こちら編集室「河井継之助という男」(98・3・17)                 

 選ばれてあることの恍惚と不安われにあり―。確かボードレールの詩ではなかったでしょうか。

 ――さん。お元気でしょうか。秋田は厳しい冬からようやく抜け出し、春の気配が日増しに高まってきました。故郷を離れて暮らす秋田の人たちにインターネットなら簡単に郷土の話題を伝える ことが出来ると始めたこの「秋田県南日々新聞」も順調にアクセス数も伸び、間もなく10万という大台を達成しようとしています。                         

 ――さん。最初にボードレールの詩を引用したのはあなたとの思い出を語りたかったからです。あなたと出会い、あなたと語り合えたことはとても幸せでした。あなたは海を見つめ、沈み行く真っ赤な太陽の美しさに小さく体をふるわせ「こわい」と小さな声を発しました。そう悲しくなるほど美しい夕日でした。                                 

 ――さん。僕もあの夕日を見ていて怖いと思いました。この幸せがいつまでも続くはずがないと思ったからです。あなたに選ばれてあることの恍惚と、そしていつかは破局を迎える不安。その二つの谷間にの中で心は振り子のように揺れていました。男と女。常に出会いがあって、苦しむことは分かっていながら求め会う。人間って弱く、悲しいものだとも思いました。        

 ――さん。感受性の強いあなたは男の僕よりも、より苦しんだことでしょう。いわば僕があなたに求めた喜びは神が許せぬ愛だったから。                           

 ――さん。あなたは今、海を渡った向こうの世界で自分を見つめ、そして本の世界にぴったりとつかってますと短いメッセージを下さいましたね。そう。こちらも今、小説の世界に浸ってます。

 司馬遼太郎の小説です。坂本竜馬を描いた「竜馬が行く」を読み、最近では「峠」を手にしていま す。竜馬が幕末の世界を風雲児のように駆け抜ければ、峠の主人公・河井継之助は豪快にいや無骨なほどの責任感を抱いて激動の幕末の世を歩きます。                      

 どちらもあまりにも男らしく、人間としてどちらにほれるべきか迷うのですが、まあ、流れに流されやすく、そして神経をとがらせ、森を歩けば歩くだけで、自分の話す声が森から筒抜けていきはしないかと、いらぬ心配する自分のような性格からすれば、河井継之助のような無骨な生きざまが好きになりそうです。                                  

 ――さん。河井は越後長岡藩という小さな藩の一介の武士として生まれました。平和な世なら単なる下級藩士として一生を終えたのでしょうが、幕末という時代が河井を求めたのでしょう。世を見る目、そして破天荒なほどの行動力が買われたのでしょう。藩主の特別な引き立てで、本来ならあり得ない長岡藩の筆頭家老まで栄進するのです。いわば大会社の平事務員がある日、突然、取締役専務という重役に就く大出世を果たすのです。そして、その実力通り、戊辰戦争では維新史上最も壮絶な北越戦争を展開し、無念の死を遂げます。その激しい生涯を司馬は詩情豊かに、そして生き生きとした河井語録(果たして本当かどうかは分かりませんが)を使って私たちの前に登場させます。                                           

 ――さん。河井を好きになった理由は様々です。まずその言葉意気がいい。そしてその行動力がいい。また、こうと決めたら目の前に巨大な岩が転がってきても動こうとしない歯切れの良さと度胸がいい。とにかく痛快な行動力と勇気は、魅力です。                  

 ある日、河井は江戸の銭湯で侠客同士のケンカに立ち会います。迷惑顔で銭湯を出て行くほかの客たちをよそに河井は居残ってその仲裁に入ろうとするのです。武士たる者が町人のケンカなんかに口出しするなんてとあなたは思うことでしょう。ええ。当時の侍はまさに君子あやうきに近づかずで、余計なお節介を焼いて恥をかくより、災難は避けて通るのが当たり前だったとか。恥こそ侍の最大の屈辱でしたから。でも河井はケンカに割ってはいるのです。

 「この野郎」「うぬア、勤番侍か、さんぴんか」と吠えられても河井は動じません。しかも「のぼり竜」とか「山姥」とか、 おどろおどろしいあだ名で恐れられている二人の侠客を前に河井は言います。           

 「やかましい」と一喝し                                  

 「おれは越後の河井継之助という者である。おみしゃんらとは町内同士の身である。そのよしみによって仲裁する。武士たる者が、このように仲裁を買って出た。出た以上、雷がおちてもひきさがれねえのが侍の道だ。仲裁をうけぬとあればおれが相手だ」

 このセリフがいいじゃないですか。雷がおちてもひきさがれねえのが侍の道だ。この武士としての矜持(きょうじ)。これこそ河井の人間性を表した行動であり、侍の誇りではないかと思うのです。                                            

 そして河井は「男子たる者の価値」を決めるのは志の高さだとも考えます。箸の上げ下ろしにも自分の仕方を考えなければならぬ。物の言い方、人とのつきあい方、息の吸い方、息の吐き方、酒の飲み方、遊び方、ふざけ方、すべてにその志をまもるための工夫が貫かれていなければならないと。何と窮屈な鋳型に自分を閉じ込めようとしたのでしょうか。でも河井はそこに武士の武士たる美を貫こうとしたのでしょう。                                

 ある日、河井は吉原の遊女を買います。小稲という遊女は吉原でも最上級に位置してます。初めての出会い。その美しさに河井は腹の中でこうつぶやきます。「いやまったく、いいおんなだ」。 司馬は書いてます。「正直なところ、継之助は落ち着いてはいるがじつは降参したいほどのおもいで、たばこをながながと喫(す)っている」と。                        

 そしていくつかの言葉のやりとりの後、                           

 「人間、虚飾など屁(へ)のようなものだ。越後生まれの継之助だと、こうおもってもらえばいい」                                            

 この継之助という名に対する自信と誇り。好きなのです。こうした単刀直入で竹を割ったような自分にはまねの出来ない性格が。                                          

 ――さん。ある日、河井は吉原の方角の火事に気づいて無我夢中で走ります。(たかが女郎のために)と露骨に軽蔑されながらもまったく意に介せず走ります。司馬遼太郎はその河井に代わってこう語ってます。「馬鹿惚れしているわけではないが、小稲を愛らしく思っている。である以上、 その危難をみては身を挺して救うべきである、というのが継之助の思想であった。継之助はその思想をもってかれ自信の心胆をねりあげようとしている。その最終の目的は藩国の危難に役立つ自分でありたいということだが、相手が遊女であってもかまわない。あの半鐘をきいたとき、かれの心胆が小稲の身を案じて戦慄した。惻隠の情というべきものであろう。その惻隠の戦慄が、かれにとっさの行動を命じた。たかが遊女のためだが、そのために火の中をくぐることも辞せぬ、そういう男で、継之助はありたいとおもっている。(色恋もまた、おれを錬磨する道だ)この理屈っぽい行動家はおもっていた」と。                                

 ――さん。長くなりました。色恋が自分を錬磨する道かどうかは知りませんが、あなたを知り、あなたと語り合った日々のことを思い出しながら河井継之助を語りたくなりました。そして、思うのです。もしも、あなたの家でも、このような災害が生じたら、自分もまた河井継之助のようにあなたのもとへ駆けつけていただろうかと。多分、後先も考えずに駆けつけていたことことと思います。自分の中にも河井継之助のように生きたいと思う憧れがあるから。そしてどうあがいても河井継之助にはなれない自分も知ってます。小さな生き物ですから。