日本の音

 何もここで邦楽論をしようなどとは思わない。角田忠信氏の「日本人の脳」が発刊されて以来、日本人の間で右脳・左脳論議が高まったのは今さら言うまでもないが、虫愛ずる日本人とか、動物と目線を同じくする日本人とか言うのが昨今ずいぶん怪しくなった様に感ずる。

 正月のムック本だったかで、対談が載っており、そのうちの一人が「日本人は実は自然は嫌いなのではないか?」と言う疑問をていしていたのを覚えている。つまり、日本人は盆栽などの延長のように手入れされ管理された自然が好きなのであって、雑草生えほうだいの虫がわんわんのと言う自然な状態は嫌いなのだ・・ということであった。確かに言える。と言うより現代日本人がそうなのだ。子供等は一様に生の虫を気持ち悪がるし、親の敵のように雑草を殺しまくっている。通常衛生害虫と呼ばれる虫の中にも、生態系、あるいはある種の産業や生活にとって益虫であるはずの物でさえ見た目の気持ち悪さだけで駆除対象となっている物もたくさんある。日本人はすでに自然との暮らし方を忘れつつあるのだろう。

 ちまたでテレビ等に流れている。歌は日本語の音韻になっていないし、こぎゃるだの孫ぎゃるだのと呼ばれている世代の話し方に日本人が培ってきた音韻に関する感受性などというのは見事に欠落している。確かに日本語の進化の一方向が表れているという面がなくもないが、およそ言葉とその音韻の表現に個人が良く見えなくなっている。ということは、ある種の恐ろしいまでの画一化が進んでいるということだろう。

 戦後50有余年、年寄りじみたことは言いたくないが、同じ社会体制、同じ様な政権、同じ様な教育、同じ様なリスクマネージメントが続きすぎて、価値観の画一化がこの国では進みすぎた・・・というと、いや音楽やファッションなど多様化も進んでいるぞ!という反論をされる方も多いだろう。が表現様式や技法の多様化ではないのだ。土を喰らい、くそまみれになるほどの価値観の多様さ・・旨い言葉が出てこないが、社会の中での暮らし方の多様さが無くなっている。聖なる物がすべて俗化されたというのか、この国では神も悪魔もすべて俗化されているような気がする。昔、狂人を聖なる物として崇めたような深みのある精神はもうこの国に戻っては来ないのだろう・・

 っと、くどき噺をしたいわけではなかった。これほどに伝統を捨て続けたこの国の、もっとも伝統から遠そうな現代ポップスの連中の中に、意外にも日本の伝統的な音感性が潜んでいるということに気がついたのだ。

 チョッパーと呼ばれるベース奏法が開発されたとき、ヨーロッパ文化圏では確かにフュージョンやらクロスオーバーというジャンルのブームに連れ、大流行はしたがあくまでベース奏法の1バリエーションという立場にとどまったように思う。が、日本ではチョッパーにあらずんばベースにあらずのように標準奏法の地位にのし上がった。現在ではなんと演歌のバックでさえチョッパーが用いられるようになったし、ベースのアクティブな演奏には必ずチョッパーが取り入れられている。

 なぜか?つまりは伝統的なベース奏法は日本人にとってフラストレーションを感じ、チョッパーによって解放されたからではないか?そしてそれは、ベース奏法自体ではなくその音に秘密があるのではないか?と考えた。

 伝統的なベース奏法とチョッパーを比べた場合、高音成分の比率がチョッパーの方が格段に増えていることが分かる。この高音成分を重視し、低音成分を絞り込むというチューンの仕方、これは実は音楽・音響にまつわる日本人の一大特徴を捉えており、今後もっと研究されるべきであると考える。

 日本のオーケストラは繊細であるとは、良く内外の評論家の一致するところである。もちろん音楽的な評価とは別に・・女性楽団員の構成比率が高いからだとか、いろんなことが言われるが、諸外国の女性比率の高い桶を聞いてもどうして堂々とした太い音に驚かされることの方が多い。絶対肺活量は訓練で相当に増えるし、肺活量や筋力が音色を決めるわけではない。つまり、日本人は繊細な(に聞こえる)音が好みなのだ、という結論に達しはしないか?オーディオ業界でも日本人の高音域指向は明白で、広帯域を唄いながら実はもっとも自慢したいのはハイの伸びなのである。オーディオマニアが真っ先に取り組むのは高音域の充実であり、低音から取り組んだという事例を、寡聞にして私は知らない。

 翻って、コンサートPAでもゆったりと包み込むような低音というチューニングには、めったにお目にかかることがなく、ビチビチに引き締めたゴンゴン来る低音が大半である。なんといっても象徴的なのはバスドラでさえアタックにむしろ神経が払われていることである。

