、高橋六右衛門の家を継いで高橋久三郎と名乗り兄の直信に次いで久保田中川市右衛門に学びましたが、嘉永四年(1851年)江戸に出て蘭医利光仙庵に学び当時日本に伝来した「牛痘接種法」を用いて秋田に初めて種痘法を取り入れた人物で「高橋痘庵」といい「種痘の神様」的存在であったと云われています。
 九代直幹も学問に力を入れ、号を蒙斎といい漢詩を学び明治十七年には清国(中国)へ旅して見聞を深めました。
また、晩年には角館町長を務めています。
 十代直豊は、中等教育に力を注ぎ、角館図書館初代館長を務めています。

参考文献:「角館の武家屋敷 石黒家」(昭和六十一年(1986年)、高橋雄七 執筆、角館町教育委員会 発行)