捻れた根性は曲がっているか・・

 仕事じゃあるまいにきちきちしたことをするつもりはさらさらないので、いつどんなふうに変化するかは気分次第のページである。今の自分と数秒後の自分が一緒である自信なぞない・・諸行無常であり、だからここでの発言に責任を持つ気もさらさらない。信じるものは救われる前にだまされるし、自分の未来なぞ分かる人がいたらさらし者にしてやる!ってなもんだ。有るものは有るし、無いものは無い。見えたものを信じるほど純粋ではないし、言葉なぞ昔から信じてない。人間はあるいは好きかもしれないが人類は嫌いだ。メリットはそのままデメリットになるし、長所もまた然り・・文章の中に宝を見つけるかゴミと思うかそれもまたみる人次第・・所詮人間は自分が見える様にしか、世の中は見えないのだ・・

 だから徹底してエゴイズムのページである。だって俺あんたからびた一文もらって無いもんね・・覗くのもあんたの勝手、こちとらある程度覗かれるのを計算して適当に作ってる。ただそんだけ・・

 いろんなアイデアも検証なぞせずにのっけてある。もともと肉体感覚と一致しない理論は、どんなに権威者が何を言っても絶対に信用しないことにしている。納得しないものはどんなに理屈をつけても納得しないのさ・・大体、まだ自然も世の中も分かってない、だからこそ研究するのだ・・という基本的なことを忘れている学者や知識者崩れが多すぎるよな・・そんなに分かり切っていると思うならもう研究する必要なんぞ無い。世界も自然も世の中もミステリーなのだよ。まだまだパラメータは不足しているし、測定方法も、技術も足りない。科学的分析法などという言葉がすでに限界を示している。「分析?」・・分析で物事が理解できるという考え方自体が、まぁ信仰だろう・・

 大概の物事は、シンプルなものが複雑に絡み合っている。すべての理論は無体なほどの単純化から仮説が出発しており、その仮説自体が無理が有ると疑問を持つ人は少ない。数学的解釈自体がすでに相当の単純化が進められていたりする。まぁ有機物の構成原子が分かっているからといって有機物すべての性質が分かるなどという無謀な科学者は居ないと思うが、他の分野や他の事例ではしばしばそういう論調が見られるのは情けない限りである。

 たとえば、音というのは不思議なメディアである。その長大な波長は、その全体像をめったに観測者に見せない・・蛇の全体像を1箇所の輪切りの断面のみで判断しようとするように観測者に対して音は大きすぎるのだ・・マイクロホンを通じて録音された音はその巨大さを隠してしまう。マイクロホンの大きなもので1インチ強・・発音源は大きいものだとパイプオルガンか?あの巨大な音像いや発音体自体の大きさの実は一部しか電気にはなっていないのだ・・音はきわめて立体的であり、ミクロの領域でも実に空気分子は立体的に動いている。なのにマイクロホンは1次元の動きにアイソレートし、我々は2次元の波形として観測する。この2次元の波形を音そのものであるという錯覚、あるいは信仰が我々を音というものの本質から誤らせてしまう。

 かように物事というのは不可思議である。我々は時に波間に浮かぶ小舟のようにあるがままの流れに身をゆだねることもまた必要なのだろう。意識や理性で押しきることももちろん必要であるが時には感覚だけを研ぎ澄ませ、まわりのあるがままに浸りきることも必要なのかもしれない。

go top 混沌の果て