 確かに明瞭度を稼ぎ、細かい演奏上のニュアンスが理解しやすいということで高音指向になるのはある程度分かる。が、日本人の高音指向はそれだけが原因ではなさそうである。

そこで、考えられる原因をいくつか考えてみた。

その1:家屋構造の問題
日本の伝統的な家屋は言わずと知れた、木と紙である。低音に関しての透過性が比較的良く、室内音響に関する主たる帯域は中高音であったこと。そのために室内での会話、室内芸そのどちらも中高音を重視する傾向となった。ヨーロッパなどの石造り家屋の場合は、低音が逃げ場無くこもるため低温部に関する感受性を高める効果があった物と思われる。ヨーロパ古典楽器や古典音楽が必ずしも低音楽器が多かったわけではない。ケルト当たりの音楽を聞くと良く分かる。現代音響機器を考える上でもコーナー型スピーカーはヨーロッパに於て発達しており、日本ではただでさえ低音を吸収する畳の影響をも嫌って、ブックシェルフ型スピーカーを床から離して設置するのが主流である。
その2:自然環境要因1
日本は温帯から亜熱帯までの間に国土が位置しており、しかも細長い形状の島国であることから海からの湿気の影響をもろに受け、高温多湿化で広葉樹・落葉樹林帯を発達させた。大量の腐葉土は優れた土壌を発達させたため、大地の低音吸収率は高い。翻ってヨーロッパではギリシャなどに代表されるように岩山の比率が高い。これはほとんど低音を吸収しない。もちろん豊かな森を持つ国も多いが、文化的なリーダーとなった国の環境は民族の移動の激しかった大陸ではその影響もまた大きいと言えるだろう。
その3:自然環境要因2
ヨーロッパは安定した大陸に属し、とくにイギリスはまず地震の心配はない。が、日本では地震に関する感受性が鈍いと死活問題となる。地震はその前段階で極めて低い周波数の地鳴りを生ずることが多く、このため日本人(日本民族と言った方がいいか?好きではないが・・)は持続的低音を生命を脅かす音として忌避したのではないか?ここらは、ノルアドレナリンの分泌状況などを厳密に実験することで民族的な低音に関するストレスを調べることで判明するのではないかと思われる。どなたか裏づけの実験をしていただきたい。
その4:日本語の言語的特徴による
これは角田氏の論文とも重なるため詳述しないが、日本語の場合子音成分のみならず、母音自体も明瞭に聞き分けられないと言語的に成立しにくい、と云う問題が日本人をして高音指向にさせたのではないかと考えられる。ヨーロッパアルタイ言語圏の子音を発達させた言語の場合は、ほとんど子音だけでコミュニケートできる。ゆえに母音の部分を完全に楽器化(破壊)したベルカント唱法などという物が生まれたが、日本語では母音の破壊は致命的であり、日本語によるオペラなどの意味不明瞭さを生む原因となっている。このことが日本人の中高音指向に拍車を掛けていると言える。つまり、母音がきっちり聞き分けられるためには相当の中高音域の明瞭さがないといけないのだ。これは、日本人にためのミキシングバランスにも相当の影響を与えており、ヴォーカル偏重の日本の音楽シーンの一因となっている。ヴォーカル物でトラックダウンを日本と欧米で行った物とを聞き比べると確認できる。

 さて、かような条件下で発達した純邦楽のための楽器群は大太鼓以外の低音楽器を持たなかった。能楽・雅楽・謡物・長唄・新内・民謡・神楽とどれを取っても低音でたっぷりと歌い上げるなどという様式ではない。上記要因が日本人の美意識に深く浸透しているだろうことは、疑う余地がない。

 近年、小室ファミリーの楽曲が何処を歩いても耳に入る。好き嫌いや、音楽的評価は置いて、大きく特徴的な物を拾い上げるとダンサブルなビート攻勢、ハイトーンのボーカルラインなどが目に付く。もちろん小室氏の作品にはそれ以外にも特徴はあるのだが、この点だけを取り上げると昨今の曲の大概に当てはまることに気がつく。そして、チョッパーベースの隆盛などと併せて考えるに、現代の若者文化でさえたっぷりとした低音という物に忌避を感じているのではないか?という点である。

 なぜ日本でたっぷりとした低音で歌い上げるゆったりしたバラードが無いのか、これで理由付けできるような気がする。ことごとくがハイトーンのてかてかした声の持ち主で、洋楽物で日本で流行る物も良く聞くとハイトーンの歌手が多い。(マライアキャリーなどが典型か・・)

 見方を変えると、これほど日本文化が変質していった今でも、若者の血の中には日本人として長い年月に沈澱した美意識や恐怖心の折が残っていることになる。ある意味での伝統の伝承者なのだろう。